あなたとの対話(Q&A)

睡眠に関する三つの質問/子供を管理したいと言う感情について/自分の責任範囲

パティパダー2015年6月号(212)

睡眠に関する三つの質問

私は若いころから怠惰なところがあって、「惰眠を貪る」ということをしてしまいます。今になってそのことが生きていく上で罪悪感になっています。仏教的には、睡眠というのは得にはならないと聞いたのですが、そのところを教えてください。

惰眠を貪るのは危険

 寝ることよりは、起きていて精一杯頑張ることを喜んでください。やることはいろいろとあります。働くこと、本を読むこと、勉強すること、それがカッコイイと思ってください。そうすると脳が活性化するのです。それで本当に肉体がくたくたに疲れたら、ガクンと寝ることです。その場合は、睡眠時間は短くて済みます。そうした睡眠は気持ちもいいですし、健康にもいいのです。脳が働いたほうが健康にいいのです。惰眠を貪っていると、脳の機能が低下するし、体調もすごく悪くなってしまうのです。そういうふうに、まず考え方を切り替えた方がいいと思います。

睡眠時間は短くていいとのことですが、徹夜するとすごく眠たいのは、なぜでしょうか?

心に煩悩があるから眠くなる

 それは、まだまだ心に煩悩がいっぱいあるからです。「私は徹夜している」「徹夜は疲れる」と自分で暗示をかけているのです。「徹夜しても元気だ」という気持ちで頑張ってみてください。私たちは洗脳されています。昔から我々は、一日8時間寝なくてはいけないとか、夜何時から何時に寝なくてはいけないとか、そんな概念・情報で洗脳されているのです。寝るならば夜寝るべき、ということだけは正しいのです。夏とか日が長いときは、短い昼寝も構いません。しかし、基本的に寝るのは、夜の方がいいと思います。それも真夜中です。それでも現代社会では、仕事があったりして夜寝られないときもあります。「そんなことはへっちゃらだ」「私は元気だ」と自分に言い聞かせて、眠りの洗脳を頑張って破ってみてください。そうすると疲れなくなります。

悪夢を見ないようにするためには、どうすればいいですか?

慈しみで眠りにつくこと

 夢の中でも心は汚れます。夢の中で悪いことをすると、それも悪行為になるのです。また困ったことに、それは管理できないのです。普通の人は夢の中でも悪いことをしたりします。夢だから現実とは違うと言っても、同じ思考の流れなのです。

 そういうことで、寝る前には「私は幸せです。すべての生命にも幸せになってほしい」と眠りにつくまで慈悲の実践をするようにしてみてください。自分に合った言葉でも構いません。例えば「みんな幸せになってほしい」「みんな私の友達だ」「みんな同じ命だ」「差別なく生命はみんな豊かで幸せでいてほしい」とか、そういう慈しみに関わる思考をしてください。そうして、だんだんと眠りに入っていくのです。そのまま寝て夢を見たとしても、すごく気分のいい、精神的に安らぎを感じる夢に変わるのです。慈しみの心で眠るならば、悪夢は見ません。

 悪夢というのは、見たくはない怖い夢のことです。夢であっても我々は罪を犯してしまいます。そこで、眠りにつく前に、心を慈悲の思考に入れ替えれば、罪を犯すような夢は一切見なくなります。

 具体的には、皆様がたが実践している「慈悲の冥想」の言葉を繰り返し唱えながら寝てみてください。慈しみは、人間だけではなく、すべての生命に対して「幸福で、幸せでいてほしい」というふうに、寝床やベッドに入ったらそればかり念じてみてください。

 明日は何を食べようか? どこに買い物にいこうか? などと、くだらないことを考えるのは止めて、清らかな心で眠りについてみてください。以上です。


子供を管理したいという感情について

子供の不幸を願うということではなく幸せを願って、子供を管理したいという感情が起こります。私が管理できないと子供は良くない状態になる、それは嫌だと思って、怒りが出てきてしまいます。「どうして、あなたは~しないの?」「どうして、~してしまったの?」「あれほど言ったのに!」と、そのような感情は、どうしたらいいでしょうか?

