あなたとの対話(Q&A)

輪廻の解釈について

「輪廻」はサンスクリット語で「流れること」を意味する「サムサーラ」の訳であって、古い時代から、「世の中」あるいは「世界」という意味に使用されており、サムサーラをすべて「生まれ変わる」と解するのは間違っていると言われています(中村元、『仏教語大辞典』「輪廻」1431頁)。
というふうにあります。
しかし仏教で言うサムサーラは「迷いの世界」という意味で使われていて、彼岸(涅槃)に対する「此岸」、つまり、輪廻とは煩悩に支配された状態ということだそうです。

インド(ヴェーダ)思想では、「輪廻=生まれ変わる、解脱=不生」

仏教思想では、「輪廻=此岸(煩悩)、解脱=煩悩からの自由(不支配)」

もし前者の解釈だと、前世とか来世とかいう話しになり、形而上学的な質問に無視(無記)したブッダの教えではなくなると思います。
テーラワーダの言う輪廻も後者の解釈でよろしいのでしょうか?

輪廻の解釈について I
> 「輪廻」はサンスクリット語で「流れること」を意味する「サムサーラ」の訳であって、古い時代から、「世の中」あるいは「世界」という意味に使用されており、サムサーラをすべて「生まれ変わる」と解するのは間違っていると言われています(中村元、『仏教語大辞典』「輪廻」1431頁)。
> というふうにあります。

大辞典ではそう言うことですね。辞書と言うものはある言葉の歴史的な展開と、様々な意味と、その言葉の使い方を説明すると思います。
用語辞典になるとその専門分野での意味を書きます。その意味を一般語として使えないことも多々あります。

では、
Sanskrit語で「流れる」という意味かもしれません。彼 [中村教授] がどの時代のSanskrit語だと言っていますか? Vedic Sanskritl、Panini後のSanskrit、中世の文学Sanskritなどもあるし、またBuddhist Hybrid Sanskrit というものもあります。そのそのSanskritによって、また時代によって、分野によって言葉の意味が変わっていきます。テキトーな訳で真剣な論理については語れません。
Sanskrit語でsansarati,sancaratiと二つの言葉があります。仏教用語ではこの二つの言葉をほぼ同じ意味で使っています。もともとは意味二つですが。

Sanskritと言う名はBC6世紀ごろ?文法書を書いたPaniniさんが作ったもので「人工語」と言う意味です。
学問に使う標準語になった言葉です。必ずしも哲学者、宗教家が標準語の意味で使用してないのです。
宗教の中でSanskrit語を使っているのはUpanishadだけです。
Hindu教が主流になってから大乗系の仏教徒が強引に経典をサンスクリット化したのです。それはAC1世紀からの話です。
Jaina教、諸々のAjivaka教、仏教などの教えを理解するためにSanskrit語を基準にするのは「ピンぼけ」です。
参照する必要は当然ありますが、それで深い意味まで通ったことにはなりません。この宗教家達がSanskrit語で考えたわけでも、語ったわけでもないのです。

仏教の場合:(Sansāra)
Sanskrit語の「流れる」という意味を気にしているようです。流れるのは液体であることも忘れずに。「流れる、漏れる」と言う意味を必要になったときは態(わざ)と(Sanskrit)Srav,(Pāli)savaと言う言葉を使ったのです。煩悩に使用するāsavaと言う用語はこれです。
Sansāraの場合sandhāvatiという言葉と意味合わせをするのです。Sandhāvatiは走り回る、目的なく(散歩みたいに)歩くと言う意味です。ですからsansarati(sansāra)も同じ意味になるのです。「流れる」と言う物質に使う意味が変わって「生き物」にかかわる言葉になるのです。~生き物は流れません。意志で動くのです。~
標準Sanskrit語の意味はどうであれ、仏教はその意味でこの言葉を使ってないのです。
長くなるので、残りは後程(暇があるとき)意見を書きます。

お忙しいなか、お返事ありがとうございました。
後半の部分の「輪廻の解釈」については、自分勝手に解釈するのは危険だと思いお聞きした次第です。
ご多忙だとは思いますが引き続きお返事を頂けると幸いです。

