あなたとの対話(Q&A)

阿羅漢・聖者はどこに居る?/冥想は現実逃避?

パティパダー2014年4月号(199)

阿羅漢・聖者を求めること

過去、お釈迦様がご存命の時は、阿羅漢の方がたくさんいらっしゃいましたが、いまの世の中で阿羅漢の方々がいらっしゃるのを判断するには、どうしたらいいのでしょうか?

その判断の必要はありませんし、できません。その判断はしてはいけません。阿羅漢を見つけ出そうとすることは、新興宗教・カルト宗教になってしまいます。それは、やってはいけないことです。邪道です。

ブッダの教えが私たちの師匠

 お釈迦様の説かれた真理(仏法)が、私たちの師匠なのです。お釈迦様が涅槃に入られたのだからといっても、「教え」がお釈迦様・ブッダなのです。その「教え」は完璧に説かれています。ブッダの教えがある限り、みんなに師匠がいるのです。ブッダの教えそのものが師匠だとしているのです。あの弟子この弟子と、追いかけていく必要はないのです。
 
 なぜお釈迦様の教えがあるのに、「阿羅漢はいるのか?」と探すのですか。在家であれ出家であれ、仏教を学んでいる人々は、皆に何のケチをつけることもなく、頑張って教えてあげているのです。仏弟子たちは説法という形で皆にお釈迦様を紹介しているのです。法を通して、皆、正等覚者であるお釈迦様に出会うのです。

説法する人々の決まり

 説法する人々にも、厳しい決まりがあります。自説・自論を説得する目的で説法してはいけません。自分が優れた師匠であると示す目的で説法してはいけません。皆に好かれて尊敬を受ける目的で説法してはいけません。ブッダが説かれていないものを「ブッダが説かれた」と言ってはいけません。ブッダが説かれたものの真意を変える目的で解説してはいけません。見返りを求めて説法してはいけません。慈しみと哀れみの気持ちで説法するべきです。優れた説法師はどんなテーマで説法しても最終的な結論として、解脱を推薦して語るのだと、お釈迦様が説かれたのです。信頼できる説法師は、その決まりを守るのです。

 説法するということは、そうとう緊張する作業なのです。ブッダが誤解されないように、法が誤解されないように、つねに気をつけなくてはいけないのです。ですから、誰にでも仏教を学ぶチャンスがあるのです。誰にでも、自分の本師であるブッダに出会うチャンスがあるのです。私たちは仏教の本を読んでも、説法を聴いても、鵜呑みにしないで、客観的に理性に基づいて判断すればよいのです。本を書く人も、説法する人も、人間なので完全に語れないのです。自分が理解したところを派手にハイライトするのです。ついつい自論も入り込むのです。話を聴く人は、そのような問題をフィルタリングして理解するべきです。説法師は自分の理解、自分の判断、自分の考えを言っても構わないのです。その時は、明確に「これは私の意見です」と言うべきです。

汚れた説法師

 世の中には、汚れた説法師たちもいるのです。無執着の心、解脱を推薦しない。現世利益、商売繁盛、超能力、無病息災の手段、などを目的にする。また、「私こそブッダを理解しているのだ。私が解脱に達しているのだ。私が阿羅漢なのだ。私がブッダの生まれ変わりなのだ」などのキャッチフレーズで説法師になる。これは汚れた説法師たちの特色です。このような人々の話は、決して仏説にはならないので、気をつけるべきです。要するに、ブッダの教えを通して、ブッダという師匠に出会うべきなのです。実践をすれば、お釈迦様が推薦する解脱を自分でも経験することができます。その人には、同じ経験を経て心清らかにしている仲間もいることを発見することができます。最初から阿羅漢を探すと、仏道から外れてしまうのです。一般人の気持ちとして、「阿羅漢はいるのでしょうか?」という疑問が起こるのです。しかし阿羅漢を発見する方法は、仏法を学ぶところから始まるのです。

