根本仏教講義

19.お受験で知識をはかれるか 3

なぜ勉強しなければならないのか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

前回は、勉強の『裏ワザ』は、先生との関係にあるというお話をしました。
しかし、これまでお話ししてきたのは知識の世界のことで、それほど大げさに考える必要はありません。ただ概念を詰め込むだけのことですから、時間は少しかかりますが、やろうと思えば、脳細胞にいくらでも概念を詰め込むことができます。あれもこれも勉強してみたいと思えば何でもできます。時間がかかるからなかなかできないだけのことです。能力がないわけではないのです。医学も工学も、勉強したいというならできますよ。能力はあります。
でも合格して一人前になるためには10年、20年とかかる。20歳から頑張れば、もう40歳になっているんですね。だから時間がないだけなのです。
「時間がない」ということなのに、「頭が悪い」と思っているのですから、それこそ本当に頭が悪いんですね(笑)。単純に時間がないだけですよ。だから知識について大げさに考える必要はありません。

生きていくために学ぶ

仏教では、知識だけではダメだと言います。なぜ我々は勉強をするのでしょうか?
それは仕事をして生きるためなのです。学校に行って勉強したからといって、何でもかんでも教えてくれるわけではありません。ただ人は、何か仕事をして生活しなくてはいけない。ただで食べさせてもらえるということはないのです。ただで住居を提供してくれるところはないのです。ただで提供してくれたように見えても、誰かがそれをつくらなくてはなりません。ただでご飯を提供してくれるといっても、誰かがそれをつくっているのです。どこかで、お金がかかるのです。

この世の中で、ただで生きられるということはありません。まもなく呼吸することもただでなくなりますよ、空気が汚染されてしまうと。今、水にお金を払っているでしょう。以前は、日本はいちばん水のきれいな国と言われていたでしょう。なのに今は水にお金を払っている。ただではないのです。もっと人間が頭がよくなって進歩すると、空気にもお金を払うことになります。昔は、空気と水ぐらいはただでしたけれどね。

ですから、なぜ勉強をするのかというと、何か仕事をして、生きていくお金を稼ぐためです。でも仕事は、学校の勉強、知識だけではできません。もう一つやらなくてはいけないことがあります。それは技術です。

お釈迦さまはいつでも、学問と技術の二つを身につけるべきですよと言われます。学問だけでは食べていけません。先生にはなれるかもしれませんが。でも世の中みんなが教師になるわけにはいきませんから、学問だけでは生きていられないのです。技術が必要なのです。いちばん食べていくことができるのは、技術の世界なんです。だから技術には、ずいぶん神経を使った方がいいんです。

マンガラ・スッタ(Maṅgala sutta、Sn:261)には「幸福になりたい人はバーフサッチャとシッパの二つを獲得しなさい」(bāhu saccañ ca sippañ ca)と書いてあります。バーフサッチャンというのは、知識。知識を勉強しなさいということ。シッパンというのは技術のこと。何か技術を身に付けなさい。それで幸福になるんだと。

学問と技術の2つを実らせるために必要な条件がもうひとつあります。(vinayo ca susikkhito/ビナヨーチャ・スシッキトー)。道徳的な、人格のある人間になりなさいという意味です。いくら技術を身につけても、いい加減な人は雇われませんからね。性格が悪い人は役に立ちませんから。学問も技術も必要です。でもそれを生かすためには、道徳的な人間になること。この3つがそろうと、人間はこの世の中で完全に生きていられます。幸福で生きていられます。

勉強はほどほどに

先ほども言いましたが、人間は勉強すれば知識を身に付けることはいくらでもできる。誰にでもできます。天才というのはありえません。みんな天才ですよ。ちゃんとオートバイに乗ればね。オートバイのうまい乗り方というのは、先生と仲良くすること、ただそれだけのことです。先生と仲のいい関係にあるなら、何でも勉強はできる。それぐらい単純なことで。でも失敗するのです。

それで「いくらでも勉強ができる」というと、どこまで勉強すればいいかという問題が出てくるのです。どこまで勉強をすればいいのでしょう? 勉強に対する欲が出てくると、人間は勉強を際限なくやってしまうのです。病気になるまでやってしまうんですね。そこまで必要でしょうか? 欲にはきりがないから、どうにもならなくなってしまいます。だから「どこまででも勉強してやるぞ」というのは、あまり意味がないのです。

自分の人生が幸福で、いわゆる人生が安定するところまで勉強したら、つまり「これで安定です」「これでいくらか安心して生きていられる」というところまできたら止めたほうがいいんです。

どこまで勉強すればいいか? その答えは、自分の将来を安定させるところまで。世の中には安定したものは何もないのですが、常識的に「このぐらい勉強しておけば、食べるものには困りません。仕事は安定するでしょう」というところまででいいのではないかと思います。

世の中にある知識は何でも勉強するということではないのです。世の中の知識なんて、それほどたいしたものではありませんよ。勉強しすぎると、かえって頭が働きすぎて、全然まとまらなくなります。あれこれといろんなことを知りすぎると、結局何もできない人間になる場合もあります。ですから、勉強のしすぎもよくないのです。

