あなたとの対話(Q&A)

懺悔(さんげ)の力

懺悔と後悔とは、どう違うのですか。

後悔とは自分に対する怒りで、自分を不幸にする悪行為です。懺悔は自分の過ちを認めるという善行為です。自分の過ちを認めずに正当化するのもすごい罪なのです。何か失敗したら、「すみませんでした、私が悪かった」と認めて、「やはりこういう失敗をしてはいけない、これからは気をつけて明るくがんばろう」と自分を戒める。それは道徳的で立派な行いです。

クヨクヨ後悔することは暗いし良くない。過ちを犯しても無関心でいるのもダメです。ブッダが説く「懺悔」は、一般的に言う「反省」に似ていると思います。懺悔によって、心はどのように変わりますか。

それはその「反省」の意味内容によります。悪事をはたらいても平気な顔をして「私は何回も人をなぐってケガをさせたり、包丁で刺したことまであるんだぞ」と自慢するような人がいたら、そういう怖ろしい人からは逃げるしかありませんね。けれども時々、「私は昔はひどい人間で、こんなことまでしていましたよ」と自分の過去の失敗について明るく話す人がいます。その人は「これからはそんな恥ずかしいことはもうやらないぞ」という強い覚悟があった上で、堂々と自分の過失を話しているのです。その人は明るく前向きに生きている立派な人です。

もうひとつ、例えば自分がネズミなどを殺したとします。それで「ああ、自分は殺生をしてしまった、私は罪を犯した」と暗く考えてばかりいるならば、その悪行為の印象を何度も自分のこころに刻み込んでいるのです。その人は「反省している」と思っているかもしれませんが、「後悔」という罪を犯しています。後悔というのは、社会的な立場であろうが何であろうが強力な爆弾みたいに壊してドン底に落とすような、たいへん危険なエネルギーです。

我々は懺悔と後悔の区別ができないように思います。例えば、世の中では「ごめんなさい」と髪を振り乱して泣きながら謝ればすばらしいとほめるような風潮があります。それは後悔になりますか? 懺悔になりますか?

善行為は明るく活発で前向きな行為で、悪行為はその逆で、暗くて後ろ向きな行為です。それでこの例の場合は、涙を流しながらでも「ごめんなさい」と謝っているのだから、その人はがんばっているでしょう? 何とかその問題を解決したいと思って行動しているのだから明るい。ポジティブです。

後悔というのは、「悪いことをしてしまった、またやってしまった」と、一人でクヨクヨ悩んでいるようなことです。そうやって泣いていても、暗くなるばかりで何の意味もないのです。大胆に「悪かった、謝ります」と行動するのは、懺悔の世界です。

誰かに過ちを犯したならば、その人に謝ればいいのです。謝ってもまだ怒っていたら、またがんばって、工夫して、何とかしようとすればいいでしょう。仏教では、正直にがんばることは奨励します。間違いを犯さない人はいないのだから、自分の失敗に悲観的になることはないのです。失敗するのはしょうがない。ではどうするのか、という対処法が問題です。間違いを謝ることは、一番手っ取り早い対処法なのです。

懺悔というのは謝罪ということですか。しかし、懺悔する場合は、謝罪する相手は誰ですか。

確かに、我々には知らず知らずに犯してしまう間違いがたくさんあります。貪瞋痴で行動すること自体が間違いなのだから、欲や怒りがある限り、我々は間違いからは逃れられないのです。そういうのは何かすごい過ちを犯したというところまではいかないかもしれませんが、だからといって、その生き方が正しいわけじゃないでしょう? また、我々が輪廻の中で犯してきた過ちというのは、あまりにも多いのです。

ですから仏教では、罪を謝る気持ちを作って、しょっちゅう懺悔の文言を唱えるのです。朝に夜に、読経の時や瞑想する前など、いろいろな場面で懺悔します。「智慧がなかったからたくさんの過ちを犯しました、懺悔します。謝罪します」ということですね。だから別に「謝罪」と言ってもかまいません。謝る相手がいる場合は、その人に謝罪すればいいのです。でも我々には対象のいない過ちの方がずっと多いのです。だから対象なしの謝罪である懺悔をしょっちゅうするということになります。