輪廻の解釈について II
Q:
> 「輪廻」はサンスクリット語で「流れること」を意味する「サムサーラ」の訳であって、古い時代から、「世の中」あるいは「世界」という意味に使用されており、サムサーラをすべて「生まれ変わる」と解するのは間違っていると言われています(中村元、『仏教語大辞典』「輪廻」1431頁)。
> というふうにあります。
> しかし仏教で言うサムサーラは「迷いの世界」という意味で使われていて、彼岸(涅槃)に対する「此岸」、つまり、輪廻とは煩悩に支配された状態ということだそうです。

仏教では迷う、走り回るという意味ですので、解釈は辞典通りです。しかし、日本語の「彼岸、此岸」になると又違う意味で使っているので気を付けなくてはならないのです。
Pāli語の経典では、idha,para; iha loka,para loka; idha,pecca; idha,hura; asmiṃ loke,pare hi ca など沢山の言葉があります。
正しく訳するときは、「此岸彼岸」ではなく「この世、あの世」と言うことばが使われます。
この世とは今生きている世界のことです。こん生です。今生の場合は意味がはっきりしています。
あの世とは死後のことです。死後はこの世と違ってどのような状態かがわからないのです。あの世の意味が定められないので人々に好き勝手に解釈できるのです。

例えば、あの世はたった一つです。それは天国です。佛界です。極楽土です。梵界です。云々。
又、あの世は天と地獄と言う二つで、その中の一つに行くのです。このような説明になるとあの世は一つで、それは「永遠不滅」だと言うことになります。
それで、仏教の世界では、「この世でも短命で寿命が決まっているのではないか。そうすると、あの世でも寿命は決まっているはずです。あの世の寿命が終わったら又死ぬことです。そうなるとその人に、生命にまた『あの世のあの世』があるのです。したがってあの世とは無数の生まれと死ぬという回転になるのです」と解釈するのです。
これは皆知っている「輪廻」ということです。

あの世は一つですと言うと論理的ではないのです。
こちらで精々八十年生きていたとしてもその結果は無限だ、永遠だ、と言うと割に合わない話です。
一生罪を犯さず生活しても「神を信じなかった」だけでも永遠の地獄に落ちるのだと言うのだから、仏教徒にとっては論理的ではないのです。
善でも悪でもその重さに相応しい結果を出すべきだと仏教徒が思うのです。
ですから「あの世」の話は輪廻転生の話に変わってしまうのです。
『証拠を出せ』ということを据え置きにするならば、輪廻転生の話は合理的です。数学と同じです。証拠はないが幾らでも数学的に正しい数式を作ることができるのです。1/3の小数点は無限でしょうに。だれも具体的な証拠を出してないのですが、論理的に正しいのです。

「どんな現象も適当な結果を出して消える」というのは因果法則の論理です。ということで、証拠を探すことに手を焼くこともなく、単なる信仰でもなく、皆が言っているのだからでもなく、仏教の世界で「あの世」として無数の生死の回転という意味の「輪廻」の概念が出来たのです。現代人に、他人にどのように見えても仏教徒には「輪廻」が論理的な思考です。この「輪廻」と言う無意味な、また苦たる回転を破ろうと修行しているのです。

彼岸=輪廻か?
此岸彼岸の概念は仏教的というより中国、日本文化的なものだと思われます。
極楽土、成仏などは日本的な宗教観念です。この思考の中に仏教から借り入れた思考があるからと言って純粋な仏教思考だと思わないほうが楽だ思います。
大乗の方々の話から言っても仏教の思考は「輪廻六道」です。お盆に帰ってくるご先祖様の話ではないのです。
文化的な習慣に宗教的な思考も取り入れて祭りを行うことは人間の楽しみの一つですから「いいんじゃないですか」。キリスト教徒のイースター祭、Halloweenなどはキリスト教ではないでしょうに。

結論:
輪廻(sansāra)とは悟りを開いて解脱をしてない生命の生き様です。苦の続きです。

 ご丁寧にありがとうございました。

輪廻の解釈 III  『輪廻の理念』
続き。
**インド(ヴェーダ)思想では、 輪廻=生まれ変わる、 解脱=不生***

質問には以上の文がありました。
仏教、ジャイナ教などで見られるような輪廻転生の概念はVeda聖典の時代でなかったのです。
(Orthodox)正統派(主流)のVeda伝統(Brahmanic or Vedic tradition と言います。)と違った(hetorodox)異統派の宗教思想のなかでのみ輪廻の思考が見えます。
仏典でも、Jaina聖典でもごく当たり前の思想として輪廻のことが語られています。
仏典では六師外道だと名付けられている六人の中に三人が、輪廻・業の思想に自分の解釈をしています。ですから輪廻の話は正統派のVeda伝統の課題ではなく異統派の宗教家の課題です。

