パティパダー巻頭法話

No.13(1996年3月)

敵と味方の見分け方

自分のこころを育てるために 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人が生きるためには自分の敵と味方の区別をまず知ることです。結果として自分の人生を不幸にするものは敵となるでしょうし、幸福な生き方を手助けしてくれるものは味方ということになります。ですがこの場合、こちらのご機嫌を取って人をいい気持にさせるだけの相手はほんとの味方とは言えません。そのことはよく承知しているのですが、そういう自分の肩を担ぐものについ親しみを覚えるのもまた人間の共通する弱みと言えます。逆に、長い目で見れば自分のためを思ってくれて厳しく指導してくれる人がいても、私たちはついそういう人のことをうるさい人だ、と疎んじてしまったりするものです。

また一方で、人に騙されたりおとしいれられたり、上手い話に乗せられて不幸な目に遭うことも屡々しばしばです。結局、私たちには自分のためを思ってくれる人とそうではなくて自分の利益になるからという理由だけで私たちを利用しているだけの人との区別は容易にはつかないものです。また、善意から自分にいろいろ教えたり指導してくれたりする人がいますが、その通り実行したからといって必ずしも両者の思惑どおりに幸福になるとは限りません。幸福に生きるというのは至難のわざです。

ここで「敵」「味方」がもっとも確実に見分けられる方法を考えてみましょう。人間は考えて行動を起こします。行動の方向性はその人の感情、知識、理解能力、好み等によって変わります。人とつき合うのもこれは同じです。私たちのことを心配してくれる人、私たちを利用する人に対する私たち自身の態度も「こころ」の働きによるものです。そうなると一時的な感情に引きずり込まれやすい「こころ」で生きている人ならば人間関係によって不幸に陥ちこむ危険性が高くなります。

要するに「こころ」が正しく働くならば、私たちは人間関係でも不幸にならないということです。

「こころ」が自然に正しく働くならば幸いですが、実際にはそうではありません。「こころ」という働きは瞬時に変化する。環境やそのときにおかれた状況によって、すぐに変わってしまいます。

今の瞬間のこころの状態が次の瞬間はどのように変化するかは本人にも分かりません。「こころ]の変化は自分ではどうすることも出来ません。きょう歓びに満たされていても、明日はそれが悲しみや怒りに変わることは始終あることです。

「こころ」はいろいろな経験の影響を受けて、それによって方向性を変えていくという性質も持っています。一度方向性が定まるとずっとその枠から抜け出ようとはしません。例えば、煙草、酒、ギャンブル、遊興等に魅せられると、それがもたらす不幸な結果を承知していながら、断ち切るのは簡単ではありません。人間関係でトラブルを起こす人は、それをよく繰り返します。人とのトラブルで会社を辞めた人は、次の会社でも同様な失敗を繰り返す恐れがあります。これらは、先に述べた「こころ」の方向性に原因があるので、「運命だ」「業」だとばかりは一概には言えないむのです。反対に「こころ」が「良い方向」を持てば人生は幸福に向がって歩みはじめます。

このように「こころ」は弱い性質を持っている「働き」ですので、放っておけばどんどん堕落してしまいます。「こころ」はその場その場ですぐ味わえる快楽をいつも求めていて、先のことには神経を配りません。これこそが人生における「悩み」「苦しみ」の原因なのです。これを仏教では「煩悩」と言っています。「こころ」を育てずに放っておくと危険なのはそのためです。

「こころ」のこのような性質を知っている人は、外部の世界に「敵・味方」を見いだすことはありません。何が「敵」で何が「味方」かを確実に把握することはこころでは不可能なことです。ですから自分の周囲の人々がどんな人であろうと、幸福を掴めるかどうかは、自分自身の「こころ」次第です。もしも周囲の人間がだらしなくて、自分の「敵」的存在であっても、いわば反面教師のようにそれを客観的に見て自分の性格を正すこともできます。逆に周りの人々が良い人であれば、その影響を励みにして自分の人生の糧にすることもできます。

外部の世界を「敵・味方」に区別することは無意味なことです。そのことは生きることを複雑に難しくするだけです。自分の本当の「敵・味方」は、自分の「こころ」なのです。無知、貪欲、怒り、嫉妬、敵意、高慢、弱気、怠惰、後悔等によって「こころ」の方向性を決めると、その「こころ」が自分にとっての最強の「敵」となります。「自分自身のこころ」という敵からは逃げきることが出来ませんから、そういう「敵」を内包した人は周囲の世界も生きにくい、住みにくいものにしてしまうのです。

物ごとをありのままに、客観的に見ることが出来る知恵、慈しみ、思いやり、助け合い、精進、努力、明るさ、謙虚等で「こころ」の方向性を定めたら、その「こころ」自体が自分の最強の「味方」となります。その「味方」は決して自分を裏切ることはありません。そのような「味方」を内包した人の世界は、周囲も自分の幸福をもたらす「味方」に変わっていきます。ですから、世界を「敵・味方」などに区別するという愚かなことは止めて、内在する本当の「敵・味方」にはやく気づくことが大切なのです。

今回のポイント

  • 周囲の人々を「敵」として感じてしまうような状況に自分を置くことは苦しみです。
  • 周囲の人々が「味方」であると感じられることは幸いですが、その人々によって自分の生き方をかえって束縛される恐れもあります。
  • 本当の「敵」「味方」は、外界に見いだすことは難しすぎます。
  • 「こころ」の方向性によってのみ人生の幸・不幸が定められます。
  • 「敵」「味方」の区別を越えた概念で世界を見る見識を持つことです。

経典の言葉

  • Diso disaṃ yaṃ taṃ kairā verī vā pana verinaṃ
    Micchā panihitaṃ cittaṃ pāpiyo naṃ tato kare.
  • 敵が敵に対して、また怒る人が怒る人に対してすることよりもっとひどいことを、
    邪悪な方向へ育てられた「こころ」が、その人に対して行う。
  • Na taṃ māta pita kayirā aññe vāpi ca ñatakā
    sammā panihitaṃ cittaṃ seyyaso naṃ tato kare.
  • 正しく育てられた「こころ」が、母や父やその他の親族がしてくれるよりも
    もっと優れたことをあなたにしてくれる。
  • (Dhammapada 42,43)