根本仏教講義

19.お受験で知識をはかれるか 4

勉強すべきかどうか判断しよう

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、なぜ勉強しなければならないのか、何を学ぶべきなのかについてお話ししました。
結論からいうと、余計な知識と技術は学ばないほうがいい、ということになりますね。必要のないことはやめてください。仕事につながらないことはやめること。一生、自分が仕事をして生活できるという技術と知識を身に付ければ十分です。

不要な知識と技術は自分を苦しめる

余計なことをやると、人生は苦しくなります。仕事に関係のないことを一生懸命に勉強すると、時間が足りなくなります。子供がよくやっているでしょう。先生が一生懸命に授業をしているのに、裏で隠れて漫画を読んでいる。漫画からも知識を得られるかもしれませんが、その時間は勉強に使う時間でしょう。だから後で苦しむのです。余計な知識、技術はよくない。

あれこれと余計なものが頭に入ると逆効果なのです。技術の場合も危険なものがいろいろあります。科学の研究や、原子の研究も決して悪いことではないのですが、あまりにも技術が身に付くと爆弾まで作る。だれかが、爆弾を作ることを勉強してみたとします。するとたまに試したくなるのです。それで人生は終わり。いくら「勉強することは面白い」といっても、危険な技術だけは間違っても身に付けないほうがいいのです。「結構です」と拒否する勇気を持ちたいものです。やり方を知れば、うまくいくかどうか、やりたくなるものなのです。人間というのはそういうものです。

ですから、必要のない知識と技術はきれいさっぱり捨てることです。なぜ我々が苦しんでいるのかというと、必要ない知識と技術で、自然破壊、環境破壊をし、人類を殺している。一方で人間は食べるものがなくて飢えている。これらは必要のない知識と技術を持ったからでしょう。
純粋な科学発展なら、地球上の人間がみんなお腹いっぱい食べることができて生活できるはずでしょう。みんなに住むところがあるはずでしょう。結果はどうですか? 住むところがない人々の方が多い。食べるものがない人々の方が多い。平和に生きる人々の数は少ない。飢えている人々、殺された人々がたくさんいるのではないですか? すべては不必要な知識と技術のせいなのです。

人間として学ぶべきでないこと

『悪い知識』について少しお話します。悪い知識とは何か? 悪い技術というのは、世の中にはそれほどありません。武器や、麻薬や、毒の作りかた……そのぐらいです。

でも、悪い知識はかなりたくさんあります。知識というのは、一見かっこよく見えるんです。勉強だから、本を読むことだから。でもちょっと調べてみる必要があると思います。どんな知識でも一見かっこよく見えます。
たとえばアラビア語を勉強していれば、「かっこいいですね」となるのです。「アメリカインデアンの言葉を勉強している」というと、「すごいですね」となるのです。ですから知識の場合はどんなものでもかっこよく見えます。

だからといって何でもやってはいけないのです。知識が、怒り、憎しみ、戦い、余計な欲、殺し、戦争、そういうものに間接的にでも影響を与えるなら、それは悪い知識だと思って捨ててください。

学問が怒りを育てる。学問が嫉妬を育てる。学問が憎しみを育てる。そういうことも多々あるのです。たとえば歴史の場合。日本も正しく歴史を教えてはいないし、韓国も正しく歴史を教えていないのです。憎しみを育てることと、嘘をつくことの両方でしょう。だから歴史はやめた方がいいのです。

それから差別。勉強した結果、自分が差別主義者になってしまう。日本人は日本の歴史を勉強する。学校向けの本を書く人は、日本民族は世界一、誰にも負けないぐらいの唯一の存在だという方向へ結論を持っていくのです。地球の人類はみんなただの人間なのです。民族にはそれぞれ色々な歴史があるのは当たり前のこと。だからクールな気持ちで、淡々と、客観的に勉強をしなくてはいけないのに、すぐ主観的になって、すぐに舞い上がって、余計に評価して教えてしまうと、学ぶ側もその気になります。その気になって「私は日本人です」といって、人を軽蔑、差別しようとするのです。

ですから日本人の歴史を勉強するなら、日本人はどこから来たか、何人と何人が混ざっているか、それを知ることは悪いことではありません。
それでもって、差別意識、優越感がでてくるならやめた方がいい。これは危険。それが仏教的な立場です。
勉強した結果、「みんな同じです。みんな一生懸命に頑張っている」という平和な思考、慈しみの思考がでてくるならいい勉強なのです。

「我々は唯一の神を信仰している」という人々もいますね。神から授かった本もありますし、神の言葉もあります。読んでみると、いいことも書いてあります。我々は「いいことが書かれているな」と感じます。神の言葉だからではなく、我々にも納得できる、誰にでもわかる道徳がそこにあるから、いいと思うのです。