自我が割り込んだら危険信号

 わかりやすく言えば、まだまだ修行が足りませんね。「どうして、あなたは~」と言ったところで、はじめから怒っているのです。

 そうではなくて、慈しみで対応してみましょう。「あぁ、こんなことやっちゃうと不幸になってしまうのに」とか、「あなたが不幸になったら私が困りますけどね」などと諭せば、それは慈しみの言葉なのです。

 例えば、お母さんが子供に、「あんた、こんな点数を取っちゃうとお母さんも本当に悲しいな」とか、「あんたが勉強すればお母さんも嬉しくて楽しいのに」とだけ言えば、子供は「お母さんが喜ぶんだったら、ちょっと頑張っちゃおうかな」と思うのです。

「どうして、あなたは~」というのは、自分の自我を出していることに他ならないのです。私があなたの幸福を希望している。それがその通りになってほしい。これはあまりにも恐ろしい自我の押しつけです。世の中では自我は通じません。自我というものは存在しないのです。ただ、様々な現象が変化しているだけです。様々な現象が組み合わさって、新たな現象が生まれるのです。決して変わらない自我という代物は無いのです。

 心が変わっていく過程で、様々な変化を一束にまとめたくなるのです。それが「私」という概念です。それから、その「私」という概念が、私たちは抑えて支配するのです。それが自我という錯覚なのです。自我の問題は、修行すると発見するものです。しかし修行が完成するまで、人が不幸になっていいわけではありません。無理にでも、自我が存在しないと仮定して生きたほうが、ものごとはスムーズに進みます。自我が実在しないと、納得いかなくてもけっこうです。自我を張る気持ちが起こるたびに、それを抑えることです。

愛着が親子を敵同士に変える

 あの人はこうした方が幸せになると思って、その人にその方法を教えるならば、気持ちよくそれを受け入れてくれるはずです。しかし私たちが知っている世界では、人のアドバイスを気持ちよく受け入れる人間は見当たりません。親子関係を見れば明確です。親ほど子供の幸せを願うものは存在しません。それは子供たちも知っているのです。しかし、子供たちがやることと言えば、いかにして親に逆らうのかと、様々な対策を考えることです。それで危険な道に走る子供たちも現れます。

 なぜ、このような残念な結果になるのでしょうか? 子供の幸福を願う気持ちが、子供に対する強い愛着と合体しているのです。愛着は自我の錯覚から起こる現象です。言葉を変えれば、愛着とは「私のもの」という意味なのです。子供に対して愛着が現れると、子供が「私のもの」になります。子供は自立するために頑張っているのです。自分の命が、お母さんの持っているカバンのような他人の所有物にされていると分かったら、強烈に反発するのです。相手が敵だと思ってしまうのです。愛着が強い親子関係は、敵同士の人間関係になってしまいます。慈しみはそうではありません。心配する気持ちも美しいものです。「他者とは自由に生きる人間である」という前提を受け入れるならば、本当の慈しみが現れてくるのです。親として子供に対する愛着を捨てて、慈しみのみを抱くことは難しいのです。慈しみと愛着が癒着しているのです。ですから、どんな母親も、しつけには失敗してしまいます。

 子供にアドバイスしても、何回も何回も繰り返し言われることだから、子供はそれを知っているのです。「お母さんは、私がやるべきことを言っているのだ」と知っています。言われなくてもやらなくてはいけないことだと、知っています。なのに、親に反発するのです。子供は分かってないが、本当は親に反対しているのではないのです。親のことは大好きです。自分は誰の所有物でもありません。それに反撃する気持ちが自然の流れで起きてしまうのです。子供の反発する気持ちを惹き起こすのは、親の愛着の感情です。その感情を戒めなくてはいけないのです。

子供が落ち込んだら、思い切り愛情を注いであげる

 まだ、考えるべきポイントがあります。子供は自立しようと頑張っても、不安の多い社会に生きているのです。自分の希望どおりに物事は行かない、という嫌な経験を味わっているのです。しょっちゅう自信がなくなるのです。やる気を失うのです。そのとき、味方を探すのです。無条件で味方になってくれるのは両親です。親に反発する割に、時々、異常に甘えたい気持ちで寄ってくるのです。そのときは何の躊躇もなく「私の宝物だ。お姫様だ。王子様だ。世界一大好きだ」などなどのどんな戯けたことでも言って、甘えさせてあげてください。そういう時に限って、愛着はそれほど悪さをしないのです。ですから、きまりはこのようになります。子供が落ち込んだら、愛情。ふつうにいる場合は、慈しみ。

