あなたとの対話(Q&A)

苦しみと因縁/業と仲良く暮らしたい/清濁併せ飲むべきか?

パティパダー2013年10月号(193)

苦しみと因縁

人生のなかで重い苦しみが来ることがあります。なるべく明るく、自分なりの楽しみを見つけてやっていこうかと思ったら、さらにそれ以上の苦しみがやってくる。乗り越えかけた時に、さらに苦しみが来ると、「なんの因縁なのだろう?」と思ってしまいます。それでも明るく生きようと思う反面で不安感もつきまといます。どのように受けとめればいいのでしょうか?

因縁のことは放っておいていいでしょう。忘れて下さい。どうでもいいんです。問題は目の前にあるのだから、その問題に対応しないといけない。「問題を乗り越えて幸せになるぞ」という期待もない方がいいのです。これは何とかしなくちゃいけない、だからやりますと。例えば家族の誰かが病気になって倒れたとしたら、看病しないといけない。これが優先だから仕事も止めるはめになる。しかし、その家族は結局死んでしまった。自分には何も残っていないのです。そこで、不幸になったと思うかもしれない。

 ですから、問題を解決する、それで幸せになる、ということも人生においては成り立たないのです。とにかく立ち向かうしかない。自分ひとりでいくら頑張っても周りの人に問題があったら、問題は消えません。幸せになろうと頑張っても結果がないなら、他のところに何か問題があるのです。今度は、その問題を解決するようにしないといけない。

 我々の人生のなかで、仲良くしている人々のなかで、プログラムが狂っている場合があります。借金する人々はものすごく気をつけたほうがいい。借金でぜんぶ崩れてしまいます。借金するところまで人生が堕ちてしまうと、金の使い方、考え方とか、自分の生き方に大きな問題があるはずです。収入がないけど、必ず三食たべなくちゃというのは、思考がおかしい。どこかで思考を訂正しないといけないこともあります。自分が頑張っているのに、とんでもないことが起こる場合は、周りも調べた方がいい。見つからなかったら忘れるしかない。因縁がどうであれ、厳しい現状に立ち向かうしかない。

 もう一つ、「人生は道場だ、修行だ」と思うしかない。問題を解決するのではなく、立ち向かうことです。立ち向かって結果がどうなるかわからない。日々、退屈せずに生きていられれば充分じゃないでしょうか? 問題を解決したところでやることがなくなって退屈というのは……。われわれは退屈感なく生きることを考えたほうがいいんじゃないかと思います。次から次に問題が起こる人も、「私の人生は退屈になりませんね」と思えば、脳が開発されて明るくなるんです。


業と仲良く暮らしたい

人が生まれる時、熟した業(カルマ)で生まれてくる。生きている間は業の影響から逃れられない。そのように理解しています。であれば、業の影響と仲良く暮らしていきたいと思うのですが、どのような業が自分に影響しているか気づきたいと思います。どこに気をつければいいでしょうか?

自分の身体は業がつくったものです。業は貯金みたいなものです。旅行する時は費用を全額、旅行会社に払わないといけないのです。プランによってパック内容が違います。認識を司る感覚器官は直接、業の管理下にあります。感覚器官の能力は人それぞれで、それは変えられません。使用期限が過ぎたら、業が終わり。元には戻りません。収入の割り当ても、得た収入でどの程度幸せになるのか、というのも業の管轄です。1万円の収入でけっこう楽しく生きている人もいて、5万円もらって足らない、足らないと悩む人もいる。1万円の人の業のほうが善い業です。

 生きる上で、業の影響は免れません。しかし、それをチェックしたらどうなるかというと、どうにもならないのです。気にしない方がいい。しかし知っておいたほうがいいことです。億万長者になりたいとむやみに頑張っても、億万長者にはなれません。自分の収入の業を知っている人なら、それに合わせて頑張ればいいんです。少々、気にするだけのことです。

 仏教で教える少欲知足というのは、業から身を守るために使うのです。金持ちになってはいけないという話ではありません。得たもので満足すること。それが業から身を守る方法です。眼耳鼻舌身も業です。生まれつき足が一本短いなら、それで一生苦労しないといけない。肉体から感じる感覚についても業が管理しています。身体がそれほど強くない人であっても、身体をよいことに使うことで業が調整されて、コンディションがよくなる場合があるのです。

 効き目がないのは、目と耳です。もらった能力を管理できないのです。視覚、聴覚を早く壊すことはできるが、伸ばすことは難しいのです。それでも白内障、緑内障になるのを避ける事はできる。当然、治療不可能なものもあります。少欲知足で節度を守って生きることで、自分の業をある程度で管理できるようになります。

 業論には、「責任を持って生きなさい」「たくさん善いことをしなさい」という道徳的な意味がある。業は人間に理解できないくらい難しいと釈尊は釘をさしました。しかし悪いことをしなければ無難でしょう。ですから、一般の人には止悪作善を語るのです。専門的に仏教を学ぶ人には、ある程度理解できるように業論を説明するのです。ですから理解できる範囲で理解して、業について分からないところは放っておいても構わない。「善行為をすることにします」と決めて、業のことを気にしないようにするのも安全な手段です。


清濁併せ飲むべきか?

自分の悪いところも大事にした方がいいのではないでしょうか? 人間関係のためには「清濁併せ呑む」ということも必要ではないかと思います。どうでしょう?

明確な質問ですが、それは間違いです。糞とご飯を混ぜたら、結局、糞でしょう。自分の悪いところというのは、他の生命に迷惑をかけているところ、嫌がられるところを指します。それを大事にした方が人間関係も円滑になる、というのはあり得ない勘違いです。人間は完全ではありません。いきなり完全になるということも、あり得ない。だからこそ、完全なる人格を作るために解脱を目指さないといけないのです。

 事実として、この世の人間は不完全です。長所も短所もあります。だからといって、短所を大事にするなんてとんでもない話です。短所は一つ一つ直していって、人格完成を目指すことです。道徳とは、私たちがどう生きるべきかという問いへの答えです。

 身口意の行為は、みな他人に関係あるのです。考えるだけでも周りに迷惑かける場合もあります。喋るならなおさらです。動物の声を聴いても、気持ちが変わるのです。それから身体で行動すること。道徳とは、その三つに関わるのです。「身口意の三つで自分にも他人にも迷惑かけないようにしなさい」ということ。道徳とは、ギュッと縮めるとそれだけのことです。

 お釈迦様は「心の成長・人格向上については満足するなかれ。しかし俗世間のことについては与えられたもので満足せよ」とおっしゃっています。悪いところは大切にするのではなく、人格向上のバネにしてください。清掃係はゴミばかり探しますが、それはゴミを処分するためです。私たちの弱点、欠点についても、清掃係の気分で見るべきなのです。