根本仏教講義

27.なぜ苦は偉大なる真理なのか 2

人生は迷路

アルボムッレ・スマナサーラ長老

結局のところ、私たちは苦しみを抜けて抜けて、乗り越えて乗り越えていっても、次から次へと出遭うのは、苦しみです。ですからお釈迦さまは「一切は苦しみです」とおっしゃったのです。

(前号から続きます)

お釈迦さまは次のようにおっしゃっています。
「一切の形成されたものは苦(dukkha)であると知ったなら、それによって人は一切の苦を乗り越える。これが清らかな道である」

世の中の組み立てられたもの、形成されたもの、すべての現象は苦しみである、ということを正しく理解することによって、私たちはあらゆる現象に対して嫌悪感といいますか、厭う気持ちが生まれてきます。それで、清らかな道・聖なる道を歩むようになります。これこそが悟りに至る道であり、真理に出会う道であり、苦しみを克服する道なのです。

人生は壁だらけ

次に、私たちの生き方について考えてみましょう。仕事は大変ですし、人間関係も大変です。ものすごくストレスがたまり、悩んで悩んで夜も寝られません。髪の毛が抜けたり、胃に穴があくことさえあります。さらに悪いことには、そんなにまでして苦労して頑張ったとしても、なかなか思いどおりの結果は得られないということです。それでも私たちはとにかく努力します。歯を食いしばって頑張るのです。どんな困難に出遭っても、なんとか頑張って先へ進もうとするのです。

でも、考えてみてください。そうやって闇雲に頑張れば「人生の苦しみ」を乗り越えることができるのでしょうか?

残念ながらできないのです。なぜなら、一つのことがうまくいったとしても、ほかのことがうまくいくとはかぎらないからです。次にまた壁があるのです。その壁をどうにか乗り越えても、また次の壁にぶつかります。結局、壁を乗り越えて乗り越えても、次から次へと壁にぶつかるのです。人生は迷路のようなものです。いったん迷路のなかに入ってみたら、壁だらけ。右に曲がると、壁。もと来た道を戻って左に曲がると、また壁。まっすぐ行ってしばらく歩くと、また壁……。そしてまた壁……。歩いても歩いても、ぶつかるのは壁、行き止まりなのです。果たしてこの迷路に出口はあるのでしょうか?

迷路の出口はどこに?

一般的に「頑張る人」というのは、仕事がいくら苦しくても、「私は負けません。頑張ります」と、徹底的に踏ん張ります。負けたくありませんし、どんな苦労をしても頑張るのです。たとえば脳出血で突然倒れた場合、脳はかなりの損傷を受けます。半身が麻痺したり、ろれつが回らなくなったりするでしょう。でも頑張る人というのは、想像できないほどのリハビリを実行し、リハビリにリハビリを重ね、運動に運動を重ね、なんとか動けるように、話せるように、と頑張るのです。健康な人にとっては手を上げることなどどうということはありませんが、病気の人にとっては想像を絶するくらい大変なことなのです。健康な人の三百倍ぐらいの運動量があるかもしれません。このように、頑張る人というのはとにかく頑張って、泣きながらでも立ち上がろうとするのです。

そこでお聞きしたいのは、そうやって脳出血で倒れた人が医者に、「一生寝たきりになるかもしれません。もう歩くことはできません」と言われ、それでは気がすまないからといって毎日苦労してリハビリをおこない、歩けるようになり、話せるようになりました。それで、何か得られたのでしょうか?

たとえば病院で健康診断をしたところ、ガンが見つかったとしましょう。医者に、「あなたはガンです。悪性でかなり進行しています。この調子でいくと、命はあと五年ぐらいでしょう」と言われたとします。ショックで腹を立て、「あなたにそんなことを言われたくありません。私はまだ死にたくありません」と言って、自分でしっかり頑張って、世の中の健康法や治療法、食事療法をあれこれ試して、それでガンを克服したという人もときどきいます。周りの人たちはその人を見て、「すばらしい、勇気づけられました」と涙を流したりもしますが、では、その人は「人生の迷路」から脱け出ることができたのでしょうか? 生きる問題は解決したのでしょうか? すべての苦しみから解放されたのでしょうか?

お釈迦さまは、「あなたはそれで何を得たのでしょうか」という立場をとるのです。これは高い山を登った登山家のようなものです。ある有名な登山家が山を登り終えたあと、テレビや雑誌のインタビューで、このように言ったりします。「ものすごく大変でした。滑って落ちそうになったこともあって、死ぬ寸前でした。それでも私は頂上まで登り切りました。ほんとうにつらかった……でも頑張りました」と、苦労話や満足感、達成感を語ったりします。でも、その人はそれで何を得たのでしょうか? お釈迦さまから見ますと、それは単に山を登っただけのことで、涙を流して感動するほど「すばらしい」と言えるものではないのです。

お釈迦さまは、はじめから違う次元で語っています。夫婦喧嘩をすることは苦しみだ、というのは、お釈迦さまにはあまり関係のない次元の話です。それぐらいのことは夫婦間で解決できますから、自分たちでやりなさいと。自分が経営する会社が倒産して、もうどうしていいか分からないと絶望しているとしましょう。大きな借金をかかえ、家族を養うこともできないし、食べることもできないし、この先どう生きていけばいいのか分かりません。「大変だ、もう終わりだ」と絶望しています。でも、本当にもうどうにもできないのでしょうか? どうにだってできるのです。簡単です。自分の会社が倒産したなら、人の会社で働けばいいでしょう。そうすれば家族を養うくらいの収入は得られますから。

日常の苦しみには、それなりの答えがその場その場であるものです。どうということはありません。絶望する必要はないのです。自分の会社がつぶれたなら、一から立て直してもう一度会社を立ち上げるか、あるいはサラリーマンとして他の会社で働くか、どちらでも同じことです。どちらにしても収入は得られるのですから。

事故で足が使えなくなったとしましょう。その場合、リハビリをして足を使えるようにするか、いらない足だから切断するか、どちらでもたいした違いはないのです。リハビリをして使えるようになっても、足を切断して義足を使っても、どちらにしても歩けることには変わりありません。

このように、なんらかの単純な答えがあるのです。ほんとうは私たちが考えている人生の苦しみというものは、あまりにも単純すぎるものなのです。でも私たちはそれに悩み、「生きることは苦しい」と嘆いているのです。旦那が不倫をして家を出て行き、子供も家を出て行きました。残された奥さんは、「私の人生ってなんでしょうか、もう生きていても意味がない」とひどく悩み、とことん落ち込むでしょう。でもそれはたいしたことではないのです。旦那と子供がいてもたいしたことはないし、出て行ってもたいしたことはないし、また戻ってきてもたいしたことはないのです。お釈迦さまはそういう日常レベルの苦しみのことを語っているのではありません。そんなことは自分でなんとか解決できるものなのです。お釈迦さまはもう少し違う次元のことをおっしゃっているのです。

(次号に続きます)