パティパダー巻頭法話

No.318(2021年9月号)

革命の道

激流の渡り方 From slavery to freedom

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

2. Appamādavaggo
第二章 不放逸

  1. Uṭṭhānenappamādena
    Saṃyamena damena ca
    Dīpaṃ kayirātha medhāvī
    Yaṃ ogho nābhikīrati
  • 思慮ある人は、奮い立ち※1、努めはげみ※2
    自制・克己※3によって、
    激流もおし流すことのできない島をつくれ。
    ※1諦めず ※2不放逸に ※3慎み
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より ※に単語を補った。

此岸を渡る

此岸しがん〉とは、この世のことです。生死を繰り返しながら、限りなく輪廻転生することです。この世で生まれる全ての生命には、「死ぬまでこのように生きなさい」というプログラムがプレインストールされているのです。時々、「わたしは何のために生きているのか? 自分は何をすれば良いのか? 自分の生きる道は何なのか?」と悩む人々もいます。生きる道を発見した人々は、自分に宝くじが当たったような感じで喜んで満足します。その反対に、自分の道を発見できなかった人々は、みじめな気持ちに陥るのです。

人が発見する自分の道とは、それほど大袈裟なものではありません。ただ、生き甲斐を感じる何かを見つけただけです。生き甲斐を見つけた人々は、「生きることには価値がある」と思うのです。生き甲斐を見つけることは、個人レベルではそれほど難しくありません。しかし、このテーマを〈個人〉という小さなスケールから〈生命〉という巨大なスケールに移してみると、違った景色が見えてくるのです。個人として見れば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、モーツアルト、アインシュタイン、マハトマ・ガンディー、キング牧師などの巨人がたくさんいます。しかし、人間というスケールで見てみると、みな人間として生まれて、苦労しながら生きて、やがて老いて亡くなっているのです。生まれてくる生命にプレインストールされたプログラムは、「できるだけ死を避けて、生き続けること」です。生き続けるために、科学・芸術・技術といった何かの分野に支えてもらうのです。その支えには差があっても、みな同じプログラムで死ぬまで生き続けています。畜生・神々などの生命にしても、プレインストールされているプログラムの通りに生きているだけです。もっと俗的な言葉でいえば、「誰でもやっていること」をやって生きていて、その寿命の限りで生を終えるのです。

ここで問題なのは、物質エネルギーであろうと、こころのエネルギーであろうと、完全停止して〈無〉という状態にはならないことです。エネルギーは変化しながら回転するのです。ですから、生命が死んでも、また新たな生が現れます。仏教では、このエネルギーの流転を〈輪廻〉と呼びます。これはつまり、プレインストールされたプログラムによって、生命が限りなく誕生から死までを生きることです。〈死〉ののちに新たな〈生〉が現れたら、そこに新たなプログラムが付いてくるのです。これが〈此岸〉です。理性を駆使して、このマンネリから抜け出す方法はないのかと考えるべきです。此岸を渡る方法を探すことです。仏教は、この「此岸を渡る方法」を教えているのです。

革命は難しい

此岸を渡ることは困難な挑戦です。祈るだけで、希望するだけで、何かを信仰するだけで、達せられるものではありません。最初に〈プレインストール・プログラム〉という単語を紹介しました。ここに生命体がいるとしましょう。その生命体には、死を迎えるまでどのように生きるべきか、というプログラムがあるのです。何を勉強するのか、どんな職業で生計を立てるのか、誰と結婚するのか、子供をどのように育てるのか、などなどの項目について「自分自身で判断しなさい」ということも、プレインストールされたアルゴリズムに含まれているのです。思想家たちは自由意志(free will)をとなえますが、それは条件付きの自由に過ぎません。その程度の自由では、決して此岸を渡れないのです。自由意志は、誰と結婚するのか、どんな政党に投票するのか、など誰でもやっていることにではなく、自分自身のアルゴリズムを書き換えるために使わなくてはいけないのです。生きるためのアルゴリズムの中には、アクセスを許可されていないものもあります。しかし、此岸を渡る人は、巧みにプログラムを書き換えていく過程で、アクセス不可能なところにも入ってプログラムを書き換えるのです。成功者はこの世の人間のように見えるかも知れませんが、生きるプログラムを乗り越えた、此岸を渡った、〈解脱者〉になるのです。このプログラムを書き換える方法について、簡単に説かれた偈がダンマパダに残されています。今月は、その偈を勉強してみましょう。

