ジャータカ物語

No.75(2006年3月号)

ローサカ・ティッサ長老物語①

Losaka jātaka(No.41) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これはシャカムニブッダがコーサラ国の都であるサーワッティ(舎衛城)郊外の祇園精舎におられた時のお話です。

コーサラ国に、一千戸の漁師の家族が集まる漁村がありました。ある時、一人の漁師の妻のお胎に胎児が宿りました。その時から、その村では災難ばかりが起こるようになりました。漁師たちには一匹も魚が捕れず、村はどんどん貧しくなる一方です。しかも、七回も火災が起こり、七回も王様から処罰を受けました。あまりの災難つづきに、村人たちは、「村のどこかに不幸を呼ぶ者が来たに違いない。ためしに村を二つに分けてみよう」と話し合い、村を五百戸ずつに分けました。すると、その子を身ごもった夫婦のいる村は落ちぶれ、その夫婦のいない村は栄えました。落ちぶれた方の村をまた二つに分けたところ、また、その子を身ごもった夫婦のいる村は落ちぶれ、その夫婦のいない村は栄えました。それを繰り返していくうちに、とうとう、その子を身ごもった夫婦の家だけが残りました。村人たちは、その夫婦を打ち据えて、追い出しました。

村を追い出された母親は、やっとのことで生活して息子を出産しました。その赤ん坊は、今生を最後の生まれとして生まれたので、悟りを開くまで死ぬことはありません。阿羅漢(最上の悟りを開いた聖者)になる資質が、ビンに入ったランプの灯のように、心に灯っていたのです。

しかし母親は、子どもがある程度大きくなるまで面倒をみたかと思うと、やっと元気に走り回れるぐらいになった子どもに「これからは乞食をしてくらしなさい」と鉢を持たせ、自分はどこかに行ってしまいました。子どもはひとりぼっちになり、適当なところで寝、体も洗わず、餓鬼のようななりで、何とか生きていました。そのうちに彼は、さまよいながら、サーワッティへとやって来ました。

ある日、七歳になった子どもが屋外の洗い場に落ちている米粒をカラスのように拾い食いしていると、ちょうどサーワッティで托鉢しておられたサーリプッタ尊者が通りかかりました。サーリプッタ尊者の心に「あの可哀想な子どもはどこの子だろう」という憐れみの心が起こりました。長老は「こちらにおいで」と子どもを呼びました。子どもは長老の側に来て、礼をしました。長老は「君はどこの村の子か。親はどこにいるのか」とたずねました。「僕はひとりです。両親は僕を捨ててどこかに行ってしまいました」「君は出家するつもりはないか」「お坊さま、僕は出家したいです。だけど僕のようにみずぼらしい者を、誰が出家させてくれるでしょう」「私が出家させてあげよう」「本当ですか。お願いします」。

サーリプッタ尊者はその子に食事を与え、精舎に連れて帰り、ご自分の手できれいに洗ってあげて、沙弥として出家させました。そして、彼が十分な年齢になるまで面倒を見てから、具足戒(正式に比丘になるための戒律)を授けました。

比丘になった彼は熱心に修行し、ある年月が経つと、人々からローサカ・ティッサ長老と呼ばれるようになりました。しかしローサカ・ティッサ長老の生活はなぜか恵まれず、いつもわずかなもので満足する状態でした。盛大なお布施の時でさえ、ローサカ・ティッサ長老が得る食事は、命を保つだけのささやかなものでした。ローサカ長老の鉢は、ヒシャクに軽く一杯だけ粥を入れただけで、溢れるように見えるのです。そこで人々は、次の比丘の鉢に粥を入れてしまうのでした。人々の中には、「ローサカ長老の鉢に粥を入れようとすると、なぜかこちらの用意していた粥がなくなってしまう」と言う人もいました。粥だけでなく、すべての食べ物がそのようなありさまでした。

けれどもローサカ・ティッサ長老は熱心に修行を続け、ついに智慧が生じて阿羅漢果(最上の悟りの境地)を得ました。それでも、ローサカ長老はお布施に恵まれず、わずかな食べ物で満足するしかない生活は相変わらずでした。

そのうちにローサカ・ティッサ長老の寿命が尽き、涅槃に入られる日が来ました。サーリプッタ尊者はそのことを知り、「友、ローサカ・ティッサは、今日、涅槃に入るだろう。私は今日こそ、彼が食べたいだけ食べられるようにしよう」と思い、長老と共にサーワッティの街に托鉢に出ました。しかし人々は、ローサカ・ティッサ長老がいると、お布施どころか礼もしないのです。サーリプッタ尊者は、「友よ、先にあるお堂で坐っていてください」と長老を先に行かせ、自分が托鉢して、「これをローサカ・ティッサ長老にあげてください」とそこにいた人に言って、十分な食事を持って行かせました。ところがそれを運んだ者は、ローサカ長老のことを忘れて自分が食べてしまったのです。サーリプッタ尊者がお堂の方に行くと、ローサカ長老が立って、礼をしました。サーリプッタ尊者が立ち止まって振り返り、「友よ、食事を食べましたか」と訊くと、ローサカ長老は「尊師、後で食べるでしょう」と答えました。比丘の食事の時間は過ぎようとしていました。

