智慧の扉

2017年5月号

命は儚い、死は確実

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「死」という現実をそのまま観察する死随観は、お釈迦さまが推薦する冥想のひとつです。人間は愚かなので、年を取らない・死なないと本気で思っています。それでは不幸に陥って、人生でひどく苦労する羽目になります。お釈迦さまはこの無知をなくすために、死を冥想することを教えたのです。
 
 死随観のやり方をコンパクトに紹介します。「すべての生命は必ず死ぬ。死は避けられない。水面に書いた線のように命は消え去る。命は儚い。死は確実である」と念じてみるのです。パーリ語には、「Jīvitaṃ aniyataṃ maraṇaṃ niyataṃ〚ジーヴィタン アニヤタン マラナン ニヤタン〛(命は儚い。死は確実)」という便利なフレーズもあります。

 この言葉を心に言い聞かせて、無知な心を理性の心に入れ替えるのです。「命は儚い。死は確実」と念じていると、その言葉に逆らおうとする心のざわめきを発見するはずです。何となく気分が重く、暗くなっていくように感じてしまう。「誰だって死ぬだなんて、ネガティブな思考だ」と嫌な気持ちになってしまう。死随観を実践することで、ヤバイ・コワイ・暗いという本音が炙りだされるのです。それは自分がまだまだ感情的であって、理性的でないという証拠です。嫌な感情が出てきたら、それに引きずられることなく、目を背けることもなく、「これは感情だ」と気づいて見破るのです。

 死を認めることは、暗いどころか、とても前向きで明るい思考です。感情の汚れをぬぐって、理性の目を手に入れれば、そのことに納得できるでしょう。「死にたくない」と思うことは、地球の自転・公転を止めようとするのと同じです。その可笑しさに気づいて、自分が極限に愚かだったと納得すること。死は確実だと心から認めること。それができれば、死随観の完成です。死の冥想を完成した人の心は、揺るぎない安穏に達するのです。

 死は確実です。私たちは、この世界に一時滞在しているだけだと理解しましょう。どこか旅行に出かけて、ホテルに泊まるような感じです。人生は旅行だと考えれば、気楽なものでしょう。この人生に永住しなくては!と勘違いしたら、余計な苦労を抱え込むだけです。

 死随観を実践する人にとって、死は自然なことに変わります。太陽が昇り、また沈むことと同じ。なにも驚く必要はありません。死という現実を見抜いた人だけが、安楽に生きられるのです。