Uṭṭhāna――奮い立つこと

決められたとおりに生きることは簡単です。世の中の常識に従って、先輩や支配者たちの指導を従順に守って生きることは簡単です。そのような人は「真面目な人」「信頼できる人」という勲章を世間からもらいます。囚人が看守たちに褒められるようなものです。自由になりたければ、脱獄を企まなくてはいけないのです。それは、派手に公でできることではありません。看守たちに褒められても、その評判をそのまま守りながら脱獄プログラムを実行しなくてはいけないのです。

自分がいる檻の中から、2キロくらいのトンネルを掘らなくては脱獄できないと仮定しましょう。トンネルを掘る道具は何ひとつもないのです。しかし、その人はスプーンやフォークなどありあわせのものを使って、誰にもバレないようにトンネルを掘り続けます。この場合は、その人に「諦めない、中断しない、投げ出さない」という性格が必要です。なぜならば、ハードルは乗り越えられないほどたくさんあるからです。

此岸を渡ることも、似たようなものです。簡単に乗り越えられないハードルがたくさんあるのです。ですから、まず〈uṭṭhāna(奮い立つこと)〉という、諦めない・投げ出さない性格が必要になります。

人は五欲に執着しています。また、家族・財産・名誉・社会的地位などに執着しています。さらに、自分自身の身体にも愛着を持っています。加えて、毎日のマンネリな生き方にも愛着を持ちます。これらがハードルになるのです。愛着がある限り、自分は家族・財産・名誉・社会的地位などの奴隷になったままです。分かりやすく言えば、自分のためではなく、家族のために、国や組織のために生きているのです。理性がないからこそ、生命はみな奴隷であることにも気づかないのです。理性があるならば、自分が奴隷であることに気づくはずです。その束縛を破って、自由の身にならなくてはいけないと決断することになるのです。そう決断した人は、社会が与えてくれた「真面目な人」「信頼できる人」などの何の役にも立たない勲章をむやみに捨て去ることもなく、それに縛られることもなく、巧みに脱獄プログラムを実行します。何があっても諦めることはしないのです。

Appamāda――不放逸

不放逸は、此岸を渡るプログラムです。〈Appamāda〉という単語には、「努めはげむ」「怠らない」という意味もあります。しかし、appamādaは仏道の全てをまとめた単語でもあります。此岸を渡って解脱に達したいと思う人が、「瞬間瞬間の自分に気づく」という実践をしなくてはいけないのです。アルゴリズムのたとえを使うならば、瞬間瞬間の自分に気づくことが、プレインストールされたプログラムを書き換える作業なのです。脱獄のたとえを使うならば、トンネルを掘り始めることです。簡単な作業ですが、一日あたりコップ一杯、二杯程度の土しか掘れないかもしれません。それでも諦めません。毎日、掘り続けるのです。掘り続ける作業は、appamādaの実践です。つまり、瞬間瞬間の自分に気づくことです。

此岸を渡るとは、輪廻転生を破る革命ですが、この革命は大胆で破壊的な、恐ろしい革命ではないのです。五欲・家族・財産・名誉・社会的地位などへの執着を捨てようとして、反社会的で他人に迷惑や損害をもたらす行為をしません。社会が与えるプログラムは、そのまま置いておきます。それに執着もしません。その代わりに、瞬間瞬間の自分に気づくのです。

Saṃyama――自制

人の生きる衝動は感情(煩悩)です。家族を大事にするのは、その人々に対して慈しみがあるからではないのです。自分がその人々のことを好きだから、愛着があるからです。その人々が、自分に楽しみを与えてくれるからです。その人々のおかげで、生き甲斐が現れるからです。その人々のおかげで、生きる苦しみを忘れられるからです。しかし、それらは結局、自分本位の愛着に過ぎないものです。