懺悔する意味について、もう少し詳しく教えてください。

人間の一番基本的なエネルギーは無明です。無知です。我々は無知のまま、ものを見るわ、人としゃべるわ、いろいろと判断するわ、ありとあらゆる行動をしているのです。これは車の運転ができない人が運転するようなもので、ちゃんと生きられるはずがありません。ギアとは何か、アクセルは何のためにあるかがさっぱりわからない人が運転したら、たいへんなことになるでしょう? 我々も、こころとは何なのか、体とは何なのか、命とは何なのかとさっぱりわかってないのです。当然、全部ムチャクチャです。間違うことは当たり前で、間違わなかったら不思議なのです。正しいことをしたならば、あり得ないようなことが起こったと驚いた方がいい。それぐらい珍しいのです。

人間が正しい行動をするのがそれほど難しいことであるならば、人間に一番必要なことは何でしょうか。まず、自分は無知であるという事実を知って、それを認めることです。世の中は「私は正しい」と胸を張っている人ばかりですが、「自分が正しい」「私が正しく知っている」と思うことほど危なくて、醜いことはないのです。

けれども人は、「自分が正しい」と、皆、思っているのではないですか? 正直に懺悔する気持ちなど、さっぱりないのです。テレビを見ていると「お詫び申し上げます」とか「誠に申し訳ございませんでした」とかよく聞こえてきますが、全部、大嘘でしょう。その証拠に、そんなこといくら言っても、何も直そうとしないのです。たいがいそんなものです。

本当は、そういう「自分が正しいんだ」と思うことは、数ある罪の中でも、特に大きな罪なんです。そういう態度でいたら、修行が進まないどころか、悟りと逆方向に行くことになるのです。例えば修行して出家までした人がいたとします。その人がもし「自分が正しい」と思ってしまったならば、私は、それよりは、どこかで銀行強盗でもやった方がまだましだと思います。なぜならその場合は「自分は悪い」と知っているのだから、立ち直る可能性があるのです。「自分が正しい」と思ってしまうことは、強盗より恐ろしい。わずかでもこころは成長できなくなるのです。

ではもう一度自分のこころに聞いてみて下さい。いくらそういう話を聞いても、やはり「自分は正しい」と思っているでしょう? 実際、たとえ人を殺してさえ「自分は正しい」と言い張るくらい、人間というのは無知でバカなんです。それは特定の人々だけではありません。私も他の人々も、皆同じです。「私は正しい」という気持ちこそ、自分の成長を妨げる巨大な山です。壁じゃないんです。ヒマラヤ山脈みたいに、自分の前にドーンとあって、なかなか乗り越えられません。ですからちょっとトンネルでも掘っておかないと、決して向こうには行けないんです。

だから仏教では、懺悔は決して欠かせません。必ず真剣にやらないといけないことになっています。こころを込めて懺悔して、自我を捨てるのです。高慢を捨てるのです。そうしないと、その人に悟りの道が現れないのです。「自分は正しい」と思う人は成長しようと思わない。結局、そのまんまで終わってしまうのです。

「私は、しゃべると間違う、行動すると間違う、考えるとそれまた間違う。そういうふうに限りない間違いを、いつでも犯している。だから朝も昼も晩も、しょっちゅう仏法僧に懺悔しないといけない」という気持ちで正直に懺悔すると、間違いながらでも、何とかして自分を正そうとするようになります。それが修行になるのです。「今のままではではダメだ」とわかることが成長への第一歩なのです。それによって生き方が正しい方向に変わるのです。

ですから仏教では、懺悔は、出家だけでなく在家にも、皆に教えている大切な教えです。お経をあげるときにも、懺悔の文句はたくさん出てきます。スリランカでは、子供たちは、毎晩寝る前に両親にちゃんと礼をして、懺悔します。子供たちが簡単に懺悔できるように、そのための短い文章が作ってあって、昔からの習慣として根付いているのです。でも懺悔がただの習慣になってしまったら、本当の気持ちが消えてしまいます。何となくちょっとした儀式になってしまうと、効果がないのです。

懺悔は本当に正直なこころでやらなくてはいけません。懺悔はただの文言ではありません。「自分が正しい」と思うエゴをなくす、大事な修行なのです。

懺悔誓願の文(さんげせいがんのもん)
「懺悔いたします。無明の闇におおわれて、身口意の三業によって犯してしまった過ちがあります。仏法僧に対する過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち、これら一切の過ちを懺悔いたします。また、自分が受けた他の人々の過ちもゆるします。
このように雑事を離れ、ひとり静かに自己の心身を念をもって観つめるとき、瞬間瞬間、変化生滅しつづける現象を、ヴィパッサナーによって洞察し、真の幸福を得て、解脱の道へ導かれますようにと、ここに誓願をいたします。」

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