Vedaの死後とは?
Veda聖典では人が死んだらPitr世界に行くのだと信じていました。それも息子が儀式、儀礼など(Yaaga)行ったならばです。この儀式は「聖なる?」火に食べ物や他の決まっていた供養物を上げて燃やすことです。そのときは必ずバラモン人が儀式を行わなくてはならないのです。Veda聖典も唱えるのです。施主は必ず故人の息子でなければいけません。火は神でもあるし、神の使者でもあるのです。故人のあの世の生を支えるエネルギーにもなるのです。一体複役です。(単純な仏教徒たちには火は単なる火です。火傷だけはしないように気をつけるだけです。)
それで、火の宅急便が運ぶエネルギーが切れたら?という疑問も起きてきたのです。答えが二つ出ました。
1.あの世で死んで無になる。(二回目の決定的な死)
2.またこの世へ戻ってやり直す。
この戻り方も様々です。雨になって地上に落ちて植物に入る。それを食べる動物の体に入る。動物を食べると人間の体に入る。という説もあります。この場合は個人の輪廻転生ではなくなるのです。絶対不滅の魂の概念を持っていた人々が魂の流転回転を謳っていたのです。
どちらにしてもゆっくりと時間を経て発展した思考なのです。
文献の設立年代から考えて見ると仏教思想の後になるのです。とにかくバラモン人が輪廻転生を信じていたと釈迦尊が知らなかったのです。バラモン教に驚くほど詳しい釈迦尊が知らなかったということは何を意味しますか? 当時ではバラモン人の思想の中で輪廻転生なんかは発展していなかったということです。
ですから、
**インド(ヴェーダ)思想では、 輪廻=生まれ変わる、 解脱=不生***
と纏めることは慌て過ぎではないかと思います。

*解脱=不生**の解釈にも問題があります。
Veda,Brahmanic,Hindu思想ではmoksha(解脱)とは創造主の世界に生まれることか、真我と個我の一体化でした。人間として不生かもしれませんが、結局は「あの世で生まれる」ことが解脱でした。
又、真我-個我の一体化が起きても時折この世に生まれると思うこともありました。ですからVeda,Hindu思想の解脱は「不生」にならないではないかと思います。
後のHindu思想ではこの考え方が明確です。『神』が時折この世に現れることを信じています。「化身」と言える思想ですが、仏陀も神の化身にしてしまったのです。
現在のBhavan Satya Sri Saibaba(サイババ)も、南インドのAmatiという名で有名な女性も、自分たちが神の化身だと言っています。(又は、信仰者が信じているかの、どちらかです。)神(真理)も貴方も同一だと言っているので、個が解脱しても戻ることになります。

***仏教思想では、 輪廻=此岸(煩悩)、 解脱=煩悩からの自由(不支配)***
次、この文にコメントします。
輪廻は流転することではないでしょうか。
そうなると論理的に終着点がないことにもなります。どこまででも回ることになります。
Pāli仏教の此岸はこの世、今生きていることです。彼岸はあの世で輪廻ではありません。死んでから行くところを意味します。
ですから、無数回の生まれ変わりではなく一回の生まれになります。
例えば「この世で徳を積む人があの世で幸福な所で生まれる」、「この世で罪を犯した人があの世で不幸に陥る」などの言葉がいくらでもあります。
輪廻と言えば無始なる過去から生まれ変わりをして来て、この世を去っても無明と渇愛に覆われている生命が限りなく輪廻転生して苦しむと言うことになります。ですから過去も輪廻です。此岸も輪廻です。彼岸も輪廻です。岸と言えば場所ですが輪廻と言えば流転と言う機能です。

日本仏教でも此岸彼岸思想がありますが、私がそれについて無学、無知なので語ることはできません。
此岸が煩悩だと言っているようですが、それは又、違うと思います。
煩悩は単純にこころの汚れのことです。煩悩が苦しみの、輪廻の原因です。
輪廻=煩悩でもないのです。

