あなたとの対話(Q&A)

世間の泳ぎ方

パティパダー2006年12月号(112)

家庭や仕事を持っていると、子供のことや職場のことなど、あらゆる問題、思い煩い、悩みがある。子供の頃からずっと、悩みから自由になれない。ヴィパッサナーをしていても、我々につきまとってくる問題というのは、常に必ずあると思うんです。生きている限り、ずっと問題に対処しないといけない。いろいろな問題に関わり合いたくなくても、関わり合うことになる。そういう荷物をしょいながら生きるのが現実の姿です。そうすると、悟ってない我々は、生きないといけない現実の中で、仏教の教えに救いの光を見出しながら修行をしているわけですが、やはり悟れてはいないので、毎日悩んでいる。這い蹲って生きているような感じの時もあります。悩みがないというのは夢なんですが、現実にはそういうことはないんです。問題がない瞬間があっても、すぐに問題が出てきてしまって、そこからは逃れられないという気がするんです。そこはどうすれば良いのでしょうか。

「問題がない瞬間があっても、すぐに問題が出てきてしまって、そこからは逃れられないという気がするんです。」
 
 ご質問の結論はこれですね。常に何かの問題がある。それは現実の姿です。
 
 それで、「どうすれば良いのか」と聞かれると、答えは、「どうすることもないでしょう。問題に立ち向かいなさい」ということになるでしょう。あまり面白くもなく、役にも立ちそうもない答えですね。
 
 生きることは「苦」であると仏教で説かれています。生きながら、生きることの中で、安楽、楽しみ、救い、意義などを探すと、それらが見つからなくて途方に暮れることになるのではないでしょうか。
 
「苦」というのは苦しいという単純な意味ではないことはご存じでしょう。苦しいことなんかはたまたまあることで、常にあるものではないのです。一つの問題を解決したら次の問題が生じる。何かを解決したと思っても、満足出来るような、最終的な解決ではない。そこで、「どこまでやるのか」という気分になる。とにかくがんばって、耐えて耐えて生きていても、老いて死ぬ。そうすると「いったい人生とはなんだい?」という気持ちに陥ってしまう。この不満、空しさが「苦」です。「苦」は、ものごとの本来の姿です。
 
 それで、人間は、「そんなことはない、何か幸福・安らぎがあるはず、神様が何か尊い目的があって我を創造したはず、本来は佛性が備わっているのでそれを発見すれば良い」などなどの妄想で、生きる苦しみに背向いてやろうと思う。例えで言えば、凶暴な熊が襲って来ているのに、両手で顔を隠して「安全だ」と思っているようなものです。
 
 では解決策は?
 
 生きることは、何かの問題を抱えていることです。ということは、その問題にアタックして解決しようと努力することこそが生きることになるでしょう。そこで、必要なのは、ベターな解決策を見出すことです。そのためには、日常生活のいかなる行為・行動についても、理性が必要になる。頭は明晰に動く必要がある。世の中の問題を完全に消すことは出来ないが、自分の理性を磨き上げて智慧と経験を向上させることなら出来る。
 
 理性が生まれないのは、一日中妄想に耽っているからです。妄想を止める。何も余計に考えないことにする。思考は、具体的・現実的で実践・実行可能なレベルで止める。「口より腕を動かせ」という生き方をする。
 
 妄想を作り出して、無知を強化する原因は、感情です。「欲しい」「嫌い」「止められない」などの感情には、理屈も理性もないでしょう? 全ての感情に理屈・理性・具体性はないのです。ただ、無知のみです。

といっても、人間は、喜怒哀楽の感情を生きる衝動にしているのでは?

その考え方はあべこべでしょう。感情の刺激で生きようとするならば、人生の僅かな問題でも解決出来ないのです。感情は問題を更に悪化させるのです。タバコの吸い殻の火の玉が、山火事を引き起こすほどのものになる。感情に負けないこと。それが正しい。それで智慧が現れる。感情こそは生きる苦しみを創造する悪魔だと思って生きるのです。
 
 ご質問には「関わりたくない問題にも関わることになる」という感想がありましたね。
 
「関わりたくない」と言う場合、問題から逃げたい、目をそらしたいという気持ちが作動している場合がありますね。「逃げたい、無視したい、関わりたくない」なども、感情です。関わりたくても関わりたくなくても、自分に関係ある問題には対面しなくてはいけないのです。小さな問題を後回しにしたら、間もない内に、ビールスのように大量発生して増殖するのです。
 
 それより問題なのは、関わらなくても良いことに余計に自分が手を出したり、口を出してしまうことです。それで新たな余計な問題が生じる。いかなる問題でも、「自分の管轄の範囲内か、又は管轄外か」と区分けした方が良いでしょう。管轄外のことは完全に無視する。
 
 管轄の範囲内、自分に関わる問題であっても、解決策はない、今更どうにもならない、取り返しはつかないことも度々ありますね。我々はそれをよく気にする。これがとんでもない間違いです。解決策がない問題というのは、問題ではありません。存在もしないのです。妄想するから「問題がある」と錯覚をするだけです。
 
 例えで考えましょう。子供が病気になった。治療が何かの理由で遅れた。最愛の我が子は亡くなりました。この悲しい出来事は問題だと思いますか?
 
