施本文庫

「死」は幸福のキーワード

~「死隨念」のススメ~  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

ブッダはただの先生 

人間は誰の奴隷でもありません。皆さんが仏教を学んだからといって、ブッダの奴隷でも、私の生徒でもないのです。私の言うことも、気に入らなければ、反論する自由は100%あります。だからといって屁理屈で反論されたら私もただでは済ませませんから、ちょっと恐い目に遭うでしょう。
しかし、きちんと論理的に、データに基づいて反論するのは当然の権利です。仏教の世界では誰も、誰かの奴隷にはならないのです。私達はお釈迦様に礼をしますが、お釈迦様が「やりなさい」と言ったことは一度もありません。聖書やコーランなどのテキストを読んでみると「拝め、拝め」「我を褒め称えなければ地獄に落とすぞ」と一貫して言っています。仏教にはそれがありません。 

お釈迦様がおっしゃるのは「私はただの先生だ」ということです。「しかし私には敵わないのだ」と付け加えます。「先生」と呼ばれる人ならいくらでもいますが、一般の「先生」は大した力がありません。
お釈迦様は「私は先生です。私に敵う先生はいませんよ」「誰でもいいから寄こしてみなさい。心の問題をすぐに治してみせます」と言いきるのです。 

「私はやり方を教えます。実践するのはあなた方自身ですよ」と述べて、「結果を見て、自分で考えてください」と堂々と言いきることのできる、偉大なる師匠なのです。 

死を予告したお釈迦様 

では、偉大なる師匠、お釈迦様が亡くなるときはどうだったのでしょうか。お釈迦様は、亡くなるに際して、「あと3ヵ月です」と宣言しました。お医者さんの余命宣告ではありません。ご自分で「あと3ヵ月、まあ頑張ります。それで命は終わりますよ」とおっしゃったのです。そして、ご自分でおっしゃったその日にぴたりと、亡くなられました。 

なぜ自らの死を前もって宣言したのかというと、みんなに心の準備をさせたかったのです。師匠が亡くなるのですから、弟子たちは一人一人で頑張らなくてはいけなくなります。突然だと「私達はこれからもう指導者もいないし、どうすればいいか」となりますから、心の準備期間を与えて独立させようとお考えになったのです。 

自らの余命を宣言すると、たくさんの人がお釈迦様に礼をするため、次から次へとやって来ました。病気になって死にかけている状態ですから、お釈迦様はすごく疲れていました。しかも全然、休みがありません。ずっと人々が並んでいたのです。会いに来た人が数百人いても、ズラッと並んで一斉に礼をして済めば楽なのに、みんな最期ですから一言、何かしゃべりたいのです。人間のわがままで、具合が悪いお釈迦様に頑張らせてしまった。本当に残酷な話です。それでもお釈迦様は、休まずに頑張りました。 

皆さんも貴重なチケットを買うために、2日や3日くらい、徹夜して待っていたりするでしょう? 人気の新製品なら10時開店の店に、前の日からもう並んでいたりします。ふだんは怠けてばかりの人間が、なぜかそのときだけ頑張ってしまう。その新製品の行列のように、当時もお釈迦様と一言でもお話しをしたいという人々が並んだのです。 

ブッダへ本物の敬意 

しかし、ある一人のお坊さんだけは列に並ばなかったのです。彼はダンマーラーマという名前で、独り隠れて自分が坐る場所にずっと坐っていました。
お釈迦様への挨拶を済ませた人々などが「我々は挨拶を終えたというのに、あなたは何をやっているのですか? お釈迦様がもう涅槃に入るのに、挨拶に行かないのですか?」と聞きました。すると、「私は忙しい。そんな暇はない」と答えたのです。 

ちょっと理解できない言葉でしょう? 実際のところ、何もやっていないのです。一人で自分の部屋にいるだけ。これだけ聞くと、あまりにも乱暴で失礼で、行儀が悪いです。お釈迦様の側近でお世話役のアーナンダ尊者のところに、「こんな人がいます」という報告が入ります。それを尊者がお釈迦様に伝えたところ、「ああそう、ではその人を呼びなさい」と、お釈迦様がメッセージを送られたのです。 

ブッダの命令には誰も逆らえません。「忙しい」と言っていたダンマーラーマも、サッサと来たのです。お釈迦様は彼に尋ねました。「私に最後の挨拶をしようと皆、来ています。王様は来るし、お后達も来るし、大臣達や軍人も来るし、一般人も来る。出家も遠い地方から来て、今、並んで待っています。君は挨拶する暇もないと言います。それは本当ですか?」と。
するとダンマーラーマは「はい、その通りでございます。私は忙しいのです」と答えました。「何が忙しいのですか?」と聞くと、「お釈迦様は皆に解脱に達しなさい、悟りなさいとおっしゃいました。ですから私は、お釈迦様が息を引き取る前に、何としてでも悟りに達したいのです。ですから忙しいのです。時間がないのです。何年もかけて修行するなどとんでもない。お釈迦様が涅槃に入る前に悟りに達すると、私は決めたのですから」とダンマーラーマは答えました。 

それを聞いたお釈迦様は大きな声で3回、「サードゥ、サードゥ、サードゥ」とおっしゃいました。「サードゥ」というのは「見事だ」という意味です。
そして、「私を尊敬するのはこの人だけです。私に対して敬意を抱いて、私を褒め称えているのはこの人だけです」とおっしゃったのです。このように、お釈迦様は最期まで「私を拝め」とは言わなかったのです。 