怒り・嫉妬・憎しみ・怨み・落ち込みなどの感情もあります。憶えやすくするために、仏教は〈貪瞋痴〉という三つに分けています。貪瞋痴が生きる衝動です。そこで問題になるのは、感情(貪瞋痴)がいとも簡単に暴走することです。感情が暴走すると、家族を愛するどころか、家族を破壊する行動をしてしまいます。仲間・組織・国などを破壊する・迷惑をかける行動にも走ります。他を破壊できなかったら、自分を破壊するのです。感情は生きる衝動なので、簡単に捨てられるものではありません。感情とは、つまるところ自分本位の愛着です。感情があらわになると、瞬間瞬間の自分に気づくことができなくなります。人々は感情に指令で生きているから、いつまでも此岸を渡れないのです。此岸を渡るプログラムを実行する理性のある人は、感情が暴走しないように〈自制〉するのです。

Dama――慎み(克己)

人には自分の性格というものがあります。同じ仕事を二人がやるとしましょう。結果はほとんど同じく見えるが、微妙に色が違うとわかるのです。たとえば、ひとりは一階の掃除をする。もうひとりが二階の掃除をする。掃除はちゃんとやっているが、それぞれの結果が微妙に違うとわかるのです。これは自分固有の色、また自分のsignature(サイン)があるということです。ここまでは問題ないのです。時々、自分の個性が自分にも他人にも迷惑になる場合があります。人は誰でも話します。しかし、自分の話し方で相手が落ち込んだり傷ついたりする可能性があります。人には欲があります。しかし、その欲が自分にも他人にも迷惑な行為になることもあります。人には怒りがあります。機嫌が悪くなることもあります。それが他人の迷惑になる場合もあります。

此岸を渡るプログラムを実行する人は、ここで〈慎み〉を実践します。怒りが起きても、それを発散しないで、怒りがなくなるように慎むのです。分かりやすく言えば、暴飲暴食したり、大騒ぎしたり、はしゃいだりすることを慎むのです。日常生活においても、慎みを実践しなくてはいけないのです。自分の性格のままで生きようとすると、此岸を乗り越えるプログラムが停止します。この〈慎み〉について、一般仏教では〈戒律を守る〉という言葉を使っています。

彼岸(島)

此岸を渡るプログラム(脱獄プログラム)は、奮い立つこと(諦めないこと)、不放逸、自制、慎みという四つで完成です。成功者は解脱・涅槃という境地に達します。ここで、「安全な島にたどり着きました」と言うのです。注意するべきところがあります。島とは、どこかに既にあるものです。危険な場所にいる人が、苦労してでも安全な島に避難します。仏教の解脱をこのように理解すると、誤解を招きます。お釈迦さまは「安全な島を作りなさい」と言うのです。島を作るとは、また常識的な概念ではありません。ここで説かれているのは、それぞれの生命にプレインストールされた、生きるプログラムを完全に書き換えることです。プレインストールされたプログラムどおりに生きることは、苦しみの輪廻に嵌って奴隷の身分で生きることです。プログラムを書き換えた人が自由になるのです。その自由の境地は、他人に理解することすらできません。安全・安穏で自由な境地とは、プログラムを書き換えることによって、自分自身で作るものです。ゆえに、お釈迦さまは「理性ある人は島を作りなさい(dīpaṃ kayirātha medhāvī)」と説かれるのです。

激流

苦の輪廻転生をしながら生きる俗世間は、危険な激流が渦巻く場所です。決して安心できません。激流に嵌ったら、もがき苦しんで死ぬしかないのです。死んだらまた新たな生を作って、同じことを繰り返します。当然、激流を渡って安全な岸に上陸することは難しい作業です。俗世間を絶えず攻撃する激流は、①kāma(五欲)、②bhava(生存欲)、③diṭṭhi(見解)、④avijjhā(無明)の四つです。解脱に達する人は、この四つの激流を果敢に渡るのです。自分自身の精進・努力によって作られる安全・安穏の島に対しては、「激流も太刀打ちできない(yaṃ ogho nābhikīrati)」のです。

今回のポイント

  • 生きるプログラムを持って生命が生まれる
  • 生きるプログラムとは生老病死の循環です
  • 輪廻転生の世界を此岸と言います
  • 理性のある人が此岸を渡ります
  • 安全・安穏な彼岸は自分で作るのです