聖者を探す人の「弱み」

 もう一つ、考えるべきポイントがあります。たとえば、阿羅漢がいるとしましょう。「この人が阿羅漢である」と紹介してもらいます。阿羅漢を探し求める人々は、誰かを信仰したい、誰かを頼りにしたい、誰かに依存したい、誰かに言われるとおりにやりたい、という心の弱みを持っているのです。他人が言うことをそのまま信じてしまう危険性があるのです。これでは智慧が現れません。仏道は自ら発見する道なのです。本物の阿羅漢に出会うチャンスがあっても、自分がダメな人間のままで終わってしまう可能性もあります。というわけで、「まず阿羅漢を見つけてから」というやり方は、正しい探求にはなりません。邪道になってしまうのです。

スリランカのエピソード

 阿羅漢を探し出すということが、いかに間違っているのかということを教えるために、現実的なエピソードがあります。スリランカのアヌラーダプラ時代、紀元前のことですが、ある師匠と弟子がいたのです。この2人は、長く10年以上も一緒にいました。

 それで、師匠と一緒に仏塔に花をきれいに並べて、お供えしていたのですね。そうすると弟子の若者が、「先生、阿羅漢というのはどうやって分かるのでしょうか?」と尋ねたのです。それで師匠は、「あのね、愚か者は阿羅漢と10年一緒にいても分かりませんよ」と答えたのです。それでもその若者には、師匠の言っている意味が分からなかったのです。

 この弟子は、10年も阿羅漢と一緒に寝泊まりして、一緒にご飯も食べて、背中を流してあげたりしていたにも関わらず、阿羅漢を発見できなかったのです。阿羅漢の精神は、次元が違うのです。自我の錯覚がまったく無い阿羅漢を、何者かと理解するのは一般人には不可能です。
観た目では絶対に人を判断してはいけません。相手が道徳的な人間かどうかということは、長い間観察しなくては分からないとお釈迦様も教えています。このエピソードも、「阿羅漢を探す必要はない」と言っているのです。

「サンガに帰依する」という解決方法

 師匠はお釈迦様です。お釈迦様は完璧な人格者です。完全なる智慧があります。ひとを解脱に導く能力は絶対的です。無上の調御丈夫と言うのは、その能力のことです。たとえ阿羅漢がいても、他人を指導する力があったり無かったりです。智慧第一だと釈尊から称号を与えられたサーリプッタ尊者も、人を指導する時、うまく行かなかったケースが経典に記録されています。阿羅漢を探すことになると、結局それは個人崇拝することになります。仏教的ではありません。仏教では三宝に帰依するのです。三宝のなかで個人はブッダ一人です。仏教の世界では、サーリプッタ尊者に帰依します、モッガッラーナ尊者に帰依します、などはありません。あるのは、「サンガに帰依します」です。

 個人の能力はさまざまです。個人崇拝すると、自分の成長はその個人の能力によって左右されます。これはよくない。この問題をお釈迦様が見事に解決したのです。法主であるブッダが涅槃に入られたら、教えがその役目を果たします。サンガは自分の能力範囲で一般の方々に説法したり、指導したりします。

 しかしサンガも法(教え)によって厳しく管理されています。ひとりの僧侶の指導がうまく行かなかったり、理解できなかったりした場合は、別の僧侶から教えをいただけばよいのです。出家の世界は排他的ではないのです。どんなお坊さんから学ぶか、どんなお坊さんの指導を受けるかは、自由です。出家する人々も、いろんな長老たちから教えてもらったり、指導してもらったりするのです。世間に解脱に達した人が一人もいなくても、解脱に達する道はつねにオープンで閉じられないようになっているのです。これは仏教の特色です。師弟関係で成り立つ仏教ですが、師弟関係によって起こる問題をすべて解決しているのです。

阿羅漢探しは必要ない

 そういうことで、阿羅漢を探し出す必要はありません。自分が阿羅漢でなくても、解脱に達する道を教えてあげる能力は長老たちにあります。阿羅漢とは、自我の錯覚が完全に消えることです。自分の心に起こる革命です。自分自身の自我の錯覚が根こそぎに消えたら、それは誰よりも本人が知っているのです。ですから、「あなたが阿羅漢に達しました」と認定する人も要りません。覚ったと錯覚を起こした人々は、簡単にばれます。覚った人の心の状況はどのようなものかと、明確に経典に説かれているので、一般の方々にも「あの人は覚ったと言うのですが、それはちょっと違うのではないのか」と分かります。覚ったと威張っている人に騙されたならば、それは騙された人の勉強不足です。

