あなたとの対話(Q&A)

暗い考え方を変えたい/大切な人の自死について

パティパダー2013年6月号(189)

暗い考え方を変えたい

健康、経済問題、仕事の事などで悩むようになって考え方が暗い方向に行きます。気にしないで、明るく生きようと思うのですが、うまくいきません。考え方が明るい方向に向いていくアドバイスをお願いしたくて質問させていただきました。よろしくお願いいたします。

考えるべき四つのこと
 人間は主観で考えるように、妄想ばかりするように、プログラムされています。そして人間だけに、生まれる時からすり込まれているこのプログラムを変えることが出来るのです。俗世間では、negative思考に対してposoitive思考しなさいと言われていますが、仏教的にこの考えには賛成できません。悪いものは悪いと良いものは良いと正しく観察しなくてはいけません。ですから、必要なのは客観的な思考です。人は、客観的に、具体的に、理性に基づいて物事に対して、考えなくてはならないのです。だからといって、何でもかんでも考えるのではありません。そんな暇は人にないはずです。

では何を考えるべきなのでしょうか?
1.自分に対して有効で、欠かせないこと
2.周りに、親しい人々に、関係のある人々に有効で欠かせないこと
3.一般的に「慈しみ」に関わる思考
4.(一番大事)自分に何とかできること。改良したり、変えたりできること。

以上です。

●妄想で世界は変わらない

 自分が考えている内容は、以上の四つに当てはまりますか? 当てはまるなら、暗くなるのではなく、元気になるはずです。もし、以上の条件からはみ出しているなら、自分で自分を意図的に破壊の方向へ追い込んでいることになります。

 健康、仕事、経済、将来のことなど、考える必要のない項目です。自分に何か出来ることがあれば、それをやるだけで充分ですよ。誰かさんが考えているからといって、妄想しているからといって、世の中が変わるわけではありません。

 なぜ人間は、管轄外のことを妄想してしまうのでしょうか? それが楽しいことならば、まだ理解できますが、楽しくなるどころか、暗くなって落ち込んでしまっている。

●生きているだけで奇跡的

 私たちのこころは「無知」に支配されているのです。もっと具体的に考えるならば、別の世界が見えてくるはずです。人生には希に、不孝なこと、上手くいかないことが起こりますが、ほとんど上手くいっているでしょう。99%幸福に生きているのに、不幸に遇った1%だけが気になってしょうがないというのは、合理的ではありません。「自分はどれほど幸せものか」と改めて観察してみてはいかがでしょうか? ただ、やったことがないだけでしょう。びっくりする結果になると思います。

 この世で人間が生きられるだけでも、奇跡的です。生命のなかで、人類は最も弱い部類の存在でしょう。しかし、私たちは生きているだけではなく、贅沢に生きているのです。あらゆる問題を解決しながら、乗り越えながら生きているのです。人間皆、互いに協力し合って、生きているのです。誰かが、困ったり不幸になったりしたら、周りの人々は放っておかないのです。心配してくれるのです。社会に、他人に迷惑ばかりをかけて生きているのに、誰もそれに文句言わず、認めてくれるのです。

●自分の幸福を考える

 自分の幸福を考えてください。あなたは、昨日や明日のことに悩んだのです。その明日とは、今日のことなのです。現実に「今日」を観ると、あの悩みはバカバカらしいのです。何事もなく生きているではないですか。悩んで損しただけです。悩みに時間と力を浪費したために、昨日を充分、思う存分に生きることが出来なくなったのです。失敗したのです、明日のことを妄想・推測して。同じ失敗を今日もやるつもりでしょうか? もう止めましょう。私たちは幸せです。病気になっても幸せです(優れた治療が待っています)。失業しても、幸せです。しぶとく生きられる勇気が湧きますから。新しいことに挑戦するチャンスが訪れますから。

 末期の病だと宣告されても、幸せです。やらなくてはいけないことばかりで、踏みつけられたような感じで生きていたのに、肩の荷が全て降りて、楽になりますから。明日の計画なく、今日を楽しく、安穏で生きられますから。

●ただの小さな人間になる

人は、社会状態を変えられないか、経済状態がよくならないか、健康で長生きできないか、などと考えるものではありません。それは態度が悪すぎです。全知全能の神になったような気分です。頭を岩にぶつけても、岩は潰れません。自分の頭が、確実に潰れるのです。「神様に成り上がる」のは病気です。

 ただの、小さな人間になってください。助けられて生きている人間になってください。皆から受けている恩恵を笑顔でお返しする人間になってください。具体的なデータに基づいて観察するならば、あなた自身も、今まで幸福三昧で生きてきたはずです。あなたは宝の山の上に座って、座り心地が悪いと文句を言っているのです。座心地が悪くてもどうでもいいいのです。その宝を存分に使っちゃえばいいでしょう。

「智慧こそが、人間にとって最高の宝です。」(釈尊)


