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「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

序章

これから『宝経』のお話をいたします。『宝経』は、パーリ語で『Ratanasuttaṃ(ラタナスッタン)』といって、いくつかの日本語訳もあります。『宝経』は他の経典とちょっと違う意味合いを持っています。まず、どのようにしてこの経典が説かれたのかという、ちょっとした物語からご紹介しましょう。 

経典の因縁物語

お釈迦さまの時代、中インドにVesālī(ヴェーサーリー)という国がありました。その国が大変不幸な事態に陥ってしまったのです。ずーっと雨が降らない旱魃(かんばつ)状態で作物が実らない。飢饉(ききん)で人々が餓死したり、いろいろな伝染病に倒れたりして、みるみるうちに死人が増え、どこを見ても屍体(したい)で一杯になりました。そのうえ、様々な悪霊たちの支配に悩まされる。そのように災難が三種類(旱魃と伝染病と悪霊)襲いかかってきて、どうしようもなくなったそうです。

幸不幸は連続する

ここで、説明したいポイントがあります。
人間が災害に遭うときは次から次へと遭うでしょう。不幸になる場合もやはり、リストになって続いて来るのです。ちょっと不幸になったら次に幸せになればいいと思いますが、そうはなりません。一つ不幸になると次も不幸、その次もだめ、ということになるのです。
良くなる時も同じで、次から次へと良いことばかり続きます。不幸よりも良いことが続く経験は多くあると思います。しかしそれに気づかないのです。突然、不幸なことが起きたら、皆ショックを受けて落ち込むでしょう。それはいままで何事もなかったからです。落ち込むのは、「人生は良いことの連続だ」という錯覚に陥るまで幸福が続いた結果です。

不幸が連続することにも、幸福が連続することにも、それなりの理由があります。たとえば、ちょっとした不幸に遭うと、人というものはすぐ落ち込んでしまいます。ものすごく暗くなるのです。この落ち込んだ気持で、暗くなったこころ(怒りの感情)で、不幸を乗り越えようと挑戦するが、期待する結果にはならず失敗するのです。怒りの感情で挑戦したので、結果が期待外れなものになるのは当然です。さらに落ち込んで、次に挑戦するから、また失敗する。またこれ以上、身動きできないと思うところまで悪循環が続いてしまいます。不幸を避けようという意欲も失せて、もう諦めることにしたところで、それから徐々に好転し始めたりするのです。

成功したり幸福になったりする場合も、似た法則が働きます。一つのことがうまく行ったら、こころが喜びを感じます。自信が付きます。その明るいこころで次のことに挑戦すると、それがまた成功します。このように、あるところまで幸福の連続になります。次に人が、「私は幸福なのだ、私がやることは何でも成功するのだ」と調子にのってしまうのです。それは自我であり傲慢でもあります。舞い上がっているから、判断能力が鈍くなる。それで次の挑戦は失敗します。期待外れの結果なので、ショックを受けて落ち込みます。それから不幸の連続になります。人生はこのような波で成り立っているものです。ですから、理性のある人は、不幸に出遭っても落ち込まないこと、暗くならないことに気をつけるのです。幸福に出会っても、舞い上がらないようにと気をつけます。こころを冷静に保つことで、不幸に災難に遭遇するのを制御できるのです。

悪霊はほんとうにいるの?

霊が存在するか否かは、よくわからないことです。人は自分の好みで、霊は存在するともいうし、いるわけがないともいうのです。明確な証拠があれば疑問は起こりません。霊の存在に興味をもつかもたないかは、それぞれ個人の好みの問題です。
昔の人々は、疑うことなく霊の存在を信じていました。宝経の因縁物語を書く注釈書の著者も、霊が存在するという立場を取らざるを得ないので、ヴェーサーリーの人々が旱魃と伝染病で死んでゆくと、「悪霊にも憑かれてしまった」と書いたのです。目に見える災難二つに、目に見えない災難一つも加えて、三難にしたのです。三宝の力を説明する経典なので、災難も三つあった方が語呂合わせによかったかもしれません。

生命は互いに依存する

霊のことはよく分からないにせよ、生命が互いに依存して生きていることだけは確かです。目には見えないけれど、生命は無数の微生物と互いに依存しあって生きています。我々の身体の中にも、大量の微生物がいます。それらの生命体がなければ、私たちの命も維持管理できなくなります。微生物も、他の身体に依存しないと生きられないのです。依存する微生物は二種類です。私たちの命を助けてくれる善玉の微生物と、私達の身体を壊す悪玉の微生物です。命を大事にする私たちは、善玉の微生物を増やそうとしたり、悪玉の微生物を破壊しようと試みたりしています。

