あなたとの対話(Q&A)

瞑想中にあらわれる不安や恐れ

ヴィパッサナー瞑想をご指導いただいてから半年以上になりますが、 何か心の中でつかえているのを自分で感じており、瞑想中に思わぬ不安や恐れがある事に気がつきました。一年前二人の親友と別れること(一人は死別です)になり、その時は「人生、何でもあり得る」と無理矢理プラス思考していたのですが、瞑想中に友達の顔が浮かんでは消え、悲しみにおそわれます。

無理矢理というのは自分の気持ちに逆らって行動することですから、うまくいかないでしょう。逆効果になりかねません。感情を後回しにして客観的に、合理的に物事の判断ができればありがたいのですが、それもすぐできることでもありません。ですから、以下のように観察してみます。別れた相手のことを置いておいて、その原因で自分のこころに現れてきた苦しみ,悲しみを確実に感じ取り、それを「これは苦しみです」「今は悲しみです」「今、寂しいと言う気持ちです」とその都度確認します。悲しいのは自分であって、別れた人ではありません。「その人がかわいそう」に思う気持ちは正しくないのです。何の役にも立たないのに、悲しがって苦しんでいる。それによって不幸になって行く自分がかわいそうではないでしょうか。そう言う訳ですから、自分の心に突然現れた悲しみの感情を客観的に観察することがコツです。

この瞑想のねらいは悲しみを正当化して、美化して、さらに人を悲しみに落とす悲観主義ではなく「こうすれば悲しみが消えちゃいますよ」という楽観主義でもありません。「悲しみはこのような段取りで生まれるんだ、愛着からも、やはり悲しみが生まれるんだ、‘手を叩いたら音が出る’ように当たり前の因果法則だ」と理解することです。

離れてしまった友達へは慈悲の瞑想をしますが、返って思い出が強くなり、涙が出てしまいます。どうすればよいでしょう?

この場合の「離れてしまった友達 」のことが少々分かりません、死に別れか、生き別れか。
死別の人には慈悲の瞑想はいたしません。してはならないと、仏典に明確に指導してあります。
死は悲しみを作る対象です。悲しみは暗いこころです。暗い心は怒りの感情です。
慈悲の瞑想という建て前で怒りを実践しています。決して良い結果にはなりません。慈悲の瞑想は『生きとし生けるものに』対して実践いたします。今実在しない人にしても意味がありません。生きていないものにも慈悲の実践をすることに意義があるとするならば、「ゴミ箱も幸せでありますように」と瞑想しても構わないでしょう。それは馬鹿らしいです。「熊さんが幸せでありますように」と実際に生きているものに対して念じても、熊のぬいぐるみには瞑想いたしません。一方、生き別れの人に対しては、慈悲の瞑想はかまわないのです。

しかし、こころが出来ていない人にとっては難しいことですので、その人のことを放っておいても悪くないのです。別れた人も幸せでありますようにと念ずると、そちらはそちらで幸せで、こちらはこちらで幸せでがんばっていますという訳で、気持ちが良くなります。別れた人に対する愛着の感情が、無執着の善なる慈悲に変わります。でももし、生き別れの人に慈悲の実践をすると悲しく,苦しくなるならば「自分は別れて欲しくなかった、でも別れた」という怒りの感情があるのです。そのような場合は自分のこころが直るまで、その人のことも慈悲の瞑想から外します。

瞑想してごまかすのではなく、ありのまま認知しようとしても落込みが強く、胸が 苦しくなります。「不安、悲しい、孤独」とラベリングしますが、それでいいのでしょうか?