しかしそれから先へ、どんどんいくのです。「絶対的な神に完全に従うべきです」「いちばん悪い罪は神を裏切ることだ」「世の中には神を信仰する人と、しない人がいる」……
そこから、人を差別する。それで殺すことになるのです。だから世の中で殺しあっているのです。

昔のカトリック教でも、堂々とそれを教えていたのです。神を信仰する人と、しない人の二つに分ける。それは学問とはいえないでしょう。教えというのは、人類に語るべきなのです。ブッダの教えのように、信仰する者と、しない者を区別することなく。

この前、爆弾テロを起こした人が話しているところをテレビで見たのですが、とんでもない爆弾テロを起こして、何人もの人を殺して、裁判にかけられているのですが、威張っているんですね。「人がいつ死ぬかというのは神が決めるものだ」と言って、ひとかけらの反省の気持ちもない。
この人々は何を学んだのか? 人間として学ぶべきでないことを学んだのです。だから爆弾テロを起こして、自分も殺されるのですが、他のテロリストたちも言うのです。他のテロリストたちは、「あの人は捕まってしまった。これから刑務所行きか処刑か終身刑になるでしょう。でもめげてはいけない。あの人のようにしっかりとした信仰をもつべきだ」となるんですね。

人殺しに影響を与え、人に不幸を作る知識は、この世の中にすごくたくさんあります。ダイエットの知識もたくさんあります。痩せる方法の知識もかなり人をダメにする場合があります。そういう知識はいっぱいありますから、気をつけて自分たちが判断をしなくてはいけない。何でもかんでも勉強すべきではないのです。

人間は感情的に弱いから、勉強したものは実行したくなる。技術が身に付いたらどこかでやりたくなる。免許をとったら運転したくなるでしょう。用があってもなくても。技術や知識が身に付いたら、使いたくなるのは人間の弱みなのです。それが人間の感情です。どうにもならない。ですから、悪いことは身に付けないほうがいいのです。

仏教が言うのは、悪いことは悪いと、先に判断をする能力をもってほしい。ちょっと勉強をすれば、途中で分かるのです。反論して、質問をして、自分で考えてみるとわかるのです。

ある仏教の人々が私にこう言いました。如来は、宇宙も人間もすべて、如来の分身として創った。如来は四人の如来を創って、それから菩薩のグループを創って、地蔵などいろいろ創って、人間を創って…。それら全部、如来の分身で同じであると。といっても、我々人間は苦しんでいるのだから、あなたがたは修行をする必要があるんだと。そのために創っているのだと。

私が言ったのは、「その如来はアホではないか。自分が勝手に造って、勝手に苦しめて。何か問題でもあったんですか? 最初から自分の分身を創って、現象世界を創ったのには」と。

「すべては仏様の分身だ」なんていうと、ものすごく知識っぽく聞こえるんですよ。「あーなんて素晴らしい言葉ですか」と。ちょっと調べてみるとあまりにもくだらない、理屈が成り立たない話になるのです。それは同じ仲間の宗教だから言ったのですが、ちょっと反論してみれば、論理はガタガタで、非道徳的だということはわかります。
みんな如来の分身ならば、たとえば殺人者がいると、その人は威張るのです。「私は如来の分身だ。私は殺人するようになっている。あなたにも分かるでしょう」と言ったらどうしますか? 「私は如来の使者です」と言うとどうなるんですか?

ですから、「すべては如来の分身だ」というと、なぜ人を殺してはいけないか、なぜ嘘をついてはいけないか、という論理が成り立たなくなります。だから道徳が否定されます。

だから何かを勉強する場合は、ちょっと調べる必要があります。結論として、鵜呑みはよくない。これはお釈迦さまははっきりおっしゃっています。正しい教えかそうでないかは自分で判断しなさい。理性を持ちなさいと。

たとえ私がブッダで悟っていたとしても、信じてはいけない。言ったことが正しいか否かを調べてみなさいと。幸福になるためには、きちんとした理性を持つ。自分で判断する。反論もする。イヤな教えだと分かったらすぐに捨てる。

ときどき子供たちは、色々な信仰宗教団体に引っ張られます。そのときは面白がって行ってもいいのですが、何か変だなと思ったら、すぐその瞬間にやめる。そのぐらいの勇気が必要です。

「この宗教をやめたら不幸になります」と言われても、「脅すなよ」と言い返す。私を脅そうとしたとき、そう言ったことがあります。「この宗教を批判したらとんでもないことになる」と脅す。「例がありますか?」と聞いてみると、いくつか言うのです。「暴力団に殴られたり、いじめられたり」と。私は「私は怖くありません。君らの身が危ないですよ。これから気をつけなさい」と。ですから悪いとわかれば、すぐに捨てればいいのです。(この項つづく)