 母親にとって、子供に対する愛着を慈しみから切り離すことは難しいので、自分の精神修行だと思って、自分の人格向上のためだと思って、慈悲の実践をするのです。子供のために慈悲の実践をしてはいけないのです。自分自身の人格向上のために、慈悲の実践を行なうのです。精神的に、徐々に成長していくと、わが子のことも慈しみで観ることができるようになります。わが子も他人の子もそれほど変わりがないように感じてきます。

 毎日、子供にアドバイスをする場合は、自我の錯覚が割り込まないように、愛着が割り込まないように、気をつけなくてはいけないのです。それでも、人間だから失敗します。怒りたくないが、怒ってしまうこともあります。それはそんなに気にする必要はないのです。気楽に頑張ればよいのです。しかし、自分が怒ったこと、失敗したことに気づいて、何かを学び取ったほうがよいと思います。


自分の責任範囲

ボランティアで地域の役員を引き受けたところ、どんどんいろんなことを言われるようになりました。どの程度まで引き受けて、どこで断ったらいいのか分からなくなって困っています。アドバイスをお願いします。

できる人は頼まれるのが世の常

 真面目に仕事をすると仕事は増えます。みんな基本的に怠け者ですから。そういう現実もきちんと理解しておかなくてはいけません。仕事を上手にこなすと、どうしても仕事の量が増えてしまうのは、誰のせいでもないのです。できる人に頼むということは、世の中のありさまなのです。

 それでは自分の自由が無くなってしまいますし、忙しすぎて困るということもあります。でも、まぁ気にしないということでいいのではないかと思います。実際、仕方がないのです。上手くやっていない人には、誰も頼まないのです。

 ですから、真面目にやっている人からすると、相手は怠けて何も仕事をしていないというふうに腹が立ってきます。それは自我です。全然仕事をしないで怠けている人は、それはその人の生き方です。その結果(不幸)は、その人が受けます。なので、自分にとっては関係ないのです。自分は真面目に仕事をこなす。そうすると自分が充実感を感じる。それでどんどん仕事が増えてしまっても、困らなくていいのです。

生身の人間にできる仕事量は決まっている

 なぜならば、いくらなんでも生身の人間ですから、できる仕事の量は決まっているのです。それ以上はできないということになるので、正直に「一日頑張っても、ここまでしかできません」ということが分かります。その基準で、はっきりさせてください。

 例えば、一〇〇くらい仕事が来ても、自分の能力をフルに活かしても出来るのは二〇だとする。それははっきりさせて素直に言えばいいのです。ということで、自分に降りかかってくる仕事の量をきちんと整理整頓することで、対応できない仕事はカットすることができます。

 自分に、あれもやりたいこれもやりたいという余計な欲が出てくると困ります。全部やってあげたいといっても無理ですね。全部やってあげる必要もないのです。仕事は、自分にできる範囲でやればいいのです。

 別な例でお話ししましょう。自分の一番大切な親が病気で倒れたとします。24時間つきっきりで看病をしないといけない、というのは理想論であって、一日ぐらいなら出来ますが、二日目になってくると疲れが出てきます。看病する人もご飯を食べないといけません。そこで誰かに頼んで、少し寝たりして分担しなくてはいけません。「私の母親だから24時間付き添っていないと……」というのは話になりません。不可能です。

 そういうわけで、問題が出てくる、困っているということは、自分が何でもやってあげたいという余計な自我が出てきたことなのです。それは良くありません。生身の人間ですから、できる量は決まっている。その分は真面目にやる。残りは「これは、できません」と言えばいいのです。

 医者が患者の面倒をみるのは仕事ですが、一人に一日六〇〇人ぐらいの患者さんが来たらどうしますか? 一人5分の診察としたって、一日では六〇〇人も診られないでしょう。その場合は「ここまで」ということで、診療できなかった人は別な医者を探してください、ということになるのです。そのように理性を使ってください。以上です。

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