サーリプッタ尊者は「友よ、ここで坐っていてください」と言って、コーサラ王の宮殿に行きました。国王は、「お食事の時間は過ぎている。長老に四甘食(バターや蜜で作ったデザート)を差し上げなさい」と命じ、サーリプッタ尊者の鉢一杯に上等の四甘食を入れさせました。サーリプッタ尊者はローサカ長老のところへ戻り、「友、ティッサよ、これを食べなさい」と言いました。しかし、サーリプッタ尊者を深く尊敬するローサカ・ティッサ長老は、遠慮して食べません。サーリプッタ尊者は、「友、ティッサよ。私はこの鉢をここで持って立っていよう。あなたは坐って、この鉢から食べなさい。私が鉢から手を放すと、中の食べ物はなくなってしまうだろうから」と立っていました。ローサカ・ティッサ長老は、最も年上の法兄であるサーリプッタ尊者が鉢を持っておられる間に、おいしい四甘食を食べました。それは、サーリプッタ尊者の神通力で、いくら食べても減りませんでした。ローサカ・ティッサ長老は、十分満足するまで食べることができました。そしてその日のうちに寿命が尽きて、涅槃に入られたのです。釈尊は阿羅漢であるローサカ・ティッサ長老を手厚く葬らせ、骨を塔に奉りました。

比丘たちが法話堂に集まって、「ローサカ・ティッサ長老は、あのように恵まれず、わずかなお布施しか得られない方でありながら、なぜ聖なる法を得て悟られたのだろう」と話をしていました。釈尊が来られて何を話しているのかと比丘たちにたずねられ、比丘たちがお答えすると、釈尊は「比丘らよ、ローサカ・ティッサが恵まれなかったことも、聖なる法を得たことも、自分でした行いの結果なのだ。彼は前世で、他の者が布施を得るジャマをしたので、わずかなものしか得られない者となった。また、世は無常であり、苦である、という智慧を得るに相応しい励みによって、聖なる法を得る者となった」と言われ、比丘たちに請われるままに過去の話をされました。

昔々、カッサパブッダという正覚者の時代に、ある出家者が、村の金持ちの居士のお布施を受けて、居士の屋敷の近くにある寺に住んでいました。彼は比丘として為すべきことを為し、戒を守り、智慧を得るための修行を熱心に行じていました。

ある時、一人の阿羅漢(完全に悟りを開いた聖者)が、その村にやって来ました。居士はその長老の立ち居振る舞いに感心し、長老の鉢を取って家に招き、礼拝して、うやうやしくお布施の食事を差し上げました。お布施の後で長老から短い法話を聞いた居士は、長老に礼をして、「尊師、どうぞこの屋敷の近くにあるお寺にいらっしゃってください。私も夕方に訪問いたします」と言いました。旅の長老はお寺を訪ね、そのお寺に住んでいる長老に挨拶しました。寺の長老は旅の長老に挨拶を返し、「友よ、食事のお布施は受けましたか」とたずねました。「はい。受けました」「どちらで受けたのですか」「ここから近い金持ちの居士の家です」。阿羅漢である旅の長老は自分の宿坊をたずね、そちらに行って鉢を置いてから、静かに坐って禅定の安楽に入られました。

夕方になると、村の居士が、お香や花や灯火や油を持たせてお寺に来ました。居士はお寺の長老に礼拝し、「尊師、旅の長老がこちらに来られましたか」とたずねました。「はい、来られましたよ」「今、どちらにおられますか」「あちらの宿坊です」。居士は阿羅漢の長老を訪ねて法話を聞き、塔と菩提樹に供え物をして灯火に火を灯し、二人を翌日のお布施に招待してから家に帰りました。

寺の長老は、「あの居士は私から離れようとしている。旅の比丘がこの寺に住んだなら、いったい私に対してどういう待遇をするようになることだろう」と考えて不愉快になり、なんとか旅の長老がこの寺に住まないようにしようと考えました。寺の長老は、旅の長老に口をきかなくなりました。阿羅漢である旅の長老は、寺の長老の心を知って、「彼は私が邪魔者にならないということを知らない」と思い、自分の庵でひとり坐って、禅定の安楽に住していました。
(次号につづく)

