智慧の扉

2016年3月号

知識は素晴らしいものでしょうか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 私たちが知識を得る狙いとは何でしょうか?「私は事実を知りたい」「本当のことを知りたい」というのはウソです。もし私たちが事実を知りたければ、本当のことを知りたければ、主観で知ろうとすることは間違いになります。私たちは、なぜ知識を欲しがるのでしょうか? なぜ物事を認識するのでしょうか?
 
 認識とは「知る」ためではなく、「生きる」ためにしていることなのです。なぜ知識があるのかというと、それは生きるためなのです。ただ生きるために認識し、知識を得ているのです。「生き続けたい」と思うのは私です。それで、外から入ってきた情報を捏造して知識とします。

「私は生き続けたい」、だから認識し続けます。そして、眼耳鼻舌身意という六根に触れた情報を生きることを支えてくれるもの、生きることに邪魔になるもの、関係ないものという三つに分けて捏造するのです。というわけで、知識は主観になってしまいます。

 私の命を支えるものに、「愛着、カワイイ、美しい、美味しい」などの感情を作る。私の命の邪魔・障害になるものに、「キライ、敵、ライバル、危険、迷惑、駆除するべき、壊すべき、殺す、汚い、醜い」などの感情を作る。この二つに当てはまらないものに対しては、「無関心、調べる必要なし、認識するに値しない」などの無知の感情を作る。これが主観の中身なのです。
 
 たとえば、私が「アボカドが好き」と言うと、ある人は「そんなもの美味しくない」と思うかもしれません。それは主観ですね。なぜなら、アボカドを食べた私が美味しいと感じます。私の命を支えてくれるものだと思うのです。音や香り、味や感触についても同じことです。私が良い気持ちになると感じるものに、存在・命を助けてくれる、支えてくれるものとして味方だと思うのです。
 
 そして主観の結果として、「私は正しい」ということになります。ご飯はなぜ美味しいと思うのかと言えば、肉体を支えてくるからなのです。客観的にみると問題は「本当にご飯は美味しいのか?」ということです。自分の存在のために認識したものを事実だと思っても、それは勘違いです。このように、主観とは真理とかけ離れたものなのです。