*解脱=煩悩からの自由(不支配)** -この言葉には異論ありません。
輪廻がないと言う意味もあります。

*** もし前者の解釈だと、前世とか来世とかいう話しになり、形而上学的な質問に無視(無記)したブッダの教えではなくなると思います。***
コメント致します。
ここで前者と言うのは質問した方が示したVeda思想における輪廻の定義のことです。「 輪廻=生まれ変わる」ということです。
Vedaにはハッキリした輪廻転生の思想がなかったと前に述べました。
なぜ、仏教思想から輪廻転生の思想を離婚させようとリキムのですか。
世界中すべての仏教学者の論文、研究などを踏まえた上でも構いませんが、たった一回だけでも釈迦尊が人の命は死ぬまでです、死後から虚無です、無ですなどの言葉を述べたことがありますかと聴きたいのです。
「無知な衆生は限りなく生まれ変わりして苦しむ」と言う意味の言葉が幾らでもあるのに、なぜその大量のデータを学者様方は無視するのですか。
経典の中でも最古層に入るSuttanipātaの慈悲経にも「慈悲を完成したものが再び子宮に戻らない」と言っているのです。
悟りを開いてその喜びを顕にした言葉の中でも「再び生まれることは苦しみである」(dukkhā jāti punappunaṃ)とあります。この二つのところは皆覚えているところです。初期経典のテキストの五、六ページをパラパラと開けて見ても輪廻の思想に出会います。

仏教独自思想:
生まれ変わる意味の輪廻は仏教の独自な思想です。
他宗教でも輪廻思想のようものがありましたが、それは不滅の魂の引越しと言う意味の輪廻でした。
不滅の魂、実体と言う概念は仏教における「形而上学的」な思想です。何の証拠もない話です。観念です。

実体がないのにすべての現象は流転して別な現象になる。
実体があると流転、無常と言うものが不可能になる。(例:紙に紙たる実体があるならば、それを燃やして灰にすることは出来ません。灰の中にも紙の実体があるはずです。紙は紙という現象で灰は灰と言う現象です。別々なものです。この二つの現象の間にあるのは因果の関係のみです。

我々が精神だ、こころだ、と言う一時的な現象も想像を絶する速さで流転しているのです。こころが、感情が、精神が瞬間でも止まってくれることはないのです。
今の現象が次の現象を作りだすのというのは因果法則の話です。

何故、心と言う現象が死で止まる、ストップになる、次の現象を作らない、虚無になると堂々と言えるのかとわからないのです。 それ自体が観念で、形而上学的で、主観的です。

巨大な物質界を見ても流転は見える。こころの働きを観察しても流転しか何も見つからないのです。
輪廻(sansāra)といっているのは今も無常である、流転している、実体のない、心と言う現象の流転です。
体は地球から借りたものだから返しますが、こころという現象は心の中にある感情、煩悩、業、意志、行(saṅkhāra―ポテンシャル)などの用語で示している原因で流転するのです。(自分が持っているエネルギーで自転しているのです。自転したことが次の自転のエネルギーになるのです。)
これが輪廻転生の思想です。仏教独特の思想です。

五官から入る情報に依存している一般の人々に、簡単に理解出来る範囲の話では無いのです。
否、我々は五官から入る情報もありのままに知っているのですか? それも好き勝手に、主観で、私見で解釈しているのではないでしょうか。
情報を頭の中で勝手にシミュレーションしているのではないでしょうか。
ですからこの世の中は私意見だけの渦巻きではないでしょうか。
仏陀の教えも五官だけの情報で処理できると思っているのは思想家たちの傲慢だと言えないでしょうか。
私が、それらの思想家たちに「あなた方に五官の情報さえも正しく、ありのままに、処理できますか」と聞きたいのです。
西洋の仏教学者達が「輪廻転生の思想も仏陀の思想でした」と認めない限り、日本の学者も目に触れるすべてのデータを葬るのです。
現在は西洋で仏教研究はあまりないのですから、これからも学者の方々は「輪廻に」ついて私意見を述べるだけで終わるでしょう。

生まれ変わる思想は形而上学的?
永遠不滅の魂の引越しが輪廻転生だとすると、明らかに形而上学的です。
この話は仏教では無い。
将来はまだ現れてないから将来の証拠はありません。
過去は歴史ですので、何かの証拠はある筈です。
己の過去だから記憶が一番目の証拠です。『私が』何年何月何日生まれて、○○日卒業して、○○日入社して、○○日結婚して云々と言っているのは 記憶です。
実体として変わらぬ『私』がいるからではないのです。
引き金さえあれば私達は忘れたものも思い出します。
では、明確に過去を思い出せばいかがでしょうか。