微生物のレベルまで考えなくても、生き物が互いに依存しているのは当たり前の現象です。海の中で、凶暴なサメが住んでいます。「凶暴」とは、人間の勝手な評価ですが、サメはそう思ってないに違いありません。クジラの身体に、小さな魚がどこに行くにも家来のように付いています。コバンザメは、サメやカジキ、クジラやウミガメなどに張り付いて、その餌のおこぼれや寄生虫、排泄物などを食べて生活しています。また、魚たちの口の中に入って歯の掃除をしてくれる小魚やエビ類がいるし、皮膚の微生物をきれいにとってくれるドクターフィッシュもいます。寄生虫は悪玉の例です。陸上の動物の血を吸う、蚤などの昆虫もいます。

人間の場合も現象は同じです。我々の身体に寄生する虫もいれば、血を吸う蚤や蚊などもいます。協力体制で考えれば、鶏、牛、豚、山羊、ラクダ、犬、猫がいます。我々も悪玉の生き物をことごとく破壊しますが、善玉の生き物をだいじに守って育てるのです。生命には単独で生きていられない、ということだけは憶えておかなくてはいけません。

仏教の教える「霊的存在」

それでは、霊に関する仏教徒たちの一般的な考えを説明します。人間にはまったく興味のない、高次元の神々や梵天などの霊的な存在もいれば、人間に関わりを持つ霊もいるのです。その霊は、人間の生き方に迷惑をかける悪霊と、人間に協力的に働く善霊との二つに分かれます。われわれは鶏や豚を善玉の生き物としてとても大事に育てます。しかし、成長したら殺して食べますね。鶏や豚の立場から見れば、人間という生き物は善玉でしょうか? 悪玉でしょうか? 人間に依存する霊が、人間を食べてしまうのだという証拠はまったくありませんが、昔話の中には人間が食べられてしまったストーリーがけっこうあります。だから、「悪霊に食べられるかもしれない」と皆怖がったことでしょう。しかし、食べられたケースはいま現在皆無なので、昔も悪霊が人間を食ったことは無かったと思います。
存在しているかのように感じるが、見ることも触ることもできないので、霊と名付けているのでしょう。霊はこころに影響を与える存在です。人間の感情を当てにして、憑いてくる存在なのです。怒り・嫉妬・憎しみなどの感情が強い人に霊が憑いたなら、その感情を目当てにしているのでしょう。私たちが食料になる鶏を無菌室で大切に育てるように、霊も自分の栄養になる怒り・嫉妬・憎しみなどの感情を大切に育てるのでしょう。悪霊にとって、人間のこころが畑です。怒り・嫉妬・憎しみが限りなく膨張するのは、人間にとって良いことではありません。ですから、怒りなどの感情を目当てにする霊は悪玉の霊にするしかなくなります。

慈しみ、思いやり、他人のことを心配する気持ちが強い人々に、霊が憑いたとしましょう。その場合は、人の善感情を目当てにして憑いたことになります。霊は自分の栄養になる感情を育てるよう協力するので、その人は日々、幸福になってしまうのです。悩んだり落ちこんだりするチャンスが無くなるのです。幸福になること、慈しみにあふれた人間になることは人間にとって善なので、善玉の霊が憑いたと考えた方が良いでしょう。

しかし、人間には自由があります。怒りに狂うことも、慈しみに溢れることもできるのです。自分の感情は管理できるものなので、霊の存在を信じるならば、自分に悪玉の霊が憑くか、善玉の霊が憑くかは、自分のアプローチ次第だと理解したほうがよいのです。他人に頼んで除霊してもらうなど、あり得ないと思います。一時的に霊が手を引くことがあっても、また憑くでしょう。人間と同じく、霊もそう簡単に自分の収入資源を手放すとは思えません。幸福になりたいと思う人々は、自分の努力で、悪感情を善感情に置き換えることです。