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

釈尊がある日、沙弥出家していたSopāka(ソーパーカ)という子どもに質問なさいました。「一とは何ですか?」沙弥が答える。「すべて生命の命は『食』に支えられている」「答えは見事に正解です」と子どもを誉めた釈尊は、「では、二とは何ですか?」と訊きました。このエピソードの続きは別な機会にして、釈尊と沙弥(七歳だそうです)の、この遊びはどういう意味かと考えてみましょう。釈尊が、この子どもがどこまで真理を理解し、体得しているのかとテストしたのです。質問は一から始まって十まであり、真理を知り尽くしていないと答えられるものではありません。

では皆様も答えを出してみてください。「一とは何ですか?」俗世間の知識、数学では答えがないと思います。一は、客観的に存在するものではありません。頭の中でのみ成り立つ概念なのです。真理を語る仏教では、概念・観念などには居場所はありません。Sopāka沙弥の答えは、「生命とは何なのか」と発見された智慧から発生したものです。(実は、Sopāka沙弥は阿羅漢果に達していた聖者なのです。子どもなのに一切の生命を乗り越えた賢者であることを、釈尊が皆に知らせたかったのです。この問答は、Sopāka沙弥の合格発表のようなものです)

生きるということは、心が知ること、認識することを、絶えず続けることです。認識機能を司るために、カラダという物体を使用するのです。カラダが簡単に壊れるものなのです。それを維持管理、修復するためには、材料が必要です。食というのは、この材料のことです。食べるものだけでは生き続けることはできません。生き続けるとは、認識が絶えず続くことです。何かを認識するために、まず、その情報に心が触れなくてはならない。次に、触れたことを感じなくてはならない。次に、(触れた情報そのものというより)感じたものを認識する。(感じるものを認識するので、すべての生命の認識は、各々バラバラで、統一しないのです)一つの認識は、次の認識を作るのです。このような循環で、生命が生き続けるのです。

では、まとめてみましょう。

①食べ物:身体を維持管理する ②情報が触れること ③情報を感じること ④情報を認識すること

このように、食は四種類です。輪廻転生するすべての生命が、食によって生き続けるのです。瞑想して高いレベルの禅定に達する行者たちがいます。仏教では、禅定を八段階に分けています。五~八番目までの禅定を「無色界」といいます。この禅定に達した行者たちは、死後、無色界の梵天に生まれるのです。無色というのは、身体を持たないという意味です。純粋に心だけで生き続けるのです。梵天には素粒子一個くらいの身体も無いのです。ですから、①の食(食べ物)は、摂りませんし、摂れません。梵天は②から④までのメンタルの食に支えられているのです。Sopāka阿羅漢が、この真理を知り尽くして、「一とは、すべての生命の命は『食』に支えられている」と見事に答えたのです。

我々人間のことを観察しましょう。母体に生を受けた瞬間から死ぬまで、絶えず栄養を摂っています。「一日三食」というのは、俗っぽい言い方です。この場合の食は、栄養を摂っていることではありません。物質を入庫することだけです。栄養を摂るということは、絶えず起きているのです。身体を電気製品に喩えてみればわかります。電気製品が動くためには、絶えず電力が必要です。人間はご飯だけで生きていられない。眼・耳・鼻・舌から情報を取る。身体からも情報を取る。頭の中で考えたり、妄想したり、喜んだり、悩んだりする。これらがメンタルな栄養なのです。食べ物があっても、メンタルな栄養が悪くなったり、切れたりすると、たちまち病気になったり、死んだりするのです。

生きている者にとって「四種類の栄養」がどれほど大事かと、理解できると思います。幸福な人、恵まれた人というのは、質の良い四栄養が十分ある人です。「金持ちが幸福だ、健康は幸せだ、美人は得をするのだ」などの意見は、俗世間レベルの思考です。真理の世界では、四栄養に恵まれることが、輪廻転生する生命にとっての幸せです。

他の生命に四栄養を与えることは、その生命に命を与えることです。幸福を与えることです。行為は確実に結果をもたらすので、与えた人も幸福に恵まれるのです。舞踊、音楽、文学なども、メンタルな栄養ですが、それによって心が貪瞋痴に汚れるので、善行為として曖昧なのです。食べるものを布施することは、確実に善行為です。人から食べるものを奪うこと、食べるものが人の手に入らないようにすることは、重罪なのです。能力のある人が大富豪になる。だからといって、その富を他人と分かち合わないことも重罪なのです。なぜならば、競争社会というのは、一人が豊かになると、沢山の人々が貧乏になる仕組みなのです。皆が讃嘆している競争主義社会は、罪の生き方なのです。あまりやりたがらない共存主義は、善の生き方です。共存社会が存在しない世界では、皆、他人を助けたり、布施や寄付をしたりしなくてはならないのです。今月のジャータカ物語は、「食べものを奪う」という罪の重さを語っているのです。