お釈迦さまが集中力を極端に育てることによって明確にどこまででも過去を思い出す能力を得たのです。
輪廻話はその智慧の結果です。
仏陀の三慧(三明)は初期仏教の話ではなく作り話だと言える学者がいますか?
仏陀の思想は俗世間の一般人の固定概念にピッタシと一致しなくてはならないのですか。
もし一致するべきだとすると Jesus にも語る権利がなくなります。敵を恨むのは、敵を倒すのは我々の当たり前の固定概念でしょう。それについて Jesus が「敵を許せ」と言っているのではないでしょうか。
我々誰でもいい加減に持っている記憶力、思い出せる能力を磨いて、完全にして、仏陀が生命に輪廻転生ということがあると仰ったのです。
証拠があった上で語ったのです。疑う人にも同じ能力を育てれば証明できるものとして語ったのです。
「これは、私、仏陀だけにしかわかりません、他に知ることは不可能です」と言ったならば形而上学です。信仰するしか道がなくなります。
Vipassanā実践を進んでいくと誰にでも簡単に推測できる現象です。(具体的に過去を経験するためにはサマーディの能力が要りますが)

無記とは何?
「無記」は論理的に成り立たない項目ではないかと思います。
形而上学的な思考に仏陀が「無記」(avyākata)ではなく「無意味、根拠無し」(appāṭihīraka)と言う言葉を使っていました。
時に、形而上学的な話を論理的につぶしました。

無記になる項目の一と二は身体と魂は同一なものですか、または別々なものですかということです。
この質問は「身体は実体としてある、永遠不滅の魂も実体としてある、存在すると」いう前提で伺うものです。
同一ではないと別々になるのは当たり前だ、と人が単純な理屈で考える。
この二つに「yes」と言っても「no」と言っても「実体を認めることになります。
相手が最初から、ものごとを決め付けておいて、その固定概念から成り立った疑問を解決したくて『アホらしい』質問を出しているのです。
兎の角は短いですか長いですかと訊いたこととおなじです。答えが無いので「無記」です。無記の意味は答えが無いということです。
当時インドのすべての宗教家が話題にしていた十種類の質問がありまして、その問題にお釈迦さまが「無記」と仰ったのです。(宇宙に星が何個ありますかと訊くと「無記」ではありません。誰にも答えられないけど、確実に答えがあるのです。「無記」は答えが無い質問についてのみ成り立つのです。)
十の無記質問の中に輪廻の疑問は無いのです。

形而上学?
西洋の形而上学について無知ですが仏典の形而上学も説明致します。
例で説明します。
あるバラモン人が、沐浴で魂は浄化すると信じていました。
彼が死後Brahamaの世界に生まれ変わることを期待して、毎朝日の出の瞬間の前に沐浴をしていました。「沐浴で魂は浄化する。罪は消える。」これは形而上学的な思考です。
朝、水汲みに行ったある召使の女の子が(彼女が仏教を理解していたのです。)これを見ていて「朝寒いのに、何をしているのですか」と訊いたのです。
それにあのバラモン人は胸を張って答えたのです。「沐浴で魂は浄化する。罪は消える。この行を毎日行えば死後Brahamaの世界に生まれ変わる。」と。
女の子は「では先生、この川に住んでいる蛙、水蛇、小魚などが先生より先に、またもっと上級レベルで死後Brahamaの世界に生まれ変わることでしょう。」
論理に負けたバラモン人が彼女から心を清らかにする方法を教られることになったのです。

供養は息子がするべきです。いくら良い人でも無神論者は地獄に落ちる。聖典を唱えれば、お祈りすれば天国に行けます。家の玄関は鬼門を避けるべきです。 エトセトラの思考はすべて形而上学です。論理的に潰すことができます。
では、出来れば輪廻転生の仏教的な思想は形而上学的だ、無記だと潰してみて下さい。(大乗的な思想のことを言っているのではないのです。)

結論:
色々言い過ぎで困っている可能性もあります。
もし輪廻転生もあるならば人間の生きる苦しみは「並」ではないのです。
この世の一時的な楽しみに足を引かれて修行を後回しにするべきものではないのです。いい気になって遊んで、ふざけて生活しても業になりますから、大変です。
とにかく道徳的な生き方こそが無難な道です。「生きるのは嫌や」と思って自殺してもバカをみるだけです。

この短い人生で、この二度とない機会で、人が勤め励むべきです。
ありがとうございます。
Sumanasara

(追伸:
輪廻について説明、解釈、証明などはこの文書で述べてないのです。)