 阿羅漢に会いたい、聖者に会いたい、という気持ちは、OKです。誰だって、優れた人に会いたいものです。それは普通の気持ちです。しかし仏道を真剣に歩みたいと思うならば、阿羅漢探しを保留にしなくてはいけないのです。


冥想することは現実逃避することなのか?

人間社会は苦しみに満ちていて、それを諦めるしかなく、その諦める方法として冥想があるというふうに理解をしてしまっています。その理解の仕方は、少し違っていると思うのですが、このような理解で正しいのでしょうか? 間違っているのでしょうか?

 例えば、いつも苦しくて、その苦しいというのは、瞬間、瞬間、変化しているからだと、その変化が苦しい。例えば歩く冥想をしたとして、足を上げます、運びます、下ろします、そういうことをやっていれば確かに、それしか考えられないので、世の中の人間社会に起こる変化も認識できなくなるから、冥想すれば苦しみが無くなる、というような理解をしています。そのような理解は、根本的な解決ではなくて、逃避しているように感じ、正しくないように思うのですが、いかがでしょうか?

この考えは正しくないと自分自身でも分かっているから、質問したことになりません。しかし、冥想実践している途中で、何か心のなかに疑問が生じたでしょう。その疑問に答えます。

「修行が足らない」

 今までのあなたの修行の経験として、実践中、瞬間瞬間の変化を観ていたから、苦を感じることはできなかった、ということになります。それでも、生きる苦しみは消えてないでしょう。社会ではさまざまな苦しみがあるでしょう。自分が一時的に逃避しているのではないか、というのは、疑問です。さらに実践してみると、さらに深く現象のありさまを経験します。智慧が現れます。苦しみを司る原因を発見します。この原因を取り除けば、苦しみを乗り越えたことになると発見します。これは簡単な答えです。新興宗教組織が使う言葉でいうならば、「修行が足らない」です。

 このような逃げの答えは、仏教に相応しくないのです。ですから、さらに分析してみましょう。まず、「智慧がある人は苦しみを乗り越える」という言葉をガイドラインにします。

生きるとは何かと観察する

 私は苦しんでいる、世界にも苦しみがある、と言う場合は、一般的な考えです。智慧に基づいた考えではありません。世界に苦しみがあるかどうかは、関係ないのです。自分が生きているから、自分の苦しみを感じる。世界にも苦しみがあることを発見する。ですから問題は、自分の存在なのです。それで、「生きるとはどういう働きでしょうか?」と徹底的に観察しなくてはいけないのです。ひとが考えだすいかなる苦しみでも、自分が生きているから起こるものです。ですから、生きるとは何かと観察することは、逃避ではないのです。真っ向から、苦しみにぶつかってみることです。

 生きているのは自分です。自分は生きていると言って、どんなことをしているのかと、徹底的に観察する。この観察しているあいだは、心があまりにも忙しいので、会社のこと、家族のこと、人間関係のこと、経済情勢のことなどで悩んでいる暇はありません。それが、逃避だと勘違いしてしまったところです。仏教の教えは、「生きることが苦である」ということです。生きることも苦であるし、生きる上で社会と関わりを持つので、その関わりからも苦が生じてくるのです。関わりを切ってみても、自分が生きているから、苦から逃げたことにはなりません。一時的に減ったことにはなりますが、また、関わりを持った瞬間で、その苦しみが起きてきます。