 これはもう取り返しがつかないでしょう? 解決策はない。なのに過去を思い出しては悩む、子供の将来の姿をイメージしては悩む。それだけです。それが「妄想で悩む」ことなのです。子供に関しては、実は、何の問題も、今現在にはありません。今現在にある問題は、これから自分はどう生きるべきか、何をすれば良いのかということです。ですから「解決策がない問題は存在しない」ということを覚えて欲しいのです。
 
 ということは、裏を読んでみて下さい。「問題があるとするならば、必ず解決策もある」のです。その「いかなる問題にも解決策がある」というところから観察すると、「誰でも何の問題もなく生きていられる筈だ」という仮説が成り立つ。
 
 実際、我々は、「毛糸玉を整理しなさい」と猫に頼んだような感じで、問題を解決しようとしてしまう。複雑にするばかり。機関銃の乱射ですね。狙い撃ちではありません。
 
 我々が遭遇する問題は、決して、強大な、エベレストのように高いものではありません。瞬間単位でものごとを観察して観てみましょう。そうすると、問題はとても小さなことだと理解出来る。それは簡単に解決出来ます。
 
 ある日突然世界戦争が勃発するわけではありませんね。日々積み重なる解決しない問題が、溜りに溜って起こることでしょう。ですから、日々の問題を解決する。今の時間の問題を解決する。
 
 そのような生き方になれば、その人には問題はありません。絶えず問題が起きてはいるが、その人は絶えず対応しているのです。
 
「絶えず問題が起こるのは嫌だ」と思うなら、それは勘違いもいいところです。日々ご飯を食べているのに。絶えず呼吸をしているのに。
 
 休息を取ったらそれで終わりです。人生に・輪廻に休息はありません。
 
 解脱こそが超越した休息・安穏なのです。そこはどうすれば良いのでしょうか。

人生をゲームのようにアプローチして生きるとは、問題を感情的に見ずに、解決法を楽しく探すということでしょうか。

ゲームなら、楽しく解決法を探す余裕はないと思います。私は現代のコンピューターゲームのことを考えています。瞬時に反応しなくてはならない。待つ時間はなし。待っていたなら、早くもゲームオーバーです。適切に反応したら、長い時間遊べる。
 
 パソコンゲームは、勝ちも負けもそれほど関係ない。勝っても何か得することもないし、負けても何か損することもない。しかし、一つ、一つ問題を解決していくと、「良く出来ました、無事クリア出来た」という充実感がある。
 
 人生も同じです。瞬間・瞬間の充実感が人生の楽しみです。(それも無常で、空しいものですが)

私は、人の良い面も見えますが、その十倍くらい悪いところが見えてしまいます。無理に人の悪いところを見ないようにするのもおかしいと思うのですが、どうでしょうか。

人の悪いところは見ない方が良いのです。自分が嫌な気分になるでしょう?
仮に、自分が悪いと思うところは客観的に観ても本当に悪いところで、自分の見解は完全に正しかったとしても、人の過ちを一つずつ発見する人の心境はどうなるでしょうか。

(1)嫌な気分になる。怒りで、不幸で生きる羽目になる。落ち着きがなくなって自分の生きる道も誤ったりする羽目になる。

(2)「見づけたぞう」と発見者の喜びを味わう。その時は、他人の不幸、過ち、失敗などを摂取して生きている悪霊のような存在になっている。コヨーテ、ハイエナ、ジャッカル、ハゲタカのような生き方になる。悪霊なんかは皆に嫌われて除霊されてしまうから、結果は不幸。又、傲慢になることは悪なので、罪を犯す人間にもなってしまう。

(3)自分の欠点を隠す言い訳にする。「皆、もっと悪いことをやっている。それに比べると私は立派です」という気分。この人には自分を向上させるチャンスはありません。自分の間違いを肯定することは、実際の間違いよりも質の悪い重い間違いで、邪見です。邪見という罪を犯すと不幸になる。

(4)勉強になる。「人の悪いところはいっぱいあるが、それは感情と無知で生きているからだ。しかし、本人には実感がない。私にも感情がある。自分がやっていることは正しいと思っている。しかし、悪いことをやっているという実感がない。これは危険です。従って感情を制御するように努めなくてはならない」と、このように思う人は、人格的に向上する。智慧が現れる。
 
(4)以外は皆ダメで、危険でしょう? しかも悔しいのは、他人が間違いを起こす度に、自分にも罪が加算されることです。自分の罪のアカウントが、何もしていないのに、急激に増えてしまう。善のアカウントは、引き出してもいないのに、減ってしまう。それって理想的な生き方ですか?

「悪いところが見えるか、良いところが多めに見えるか」というのは、智慧の結果というより、その人の人格なのです。
 
 一人、一人が、自分の偏見というものは持っている。人の良いところ、優しいところ、がんばっている姿を多く見る人は、楽しくなって、自分もがんばる気分になれます。だから、人の良いところを多めに見られるようにと努めた方が、正しいのではないかと思います。
 
 余談ですが、仏教的な立場は、ありのままに観ることです。悪いところは悪いところとして、善いところは善いところとして、客観的に、偏見無しに観るのです。可能なら他人の悪いところを直すために協力する。それが上手くいかない、逆効果になる場合は、ウペッカー(落ち着いた平安なこころ)でいる。自分の悪いところを他人を参照して確実に直していく。これは仏教の中道的な生き方ですね。