この状態は今まで説明してきた道理で理解していただきたいのです。
ありのままに認知しようとしてないのです。「あって欲しい状態を認知していた」のです。
それは妄想であり欲望でもあります。
世の中に(1)常にある状態と(2)私達があって欲しいと希望する状態と二つあります。(2)は論理的で具体的なものであるならば叶うことも度々ありますが、長持ちはしません。(1)は変えることが出来ません。例をあげてみましょう。(1)人は死ぬ。(2)病気に掛かっているこの人は死んで欲しくない。…(2)の希望は叶う場合ありますが、永久的には叶わないでしょう。『ありのままに』観察しないで、『あるべきままに』観察すると胸が苦しくなりますよ。それは純粋な瞑想にもなりません。「不安、悲しい、孤独」とラベリングしてもかまわないのです。まずそのようになさって見ることです。それで結果として悲しみが増えるのであるならば、ありのまま観ることはまだ出来てないと言うことになります。智慧が現れてこない。自分のこころの問題で悲しみが生まれてくることにまだ気づいてない。『じぶんのこころにある煩悩』が悲しみを作っているのであって「別れたあの人のせいで悲しんでいるのではない」ことが分かっておりません。そのときは,こころの傷口が深くなる前に環境を変えてみます。歩く瞑想をしたり何か勉強したりとか。要するに悲しくなる妄想が出てこないように工夫する。この方法も心が強くなって智慧が現れてくるまでです。

一人で瞑想している自分が寂しくてたまりません。

瞑想は一人でするものでしょう。普通は隠れてお化粧をして、堂々と人の前にでる。皆の前で堂々とお化粧して私綺麗でしょうと聞く人はあまりない。瞑想はこころの汚れを落とすことだから、堂々と一人で隠れてやってください。が、たまに瞑想会に参加したり、仲間を作ってみたりすることも必要だと思います。

もっと強い自分を作り、落ち着きを得たいと思っております。

まもなく、出来ますよ。安心して精進して下さい。

私は熱が高くても学校も会社も休んだことがないのですが、自分が病気になるより、他人が苦しんでいる姿がとても恐いのです。何かあるのでしょうか?

他人によく思われたくて、無理をしてきた自分の本心との戦いの苦しみを知っているからです。
自分にも他人にも「もっと落ち着けぇ」と言うことですね。神経ピリピリで、フライパンの上にいる人生は面白くないよ! と叫びたいね。そう思わない?

「妄想、妄想…」とラベリングして、中々消えなくても消えるまで見ていくのがヴィパッサナーだと聞いた事もあり、また10回位ラベリングしても消えない時は、無理矢理、中心対象に戻すと聞いた事もありますが、どちらがベストでしょうか?

「妄想が消える」と言う固定概念を捨てて下さい。
こころの自己回転を妄想と言います。酷い,怖い妄想は嫌でしょうし、気持ちのよい妄想をよろこんだりします。妄想も「見る,聞く、呼吸する」などの自然現象です。目が見えなくなってもこころの自己回転は止まりませんから妄想は消えません。私達が「妄想」を邪魔者扱いするわけは、妄想は、集中力の妨げになるからです。妄想に如何なるコントロールもないからです。例えば、バラの花を目でみて「おにぎりだ」と思うバカはいませんけど、旦那の帰宅が遅くなっただけで「浮気しているのでは」と考える妄想だけは可能でしょう。ですから無理に止めることではなく、押さえておく、管理しておくことが大事です。妄想の管理、制御になるならば、あなたのおっしゃった二つの方法も適宜に使ってみてください。軽い妄想は10回ぐらい念ずると押さえられます。激しい妄想の場合は押さえられません。また妄想ばかりで瞑想にもなりません。そのときは二番目の方法をとります。

【蛇足】
こころが止まることなく自己回転する。それを瞑想の世界では『妄想』という概念で扱っています。仏教では人(生命)が死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生の概念の根拠もここにあるようです。人は死ぬ瞬間においてもこころが回転してしまって何かに囚われてしまいます。それから離れなくなります。そのため、別な空間で、別な次元でこころの回転が続くことが転生です。次に生まれるところは、死ぬ手前の時間の妄想で決められます。