苦の発見

 歩く、立つ、坐るなどの簡単なことを観察する。そちらで苦が主導権を取っていることを発見します。観察してご飯を食べてみる。ご飯を食べる行為も苦しみによって成り立っていると発見します。呼吸を観察してみる。苦がなければ呼吸さえも成り立たないと発見する。このように、生きる上でおこなういかなる行為であっても、苦によって成り立っているのだと発見します。これは「生きるとは苦である」という聖なる真理第一(苦聖諦)の発見です。これは智慧です。生きるものは誰だって、苦によって成り立っているのだと発見するのです。微生物であれ、動物・人間であれ、神々であれ、存在する生命は苦によって生きているのです。この智慧は、逃避ではありません。真っ向から生きることにぶつかって観察した結果なのです。

苦を司る原因の発見

 次に、「なぜ生きることが苦なのか?」という疑問が生じるはずです。そこで、生きたがっている、死を避けたがっている、自分の気持ち・感情を発見します。右足を上げて、運んで、下ろしたところで、左足を上げたくなるでしょう。どうしようもないのです。息を吸ったところで、吐きたくなるでしょう。どうしようもないのです。苦なのに、やめられず続くのです。そこで、生存欲・渇愛・生きることに対する執着、という苦しみの原因を発見するのです。これが感情です。客観的にみると、必ず無くてはならないものではないのです。生きていきたいと思っているが、それにはなんの理由も無いのです。苦しみを司る原因は渇愛であると発見することは智慧です。これは四聖諦の二番目の真理である苦集聖諦です。

苦からの解放

 渇愛によって苦が現れると分かったら、渇愛を捨てたいでしょう。でも棄てられないのです。理由もなく起こる感情なので消しちゃえばいいのに、消せないのです。さらに集中力をあげて、生きるとは何かと観察する。すべて瞬間瞬間の現象であると観えてくる。原因によって現象が変わっていくのだと観えてくる。ご飯を食べると、美味しいと感じることもあるし、不味いと感じることもあるのです。その時その時の因果関係なのです。「ご飯とは美味しいものである」と判断することは、不可能であると分かります。一切は因縁によって生まれては消える。現象の変化は瞬間瞬間のできごとです。よいとも悪いとも評価することはできなくなります。たとえ評価をしても、それは相対的な判断であって、正しい判断ではないと分かります。

 立っていて苦を感じた人が、坐った瞬間に楽を感じる。坐っていると苦を感じる。その時、立ちます。その瞬間に楽を感じる。しかし立っているとまた苦を感じるはめになります。ですから、「楽」とは相対的な判断です。では、生きることは苦であって、生きるとは瞬間瞬間変化する現象であって、苦・楽・不苦不楽の判断は相対的であると分かると、心はどうなるでしょうか? 

 生きるとは、無常なる現象の流れです。これが私の命である、と言えるものは何もない。執着に値する現象は何もない。執着は、生きることを観察しない無知な人の感情にすぎないのだと分かるのです。執着に値するものは何もないと発見することも智慧です。執着に値するものは無いと発見する人の心から、執着が消えてしまうのです。それで、何としてでも生きていきたい、という気持ちから解放されます。この状態は、苦を乗り越えた状態なのです。これは四聖諦の三番目の真理である苦滅聖諦です。このように、徐々に向上する智慧によって、苦を乗り越えるのです。逃避ではありません。

仏道の完成

 逃避とは逃げることです。問題にあたって解決することではないのです。世界の経済状況を良くしよう、平和な世界を築こう、などの考えは、実現できない観念です。自分が生きているから、このような問題が自分の心に起こるのです。ですから逃げることをしないで、生きるとは何かと観察するのです。仏道は逃避ではなく、逃避の反対です。

 四聖諦にあわせて説明しましたが、四番目の苦滅道聖諦(道諦)はどこへ行ったのでしょうか? 道諦とは、苦を乗り越える方法のことです。冥想実践を行っている人は、最初から道諦を実践しているのです。しかし、集中力が上がること、智慧があらわれること、心が徐々に汚れを落とすことも、道諦に入ります。解脱に達したとは、道諦を完成したことです。

 すべての生命に関する唯一の真理は四聖諦です。四聖諦を発見することが、一切の生命に関する真理を発見することです。仏道は逃避ではなく、逃避の反対です。修行中はいろいろ疑問が起こるものです。修行を続けることで、その疑問が消えてゆくのです。

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