ジャータカ物語

No.20(『ヴィパッサナー通信』2001年8号)

不吉な友人の話

Kālakaṇṇi jātaka(No.83) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、アナータピンディカ(給孤独)長者の、ある友人について語られたものです。彼はアナータピンディカ長者と幼馴染みで、同じ師のもとで学芸を修得しましたが、その名を「カーラカンニ(不吉)」といいました。

のちに彼の暮らしむきは困窮して生計が成り立たなくなり、友情を頼って長者のもとにやって来ました。長者は彼を慰め、給料を支払って自分の資産を管理させました。彼は長者の補佐役となって、あらゆる仕事を切り盛りするようになりました。

彼が長者のもとにやって来てからは、人々は彼を「不吉 君」と呼ぶはめになりました。「不吉、いらっしゃい」「不吉、座りなさい」「不吉、入りなさい」というふうに、声をかけていました。長者の資産管理責任者になりましたから、一日中「不吉、不吉」という声が聞かれるようになりました。

ある日、長者の友人たちが長者のもとにやって来ました。家中「不吉、不吉」という言葉が響くのを聞いて、長者にこのように言いました。「大長者よ、彼をあなたの近くにおくのはおよしなさい。一日中『不吉、不吉』という声を聞いたら、あなたは幸福になるどころか、人に不幸を招く鬼さえも怯えて逃げるでしょう。あなたと同格の人間でもないのに、なぜ同格に扱っているのでしょうか。しかも、名前まで『不吉』です。」アナータピンディカは、「名前は単なる呼び声です。賢者は名前でその人の価値を判断したりはしないものです。音で、吉凶を判断する迷信はよくありません。私は、呼び名のせいで竹馬の友を見捨てることなど出来ません」と言って、彼らの忠告を聞き入れませんでした。

ある日、長者は自分の所有している村に行くことになりました。そのとき、「不吉」に家の留守番をまかせて出掛けました。

盗賊たちは、「長者は村に出掛けたようだ。彼の家に盗みに入ろう」と、いろいろな武器を携え、夜の闇に乗じてやって来て、家を取り囲みました。カーラカンニは、盗賊たちがやって来るのではないかと心配して、眠らずに坐っていました。彼は、盗賊たちがやって来たことを知って、人々を目覚めさせるために、「おまえは法螺貝を吹け。おまえは太鼓を打ち鳴らせ」と、まるで大勢の人々を召集するかのように、一人で大声をあげて家中を歩き回りました。盗賊たちは、「家に誰もいないというのは、我々の聞き違いで、ここには大長者がいるのだ」と、石や棍棒を捨てて逃げ去りました。

あくる日、人々はあちらこちらに捨てられている石や棍棒を見て震え上がり、「もしも今日、このように賢明な家の番人がいなかったなら、盗賊たちが思いのままに入って来て家中のものを盗んでしまっただろう。この賢い友人のおかげで、長者の家は無事だったのだ」と、彼を褒め称え、長者が村から帰って来たときに、すべての出来事を残らず話しました。そこで長者は彼らに言いました。「おまえたちは、このように私の家を守ってくれる友を、前には追い出そうとしたが、もしもそのとき、おまえたちの言葉に従って、私が彼を追い出していたなら、今日、私の家の財産は何も無くなっていたであろう。名前が判断の基準ではなく、有能な心が基準なのである」と。

そして、彼に今まで以上の給料を与えてから、「このような良い話は、説法の種になるだろう」と思って、お釈迦さまのもとに出掛けて行き、この出来事の一部始終を告げました。

お釈迦さまは、「長者よ、“不吉”という名前の友人が、自分の友の家の財産を守ってあげたのは、今だけのことではない。以前にもそうであった」と言って、長者に請われるままに過去のことを話されました。

その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、偉大な名声のある長者でした。そして、彼のカーラカンニという名の友人が、前に述べたのとまったく同じような行為をしました。菩薩である長者は、自分の所有している村から帰って来て、その出来事を聞き、「もしも私が、おまえたちの言葉に従って、このような友を追い出していたなら、私の財産は何一つ無くなっていただろう」と言って、次のような詩句を唱えました。

共に七歩歩けば知り合いになる
十二歩歩けば同僚である
一月、半月一緒に過ごせば、
親族にも等しく
それ以上一緒に過ごせば、
自分自身と同等になる
それなのに、長年共に過ごしたこの「不吉」を、
己のために捨てられるものでしょうか

お釈迦さまは、この説法を取り上げ、連結をとって過去を現在にあてはめられました。「そのときのカーラカンニはアーナンダであり、バーラーナシーの長者は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

【教訓】
インド文化には、さまざまな迷信が織り込まれています。何をするにしても、吉凶の有無を考えるのです。計算上成り立っている星占いだけではなく、人相、手相、方角、時間の占いもあります。飼っている馬、牛、象、鶏の特色からも吉凶を占います。家で使う道具も、占いの対象になります。服が鼠にかじられたら、その歯型でも吉凶を判断します。その中で、音の占いは大きな割合を占めます。呪文の信仰は、それの一つです。子供に名前をつける場合は、音の占いで吉凶を判断して吉になる名前だけを選びます。
このような非論理的な、非科学的な迷信に依存するなかれというのは、ブッダの教えです。人は、自分の心、自分の能力、自分の精神に頼って成功を目指すべきです。ですから、ブッダが幸福の道として心を育てるように言われたのですね。このエピソードも、大事なのは人の名前ではなく、能力だと言っています。

◎朋友……友人を大事にすること、信頼することに、仏教では重きを置いています。互いに助け合う人々がいればいるほど幸福に楽しく生きていられます。