大切な人の自死について

二年前に親戚が自殺しました。まだ二十代でした。彼女の自殺にわたし自身はなにも責任はありませんが、こういう死に方で彼女がいなくなったことをなかなか受け入れられずにいます。自分に責任がないこととはいえ、思わぬ不幸にただ涙するばかりです。「自分に責任のない問題だから無視しよう」とも考えますが、なかなか笑顔が戻らない日が続いています。どうにかして笑顔を取り戻したいです。

「他人の自殺に悩む」――この問題は私に解決できるとは思えません。
 ただ、その精神状態について解説することなら、何とかできます。しかし、厳しい言葉になることだけは避けられません。

●正常な反応

 ひとが死んだら誰でも冷静にいられるとは思えません。動物の死にさえも、こころは痛むのです。誰の死に対してもこころが痛むなら、それは正常なことで、こころ優しい人間だとも言えます。しかしこの状態はこころの病に繋がらないし、死を自然現象として受け入れて、理性的な人間になることも簡単です。

●愛着による反応

 関係のある人・生命の死に対しては大いに悩むが、関係のない人の死に対して無関心、何も感じない、当たり前だと思う。このような場合は、悩みに耐えられなくなったら、「私には責任がない」という呪文を唱えてみる人もいる。しかし、それほど効き目がある対策ではありません。
その理由を考えてみましょう。

1 強い愛着
 自分のこども、伴侶、親、お爺さん、お婆さんなど存在の場合です。(相手に対する愛着です)愛着の程度によりますが、時間経過で悲しみは消えます。仏教はなくなった相手に対して感謝の気持ちを抱いて、回向などの法要を行って、なくなられても自分の義務を果たします。

2-A 自分に対する愛着
 相手が亡くなったことで自分が損したのです。伴侶が亡くなったら、寂しくて貯まりません。子供が若い時、親が亡くなったら、子供の面倒を見る人が亡くなったのです。それで、損した子供が悲しむのです。しかし、だれでも、「自分がエゴイストだから、自分が損したから、相手の死を悲しんでいるのだ」と決して認めないのです。自分は優しい人間だと錯覚しているのです。

2-B 自分に対する愛着
 親戚が亡くなったことで、自分が特別に損を受けない場合もあります。例えば、従兄弟、従姉妹などが亡くなったとしましょう。普通はショックです。それは構いません。精神的な問題にはなりません。

 そこで、その死を自分に当てはめて見る人がます。他人の死を自分のこころでシミュレーションしてみるのです。すると、自分の命が可愛いあまりに、愛着があるあまりに、怖くなるのです。悲しむのです。忘れられなくなるのです。これは無意識が「私は死ぬのは大嫌い」と叫んでいること、怯えていることです。相手に対する優しさから来る感情ではありません。

●自我・エゴの錯覚

 基本的に私達が他人の死を受け入れられないのは、自我・エゴの錯覚によるのです。生命なら誰でも死を避けられません。しかし、自我の錯覚で病んでいる人はそれを認めません。他人が死ぬのは当たり前ですが、自分が死ぬのは嫌です。それを認めません。親しい人々が亡くなるのも嫌です。それを認めません。(なんだか、自分は神様になった気分で、希望通りにものごとはいかないので、腹が立っているのです。)

「親に何もしてあげることはできませんでした。もっと親切にしてあげるべきでした、もっと心配してあげるべきでした」などの理由で死の悩むことも、自分のエゴなのです。

●結論

 愛着の問題も、自我の問題も簡単に解決できないのです。智慧を開発しなくてはいけないからです。ですから、死を悲しむのは避けられません。ある程度の時間が経過したところで、悲しみを消して、亡くなった人のことを忘れないで、憶えておきましょう。供養などをしてあげましょう。親などの場合は、感謝の気持ちを持ち続けましょう。
時間の経過の目安ですが、仏教徒の場合、お釈迦様は一週間程度としています。しかし、それは理性のあるブッダの直弟子の場合でしょう。テーラワーダ仏教徒なら、三ヶ月から一年までです。これは、決して時間の問題ではないのです。悲しみはできるだけ早く断つべきものです。なんかしらの時間のリミットを設定するのも、弱い人間にとって悪くないと思われます。

 決まった時間では悲しみを取り消せない、忘れられないなどのケースでは、他人の死と関係なく自分自身が精神的な問題を起こしているのです。

 最後に、悩むという感情は仏教心理学では「怒り」です。悩む人は、怒り続けているのです。明るさが消え、活発に生きることも出来なくなるのです。人間関係も悪くなり、身体が病弱になります。頭が悪くなって、怒りに依存してしまう。怒りが生き甲斐になってしまうのです。というわけで、哀しみ・悩み(怒り)は危険です。ひとの死などの悩みは、突然の火事のように現れることが世の常です。火事が起きたら、手早く消すことです。