インド文化では、「人は死ぬまで勉強するべき」と言います。それはインド人の欲なのです。中国人にもそういうところがありますけどね。

実際にあったことではないと思いますが、エピソードがあります。
あるバラモン人が、「世界にあるすべての知識を学ぶぞ」と考えて学び始めたそうです。
その人はいろいろな人と話して勉強し、やがて全部知ったという状態になります。誰と話しても、その人が話すことは自分も知っている。新しい人に出会ってその人と話してみたら、その人の知っていることは自分も知っている。「ああ、私はこの世の中の知識を全部学んでしまったぞ」と思ったそうです。その人はもうかなりの歳でした。そこである人に出会ったんです。なかなか社会に出てこない人でしたが、その人と話してみると、自分が知らないことをその人は知っているんです。それは、何か効き目のある恐ろしい呪文なんです。インド文化には呪文文化や呪術文化がありますからね。四つのヴェーダの四番目は呪術なのです。「ああ、これは知らなかった。まずかった」と思い、そのバラモン人が「私に教えてください。弟子にしてください」と言うと、「いくら頼まれても人に教えることはできません。これは私が特別に扱っている知識で、これを人に与えることは無理です」と言いました。しかし、この人は負けませんね。すべての知識を獲得しようと思っていたのですから。だから頑張って、弟子入りをお願いするのです。そうすると、この人が言うのです。「これは、人に話すと、聞いた人がその場で死ぬのです。そのぐらい恐ろしい呪文です。あなたはそれでもやるつもりですか?」「それでも何か知らないで死ぬのはいやです。死ぬ瞬間まで、それを勉強しておきたいのです」と言って、弟子入りをお願いするのです。「それなら穴を掘りなさい」「なぜですか?」「お前は死ぬのだから、私が穴を掘るのは面倒くさい。死んだら土ぐらいは入れてあげます」と言って、本人に穴を掘らせたのです。本人は堂々と掘るのです。知識欲で、死んでもいいと思っていますから。「掘りました」「じゃあ穴の前に立ってください」と言って、穴の向こう側から先生は新しい学問を教えてあげました。それがちゃんと身に付いたときに、その人は死んでしまいました。それで土に埋めて帰ったという話です。

本人は、あらゆる知識を得たのですが、それは何のためだったのでしょうか?
物語が教えるのも、あれこれ何でもかんでも勉強をしなくてもいいということですね。「人は死ぬことも怖がらないで勉強をするものだ」ということを教えるエピソードなんですが、私から見れば逆ではないかと思いました。「そんなに真剣に勉強をしなくてもいい」と。何でも勉強をすることはできますが、必要ではないのです。

知識と技術、何を学べばいいか

技術の場合はどうですか? 技術の場合は、知識のように、何でもできるということはありません。各人にできる技術とできない技術があります。でも仕事は技術で得られますよ。技術がなければ仕事はできません。食えません。

では世の中にある技術は、何でも自分にできるかというと、できないのです。できることがあって、できないこともある。ですから自分にできる技術を身に付けることです。

エンジニアの技術は持てても、音楽の技術は持てないかもしれません。音楽家であっても、絶対に演奏できない楽器があるかもしれません。いくら頑張って練習をしても上手にならない。学問の場合は向き不向きはありませんが、技術の場合は向き不向きがあります。だからみんな、それぞれ仕事を選んでいるのです。

トッラクの運転手は、医者を見て、うらやましいと思う必要はありません。「私も勉強して医者になったほうがよかったなあ」と思わなくてもよいのです。勉強はできるかもしれませんが、医者になれるかどうかは、技術によりますからね。

私には、医学に関する文献なら簡単に読めます。どんな専門分野でも、英語であれば読めます。理解もできます。だからといって医者ではありませんし、医者にはなれないと思います。あの環境に一生いることはできないと思います。死ぬまで患者さんの話を聞きながら、わがままを聞きながら。仕事に行くぞと言って、病院に行くのですからね。それに、知識は得られますが、技術は得られません。若い頃は、手術の過程を全部説明できたんです。だけど私には手術をすることはできません。説明できたのは知識であって、技術ではありません。

私たちは、すべての技術を身に付けることは不可能なのですから、自分の気に入る、自分にあった、簡単に身に付けられる技術を持つことです。技術の場合も基準がありまして、何でも技術を身に付けることはかえって危険です。試したくなりますからね。だから余計な技術を身に付けることもよくない。

勉強もたくさんありますが、選ばなくてはいけません。技術もたくさんありますが、自分に合うことを選ばなくてはいけません。選ぶ基準は何か? それは自分だけの問題です。誰も選んでくれません。親が学校と一緒に、学問を選ぶこともありますが、とんでもないことで、これは子供が選ぶことなのです。将来何になるかというのは、子供の世界で、子供の勝手でいいのです。それで不幸になろうが幸福になろうが、勝手にすればいいのです。親が心配して決める必要はないですし、親にできることではないのです。学校の先生にできることでもありません。何を勉強して、どんな技術を学ぶかということは、子供の問題。ですから、子供にとっては大変な問題なんですね。子供も経験がないのだから困りますが、お釈迦さまが一つ、基準を教えてくださっています。

その学問、技術はあなたのためになりますか? 仕事になりますか? それで食べていけますか? ただ好きだからやるのではなくて、まずそれを考えなさい。若者は音楽をやりたい。みんなやりたいのだけれど、ほとんど誰もプロにはなれないでしょう。若いときは、誰でも音楽に興味を持つ。耳に心地よくて、自分もやりたくなるのです。しかし、あれは遊びでいいのです。年をとるとすぐイヤになるんだからね。才能がなくて、困って、仕事もなくて、大変困るのです。

ですから「何をやるか」と考えるときは、私は一生これで食べていくことができるか、いわゆる自分のためになるかということを考える。次に、その仕事は世の中のためになるか、みんなのためになるかを考える。その二つで選べばいいのです。そうすると問題はありません。(この項つづく)