霊などまったく気にしないこと

昔から人々は霊の存在を信じていたので、あえてこのような説明をしましたが、霊のことはまったく気にせず生活しても構わないのです。現在は霊の存在を信じない人々のほうがはるかに多いでしょう。しかし、何の不自由もありませんね。彼らは霊の存在を信じる人よりも、よっぽど明るく生きているようです。
霊のことは措いて、感情についてさらに勉強したほうがよいのです。感情、特に悪感情は、伝染病のように拡大してひろがります。どこかの国で戦争が起きると、周りの国々も戦争気分になります。北朝鮮が核兵器などを開発すると、平和であることを憲法条項に明記している日本人の一部も戦争体制を訴え始める。日本も先制攻撃体制を構築せよ、と叫ぶのです。合衆国がアフガニスタンやパキスタンに戦争を仕掛けたとき、世界中の国々も簡単に巻き込まれてしまいました。世界の経済状況が悪化して、日本のいくつかの会社が困難な経営状況に陥ると、日本国民も一斉に落ち込んでしまいます。個人的に見れば何の影響もないはずなのに、大いに心配してしまうのです。このように悪感情というものは、何の理由もなく簡単に拡がってしまって人間を不幸に陥れます。他人の悪感情に染まらないように、乗らないようにと厳しく注意していないと、不幸の原因を作った人々と道連れになってしまいます。

ヴェーサーリーに赴いた釈尊

さて、話を戻しましょう。三つの災難が同時に来たヴェーサーリーでは人々がどんどん不幸になっていく。苦しみがどんどん増えていく。そこでいろいろなしきたりや宗教的な儀式や除霊をほどこしたが、いくらやってもうまくいかない。もともとこの国の人たちは、お釈迦さまの教えに対してそれほど関心が深いというわけでもなかったのですが、誰かが「ブッダに来て頂いてはどうでしょう」と言いだし、皆もその気になりました。

その時、お釈迦さまはヴェーサーリーからガンジス河を南に渡ったマガダ国の都、王舎城におられました。王舎城では、ビンビサーラ王がお釈迦さまに篤く帰依していました。ヴェーサーリーの人々が相談して使者を送り、礼儀ある手続きを踏んでお願いすると、お釈迦さまは「いいですよ、行きましょう」と仰ったのです。マガダ国王は、飢餓や伝染病で屍体が積み重なっているような所にお釈迦さまが赴かれるのが心配でたまらず、都からガンジス河の渡し場までの道をすっかり整備し、たくさんの阿羅漢のお弟子とともに出発なさるお釈迦さまを自分も河岸までお伴してお見送りしました。ヴェーサーリーの国でも、都までの道を美しく整備して、国王が河岸までお迎えしました。お釈迦さまの行かれるところにはいろいろな神がたくさんお伴するので、悪霊とかは全部いられなくなって逃げ散り、お釈迦さまが向こう岸に一歩足をしるされた瞬間、大雨が降ったといいます。雨が降れば問題は解決するので、町もきれいになってしまいました。でもせっかくお釈迦さまに来て頂いたのだから、祝福して頂きたいということになったのです。

仏法僧とは何かを教える経典

お釈迦さまは人を祝福していい気分にさせるためではなく、聴く人の無明の闇を破って智慧の光が顕れるようにと説法されるのです。真理を知った人は、当然ながら一切の不幸を乗り越えて究極の幸福に達します。神々であろうが、霊であろうが、人間であろうが、ブッダの真理の教えに身を寄せれば、確実に不幸を乗り越えて、幸福に達するのです。お釈迦さまはヴェーサーリーで、「仏法僧の三宝とはどのようなものか」と説かれました。ブッダは何をする人か、教えはどのようなものか、教えを実践する弟子たちはどのような人間になるのかと、説明なさいました。三宝についての説法だから、この教えは『宝経』と名付けています。昔から現在まで、この経典は祝福経典として篤く信仰されてきました。しかし「仏法僧の魔力で幸福になる」とは語られていないのです。「教えが真理だからこそ、誰でも幸福になるのだ」というスタンスです。この経典は逆に、「幸福になりたければこの教えの中身を理解しなさい」というような教えです。そこで、「この教え(言葉)が真理だからこそ、(皆が)幸福でありますように」というフレーズでそれぞれの偈を終了してあります。

祝福経典は『宝経』だけではありません。「ブッダの教え」たる経典は、どれも祝福経典です。ブッダの教えこそが唯一の福音なのです。人々の迷信にあわせて、現在、いくつかの経典だけ祝福経典にされていますが、経典はすべて祝福経典だと思ったほうがよいのです。祝福にならない経典は存在しません。何であろうともブッダの言葉は、一行二行だけでも読んで理解するだけで、こころが清らかになります。喜びを感じます。こころの悩み苦しみが消えます。ですから、経典はすべて祝福経典だと思って勉強したほうがよいのです。

アーナンダ尊者は『宝経』を唱えながら、ヴェーサーリー町を一廻して祝福したと注釈書にあります。では、実際にその『宝経』をパーリ語原典も見ながらご一緒に読んでみましょう。

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「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月