礼をするのは我々の勝手で、お釈迦様はそういう命令をしていません。なぜかというと、一人一人が自由なのです。誰の所有物でもないのです。しかし生まれてきた生命は、どういうわけか、誰かの奴隷になるのです。具体的なマスター(主人)が見つからないと、イメージで先程の「キメラ」のような架空のものまで、頭で空想して作るのです。
私たちは、自分を奴隷にして、支配して、独裁的に抑えつける、縛り付けるものが現実に見つからないと、頭で作るのです。作ってまでして、その奴隷になります。頭で作った概念の奴隷になってしまうと、もう他人には手が出せません。自分で作って自分がその奴隷になるのですから、お手上げです。 

お釈迦様は徹底的に立証することが大事だと、立証されることなら認めてもよろしいとおっしゃいました。自分で作った妄想が立証されることはあり得ませんね。 

お釈迦様は、人間の煩悩をなくすために、人間の洗脳を解くために、人間に自由の道を教えるために、たいへん苦労をなさいました。素晴らしい先生でしたから、素晴らしい教えが残ったのです。聞いただけでもびっくりします。聞いただけでも心の安らぎが生まれてきます。 

まだまだ弱みがある人には、私はすごく乱暴な言葉ばかり言うように聞こえるかもしれませんが、もし心の自由を感じてきた人なら、私に対して、「もっとはっきり言いなさい」と文句を言いたくなるかもしれません。これでも遠慮して話しているのです。 

人の愚かさをおだてない 

世の中の下らないこと、まったく理性的でないことについて、もし本当に正直な気持ちで批判したら、そうとう怖いことになると思います。
あまり言わないのは、世の中のことを言うならば、自分の仲間のことも棚に上げることはできないからです。隠すわけにはいきませんからね。悪いことをする人がいたら、たとえ相手がお坊さんでも、正直に指摘しなくてはいけないのです。私たちお坊さんの役目は、道徳を教えることです。お坊さんは信頼を得なくてはいけません。お坊さんが、同じお坊さんへの信頼感を損なうようなことをしゃべると、社会的に混乱しかねません。それはまずいので、「では黙っていようか」ということにしています。 

それでも、気に入らないことはいっぱいあります。昨日もスリランカの人々の家で、あるお祭りがありました。私は途中から行きましたが、行ったら他のお坊さんが説法をしていたのに、すぐその説法をやめて、「残りをしゃべってくれ」と頼まれたのです。説法を途中で替わるのは本当はマナー違反ですが、まぁ、しかたなくしゃべりました。 

それは徹夜して祝福の読経をするという法事だったのです。徹夜ですから、聞いている人達も皆、かなり苦しい思いをしなくてはいけない。私は「祝福というのはあまり仏教的ではないのですよ。しかし、お釈迦様は何でもあなたの心次第だとおっしゃっている」としゃべりました。
「人間がよく嘆くことがあります。希望が叶わないわ、計画が崩れるわ、突然病気になったり苦しいときに限って病気になるわ、一番元気でバリバリ仕事をして家にいくらか収入を持ってくるお父さんが、どこかで事故を起こしたりして消えてしまうわ……。なぜそういうことが起こるのかといえば、やっぱり自分の心次第なのだ」と。
「何があってもそれは心次第なのです。ですから清らかな心で生活すれば、それ以上の幸福はないのです」と言いました。 

つまり、「お経をあげたからといって、『ああ、万事解決』ということはちょっと成り立ちませんよ」と言ったのです。だからといってその場面で「ですから読経は止めましょう」とは言えません。お経をあげる前の挨拶ですから、私も本当に困りました。 

そこで私は「それでも読経したほうがいいのだ」と続けました。「なぜなら、お経は聞いただけでも心は安らかになるものです。それで幸福になります。ご存知ですか? お経の中身は読んだだけで、ものすごく心が清らかになるのです。ですから、ただお経を聞くだけではなくて、翻訳でもあれば読んでみて、お坊さんたちが唱えたときに、『これはどんな意味だろう』と意味を確認してみたら、たちまちあなた方は幸福になりますよ」と言ったのです。 

そして、「そんなことを言っても、皆さまにはパーリ語がわからないでしょう? まあ大丈夫です。読経をしているお坊さん達もわかっていませんからね」と私は続けました。大事なのはここです。さっさと言って、次は別な言葉でごまかしました。じっくり話して抗議でも来たらお坊さん達が大変ですから。
そのように、本当のことを言うと、ちょっと厳しくなるのです。穏やかではなくなってしまうのです。 

しかし我々は自分が「穏やかにいる」ために何をしているのかと言えば、ただ、人の愚かさをおだてているだけではないでしょうか? 
お釈迦様は、自分のことを医者にたとえてもいらっしゃいます。医者は人のことを心配する職業ですが、切るときは切ります。お腹でも何でも切って、腎臓でも捨てたくなったら捨ててしまうでしょう。ふつうの人が、人のお腹を切って腎臓を捨てたら犯罪ですね。切除したら元には戻りませんから、それから生きるのが大変になります。しかし、治療のためには切らなくてはいけないのです。 

日本の女性は、60歳でもそうは見えない人もいます。しかし外見の美しさとは関係なく、40歳以上の人には乳がんの危険性がかなりあります。考えてみてください。乳がんが見つかったとき、お医者さんが「こんな美人の身体を切るのはよくないから帰ってください」などと言うものでしょうか。言うはずはありませんね。必要ならば、全摘出します。いくら美人であっても知ったことではないのです。 

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「死」は幸福のキーワード
~「死隨念」のススメ~  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2010年11月21日