ジャータカ物語

No.68(2005年8月号)

虎の威を借るビーマセーナ

Bhīmasena jātaka(No.80) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
ある比丘が、「友よ、私ほど高貴の出の者はいないのだ。私は偉大な王族の立派な家柄で、実家は大金持ちなのです。私の家では下僕でさえ白米と肉を食べ、カーシ産の服を着て、カーシ産の香油を使っていた。私は出家したのでこのように粗末なものを食べ、粗末な衣を着なければならなくなってしまったが」と、ことあるごとに皆に自慢して歩いていました。

一人の比丘が、彼の自慢話は虚偽であったことを知り、そのことを皆に伝えました。比丘たちが「あの比丘は、解脱のための道に入ろうと出家しながら、ほらを吹き、威張っている」と彼のみっともなさについて話していると、釈尊が来られ、「比丘らよ、何を話しているのか」とおたずねになりました。比丘たちがお答えすると、「あの男が大口をたたくのは今だけではない。彼は過去でも大言壮語して威張っていた」と言われ、皆から請われるままに、過去の物語を話されました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある町のバラモンの名家に生まれました。菩薩はとても優秀でしたが、生まれつき少々背が低く、背中が曲がっていました。成人した菩薩はタッカシラーの有名な先生の元で、三つのヴェーダと、一八の学問と、弓矢などの技芸を完全に修得し、チュッラダヌッガハパンティタ(小射手博士)と呼ばれるほどの俊才になりました。
学業を終えた菩薩は師の元を離れ、自分の仕事を探すための旅に出ました。菩薩は「私が王様に仕えようとしても、『こんな小男に何ができるのか』と言われて雇ってもらえないことだろう。私は、一人で仕事を捜すより、見た目の良い男を捜し、その男と組んで仕事を捜した方がいいだろう」と考えました。

ある時、菩薩は、立派な体格の織物職人に出会いました。彼はビーマセーナという名前でした。菩薩は、「あなたはこれほど立派な体をしているのに、なぜこんな仕事をしているのですか」とたずねました。ビーマセーナは「食べていくことができないからです」と答えました。菩薩は「世界に私ほどの弓の名手はいません。しかし、私が王様に面会しても『こんな小男に何ができるのか』と言われ、雇ってはもらえないでしょう。あなたは体格が良い。あなたが王様に面会して『私は弓の名手です』と言えば、雇われるに違いありません。あなたが王から命じられた仕事は、私がやりましょう。二人で組めば、どちらも良い仕事が得られます。そのようにしたらどうですか」とピーマセーナを誘いました。ビーマセーナは「言われるとおりにしましょう」と同意しました。

菩薩はビーマセーナを連れて、バーラーナシーの王のもとを訪ねました。ビーマセーナは、王に挨拶をして、「私は弓の名手です。世界に私ほどの弓の名手はいません」と言いました。「いくらで私に仕えると言うのか」「半月で千金です」「そちらの男は誰だ」「私の助手です」「よろしい。仕えなさい」。ビーマセーナは王に雇われました。ビーマセーナに仕事が来ると、菩薩がその仕事をこなしました。

ある時、カーシの森に人食い虎が出て、多くの人が襲われるという事件が起こりました。王はビーマセーナを呼び、「そなたは虎を捕らえることができるか」と訊きました。彼は、「虎一匹捉えられないで、弓の名手と言えるでしょうか」と答えました。 王はビーマセーナに特別手当を与え、虎退治を命じました。

ビーマセーナは家に帰り、菩薩に仕事を頼みました。菩薩は、「よろしい。森に行きなさい」と言いました。ビーマセーナは、「あなたが行かれるのではないのですか?」と訊きました。「私は行かなくても、ある方法があります」「教えてください」「あなたは一人で森に入るのではなく、その地方の人々を集め、千か二千の弓矢を持たせ、いっしょに虎のところへ行くのです。虎が起きあがったら、あなたは素早く茂みの中に隠れて伏せるのです。そうすれば、そこにいる人々が、虎を射殺すことでしょう。虎が殺されたら、あなたは歯で蔓をかみ切って、その端を持って虎の横に立ち、『なぜ虎を殺してしまったのだ。私はこの虎を生け捕りにして王の元に連れて行こうと思って、牛のように虎をしばろうと、蔓草を探していた。その間に虎は殺された。誰が虎を殺したのか』 と言うのです。人々は怖れて貢ぎ物を差し出すでしょう。王様からもご褒美がもらえるでしょう」と教えました。ビーマセーナは一人で森へ出かけました。

ビーマセーナは計画通りに振る舞って成功し、森の危険は去りました。ビーマセーナは人々からの貢ぎ物を受け取り、その上に、「王様、虎は私が退治しました。森は元通りになりました」と報告したので、喜んだ王からも褒美をもらいました。

別の日、野牛が暴れて道をふさいでしまう事件が起こりました。王は、ビーマセーナに野牛の退治を命じました。ビーマセーナは虎退治の時と同じ方法を使って、再び成功しました。王はますます喜んで、より多くの褒美を与えました。ビーマセーナは王に気に入られ、次第に権力者になりました。

権力を得たビーマセーナは尊大になり、菩薩を見下すようになりました。菩薩の言うことを聞かなくなって、「私はあなたのお陰で生活しているわけではない。あなたは私の使用人にすぎないのだ」という乱暴なことまで言うようになったのです。

