No.319(2021年10月号)
破滅を喜ぶ人々
幸福への鍵は不放逸です Indulgence
今月の巻頭偈
2. Appamādavaggo
第二章 不放逸
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Pamādamanuyuñjanti,
bālā dummedhino janā;
Appamādañca medhāvī,
dhanaṃ seṭṭhaṃva rakkhati.
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知慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。
しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、
つとめはげむのをまもる。
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Mā pamādamanuyuñjetha,
mā kāmaratisanthavaṃ;
Appamatto hi jhāyanto,
pappoti vipulaṃ sukhaṃ.
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放逸に耽るな。
愛欲と歓楽に親しむな。
おこたることなく思念をこらす者は、
大いなる楽しみを得る。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
Bāla――愚者
仏教用語でよくbālāという単語が使われています。「愚者」と日本語訳されています。一般の人々のことを愚者呼ばわりするのは、差別用語になります。生命は平等という立場を取っている仏教が、他人に対して差別用語を使うはずがありません。他を見下すこと、自惚れることは、不善行為として説かれています。つまり、bāla・愚者という単語は別な意味で使われているのです。今回は二つの定義を紹介します。
①感情の衝動で生きる人です。欲・好み・怒り・慢などなどの感情に誘惑されて、感情に負けて生きる人のことです。判断して行為をする場合、理性を使わない。判断は感情に任せる。客観的な情報やデータがあっても、それらを参考にしないで自分が好むことを行なう。嫌なことは止める。好き嫌いなどの感情を大事にして、感情を優先にして、感情に導かれて生きる人が愚者なのです。
②過去の出来事と将来の期待・希望が衝動になっている人々です。過去の出来事にとらわれているか、将来の妄想にとらわれている。そのいずれか、あるいは両方かです。要するに、現在・今の瞬間に対して無関心なのです。人には過去に生きることも、将来に生きることも不可能です。生きているのは今・現在のみです。今・現在起きている現象に対して無関心で、過去か将来の出来事を妄想して、それを人生のガイドラインにしている人々が愚者なのです。
分かりやすくいえば、一般の人々は皆、愚者なのです。仏教用語として使われている愚者という語は、「私は理性がある賢い人、あなたは愚か者」という差別用語ではありません。Bālaという単語は、子供、年下の人、若者、躾け・指導をほどこすべき者、という意味でも使われるので、ある面で愛称でもあります。師匠が弟子に、親が子供たちに、ふつうに使う単語でもあります。ですから、釈尊は差別用語をあえて選んで使ったわけではないのです。
放逸にふける
世間の楽しみは、放逸にふけることです。喜怒哀楽などは感情です。喜怒哀楽をかきたてる行為は人々の楽しみです。音楽・踊り・祭り・パーティなどは楽しいものです。楽しくなるために、喜怒哀楽の感情をかきたてるために、人は芸術を鑑賞します。現在、起きている出来事を芸術作品にするのは、けっこう難しい仕事です。政治家の行ないを批判して作られるコメディは世にたくさんあります。しかし、私たちがそのコメディを鑑賞して楽しむ時点で、ネタにされた出来事は過去になっています。芸術作品を鑑賞することで、人々は過去の出来事に喜怒哀楽の感情を惹き起こしています。それから、物語・神話・小説・映画などの作品もあります。それらは、作家たちが自らの妄想を作品に仕上げたものなのです。
人々が俗世間で楽しみたいと望んだら、過去の出来事や将来の推測・純妄想を元にした、「作品」という現実ではない出来事を楽しまなくてはいけないのです。これらは愚者の境地です。今・現在の出来事から意識がズレることをpamāda・放逸と言います。感情に負けることも、感情に導かれて生きることも放逸です。「愚者の生き方は放逸である」と言えます。「財産・家族・名誉・権力などに楽しみ・幸福を感じて、幸福を味わって生きているのだ」という方々は、放逸を楽しんでいるのです。現在に気づかないので、皆、愚者なのです。
愚者の悲しみ
人が実際に生きているのは今の瞬間だけです。過去は終わったものです。将来は現れてもいません。過去と将来とは、頭の中にある観念的な妄想概念に過ぎないのです。現実的な、今・現在の生きることについて無関心なので、生きることはマンネリ的に流れるはめになります。失敗も多いから、さらに悩み苦しみが増えるのです。人々は真剣にがんばって生きているようですが、世界が問題なく平安に流れた経験は一つもありません。皆に、将来に対する怯えがあり、不安があるのです。「感情をかきたてることが楽しい」「過去と将来のことを妄想するのが楽しい」と思って現在の現実を無視する人は、愚者であり、放逸に生きているのです。世界にあるすべての問題、生きることに対するすべての問題、悩み苦しみなどは、愚者の放逸な生き方の結果なのです。「豊かな社会を築こう」「平穏な世の中にしよう」「平和な世界を作ろう」などなどの呪文を称えても、世界は悪化するだけです。人類は不幸に陥るだけです。なぜならば、俗世間が放逸を喜んでいるからです。これが愚者の悲しみです。
不放逸
私たちは、理性ではなく、感情がものをいう世界で生きているのです。これは悩みから悩みへと、苦しみから苦しみへと進む道であり、退化への道であり、破滅を目指す道なのです。人は愚者なので、感情が宝物だと思っています。しかし、平安・安穏・幸福への道は、愚者の管轄ではなく智者の管轄です。その道は、放逸の生き方ではなく、不放逸の生き方によって完成できるものです。俗世間の生き方とは違っているので、不放逸の生き方は難しいかも知れません。本当は、「難しい」のではないのです。私たちは不放逸に慣れていないから、不放逸に馴染みがないから、不放逸を忘れてしまう、不放逸をあきらめてしまうのです。
不放逸の生き方を、つまり「今・現在に集中して生きるとは、どのようなことなのか?」ということを、ブッダの教えから学ばなくてはいけないのです。気づきの実践とは、すなわち不放逸の生き方です。これをブッダの指導に基づいて、繰り返し訓練しなくてはいけないのです。放逸の生き方を、不放逸の生き方に入れ替えるところまで訓練しなくてはいけないのです。
理性のある人は、「不放逸に馴染めるまで修行しなくてはいけない」と知っています。「不放逸こそが世界最高の宝物である」と思って、見失わないように気をつけるのです。世界の宝物がどのように守られているのかと、我々は知っていますね。24時間、さまざまな工夫をこらして警備しているでしょう。私たちもまた、自分自身の不放逸(気づきの実践)を、世界の偉大なる宝物のような気分で守らなくてはいけません。そうしない限り、こころはいとも簡単に放逸の生き方に落ちてしまうのです。
ブッダの言葉
お釈迦さまはこのように語っています。
理性に欠けた愚痴なる人々は、放逸にふけって喜んでいる
しかし理性ある人は、不放逸を最上の宝物のように守る。
放逸にふけらぬほうが良い。五欲にふけらぬほうが良い。
不放逸に精進する人々は、偉大なる幸福(解脱・涅槃)に達する。
今回のポイント
- 感情は人を支配する
- 感情が人を不幸へ導く
- 放逸とは感情に負けた生き方です
- 不放逸は訓練しないと身につかないのです
- 不放逸は究極の幸福をもたらす