それからしばらく経って、敵国の王が攻めてきました。敵国の王はバーラーナシーを取り囲み、「おとなしく国を明け渡せ。さもなくば、我と戦え」という信書を送りつけてきました。王は、ビーマセーナに、戦場に行って戦うことを命じました。ビーマセーナは立派なよろいかぶとをつけ、武装した大きな象にまたがって先頭に立ちました。ピーマセーナのことを案じた菩薩も十分に武装して、ビーマセーナの後ろにまたがりました。

ピーマセーナは大勢の軍隊を引き連れて、戦場に向かいました。しかし陣太鼓の音が聞こえてくると、彼はひどく怯えて、ガタガタと震え出しました。菩薩は、「このままでは、ビーマセーナは象から落ちて死んでしまうだろう」と、象の背中に彼をしばりつけました。戦場に着いたビーマセーナは、その様子を見て、恐怖のあまりに失禁し、象の背中を汚物で汚しました。菩薩は「ビーマセーナよ、君は、以前は戦場の勇士のようだった。しかし今はあまりにも怯えて象の背中を汚している」と、次の詩を唱えました。

前面には大言壮語し
背後で汚物を失禁す
ビーマセーナよ
勇ましい話と惨めな姿
両者は調和せぬ

菩薩は「怖れることはない。なぜ私がいるのに怯えるのか」とビーマセーナを象からおろし、汚れた身体を川で洗って家に戻るようにと、彼を先に帰しました。菩薩は、「今こそ私は自分の名前を表に出すべき時だ」と、大声で鬨の声を上げて勇敢に戦い、敵王を捕らえて王の元に戻りました。王は歓喜して、菩薩に大きな名誉を授けました。

それ以降、小射手博士という名前は国の内外に響き渡るようになりました。菩薩はビーマセーナが生活に困らないようにお金を与え、元のところに帰しました。菩薩はそれからも布施行などの善行為をし、その行為に応じて次の世に生まれ変わっていきました。

お釈迦さまは、「ビーマセーナは自己を誇示して語る比丘であり、小射手博士は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

ポイント 1
この世で安定した生き方を営むためには、最低ひとつでもいいから、何かの才能か能力が必要です。社会に貢献できるものが、自分自身にひとつでもなければいけないのです。生まれつき何かの才能を持っている人もいますが、「自分にどんな才能があるのか」と疑問を抱いて悩む人もいます。

悩む必要はありません。人間には、一つ二つくらいは自分にできることが必ずあるのです。悩む人というのは、それにまだ気づいていないか、他人の才能ばかり気にしてうらやんで妄想しているかです。人間の心はシリコンゴムのようなもので、どんな形にもなるのです。強引に伸ばしてもなかなか切れるものではありません。才能がないと思う人は、何かの能力を身につければ問題は解決する。しかし…。

才能があっても上手くいかないケースも沢山あります。作家としての能力はあるが、本は売れない。音楽の能力はあるが、自分の歌や作品はヒットしない。職人としての能力は世界一と言っても過言ではないが、注文は来ない。美大を出ても、画家として生計を立てられない。このような問題は、世間では普通です。

この物語の小射手博士も、同じ問題に遭遇したのです。小射手博士は菩薩なので、彼がとった態度は、自分の才能が売れないときにはどうすればよいのかという答えなのです。軍隊を率いる才能も能力もあったのですが、一つ短所があったのです。少々背が低く、少々背中が曲がっていたのです。将軍になれるどころか、一兵卒になるにも失格です。しかし自分には軍職しかできない。では、どうしましょう? 彼が見事にその問題を乗り越えたのです。

現代の我々には同じ真似はできないのは確かです。この物語で言っているのは、自分の短所をカバーして長所を活かす方法を見つけなさいということです。例えば、自分の曲がヒットしないなら、人気絶頂の人とデュエット一つでもして、レコードを出してみることです。今も、それほど歌唱能力がない人々が、必死でビジュアルに挑戦しているでしょう。天童よしみさんの歌唱力は天才的ですが、国民的な歌手になるまで時間がかかりました。しかし、彼女はビジュアルの問題を見事に乗り越えたのです。物語の小射手博士とだぶってしまったのです。

また、自分の才能を世間にアピールする好機を逃してはならないのです。社会が必要ともしないのに、勝手にアピールすると逆効果になるのです。要求が出た瞬間に自分の能力を活かして見せれば、認めてもらえるのです。我々は「自分の才能を活かせない、能力に適した仕事がない」などの愚痴を言うのではなく、好機を見逃さないようにした方が良いのです。魚がいない川に、釣りのプロが釣り竿を掛けて「私はプロなのに魚が掛かって来ない」と愚痴を言わず、魚がいるところに行ってルアーを降ろした方が良いのです。素人より成功します。(これはたとえ話で、釣りは殺生です。誤解しないように。)能力と才能とともに、それを活かせる方法も知っておかなくてはならないのです。

ポイント 2
ほら吹きは気持ち悪いダメな行為だと、この物語は教えてくれるのです。仏教でなくても、一般の社会でも、ほら吹きには立場がないのです。嘲笑の的にはなりますが、本人には何の得もないのです。雇ってはもらえないのです。

当然、口が達者な人もいるのです。見事に大言壮語をして、信頼を買ってしまう場合も、良い仕事に就く場合もあるのです。ほら吹きは、それで調子に乗るのです。大言壮語は徐々にエスカレートするのです。やがて、子供にさえもばれてしまうことになるのです。それで、あっと言う間に地に落ちるのです。

大言壮語は、才能、能力がないにもかかわらず自己主張する人々がやるものです。遅かれ早かれ、地に落ちることは決まっているのです。その人には人格的に問題があるのです。その性格が直らない限り、人格向上も期待できないのです。