根本仏教講義

7.業と因縁 3

不幸になるという因縁

アルボムッレ・スマナサーラ長老

業と因縁の話を続けましょう。先月は、因縁とは、ものごとには必ず原因があるということであって、原因のない現象は起こり得ないのだという話をしました。因縁の話はある意味では非常に科学的な話です。ものごとの原因を自問したり反論したりして捜せばいいのです。

不幸になるという因縁

お釈迦様は、我々が毎日幸福に、問題なく楽しく明るく楽に生きる道と、心清らかにして解脱を体験する道、その二つについて、合理的にお話されています。

まず日常生活の因縁の話ですが、自分の家が不幸であるならば、一番分かりやすいところから原因を捜さなくてはいけません。先ずなぜ自分の家が不幸なのかと科学者のように考えるべきです。不幸だ不幸だと馬鹿のひとつ覚えのように騒ぐのではなくて、なぜ不幸なのかを明確にするということが大切です。今商売のほうはどうですかね、やっぱり景気が悪いですと、みんな言うでしょう。口癖のように同じことばかり言うのではなくて考えることが先なのです。

これは私が日本に来た時から同じ話ばかり聞かされるんですね。「景気が悪い悪い」と。私は外人ですから景気といえばケーキを思い浮かべてしまいますから、悪いんだったら捨てろと言いたいところです(笑い)。

家が不幸だと思うならば、何を持って自分は自分の家が不幸だと思うのかと先ずきちんとリストを作ることです。原因を捜す前に結果は今あるものだからすぐわかりますから。私はなぜ不幸かと問えば何か見つかるはずです。もし何も見つからなかった場合はそこには何の問題もないということです。

単なる癖で不幸だ不幸だ言う人はさておいて本当に自分が不幸だと思うならば何が不幸かをリストにすることから始めてください。そうすると、案外自分が思うほど膨大なリストは出て来ないはずです。おおざっぱによく考えもしないで、やっぱり不幸ですと言うだけのことで、捜してみれば何のこともありません。

夫婦がしょっちゅうケンカするとか、子供が言うことを聞かないとか、商売がうまくいってないとか、家に病人がいるとか、そういうことが出て来るかも知れません。よく奥さんが不幸だ不幸だと言っていますが、それはなぜでしょうか。おばあちゃんが寝たきりになったとか、そういうふうなことで自分が不幸だと言うらしいのですが、そこのところをよく考えてみるとそれは不幸なのか忙しいのか、どっちかはっきりしたほうがいい。そういうふうに明確にすべきなのです。

病気になって寝たきりになったとします。人が病気になることは不幸ですか。それは不幸というよりごく普通のことではないでしょうか。

では脳出血か何かで収入を持って来るダンナさんがいきなり倒れたとすると、不幸だと思いますか? もし不幸だと思うのならそこに何か原因があるんですね。その場合は、なぜ脳出血になったかと原因を追及するべきです。原因というのは過去の出来事だから、捜せばいくらでも出て来ます。そうすると他の人も二度と同じ結果にならないように対策を立てられます。

次にこれからどうすればいいのかと、しっかり考える計画を立てることです。不幸だからと言って泣くのではなく、その法則を知り、きちんとした対策、きちんとした解決方法を見つける。
幸福になる為にとお釈迦様がおっしゃっている話はそういう話なのです。それは、むずかしいと言えばむずかしいことかもしれません。

そこでお釈迦様がおっしゃるのは、むずかしいからと言ってどこかで怠けて追及するのをやめてはいけないということです。この家には昔からそういう因縁がありますよなどという話は、怠け話で言い訳だと説明するのです。自分の不幸に言い訳を作って、「だから仕方がない」と考える。それは仏教では良くないことだと言っています。立ち直るために、原因を見つけて何とか解決の方法を考えるということです。

その考え方でいいのかどうか

さて、人が「不幸、不幸」という理由には、世事がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、すぐ病気になる、子供達が言う事を聞かないなどいろいろありますが、そういう不幸は人間の考え方を変えればぜんぶ直ってしまうことが多いのです。このことはお釈迦様もいろいろと工夫され教えておられます。

子供の性格が悪くなったという場合、半分は両親のせいで半分は学校のせい。でもそれだけではない。それを三つに分けてみましょう。三分の一は両親のせいで、三分の一は学校のせいで、残りの三分の一は仲間のせいかも知れません。四つに分ければ、また四分の一はその本人のせいかも知れません。どれぐらいに分けるかによりますが、親がそのことを考えるなら、子供が言うことを聞いてくれないとすると、それは両親の言い方が悪いという場合も充分に考慮する必要があるわけです。子供の納得がいくように、話していないのではないか。とすると、なぜ言い方が悪かったかと言う問題がでてくる。それは考え方の問題である。それなら、考え方を変えればぜんぶ直せるのではないか。そこで解決できてしまいます。

会社で雇っている人が真剣に仕事をしてくれない、自分の命令をちゃんと実行してくれないと言うのなら、きちんと実行出来るように人々の気持ちを明るくするような命令の仕方をしているのかどうか。みんなが仕事をしやすいように、会社のシステムを作っているのかどうか。
また社員が自分の能力を発揮出来るような仕事を頼んでいるのかどうかということを考えてみる必要があります。それが出来ないならば本人の考え方が間違っているわけです。ということは考え方を直せば会社はうまくいくのです。

このように仏教は、我々の考え方を直すという話なのですね。会社の場合の例で言えば、社長が儲けることだけを考えるようなケースは、儲けさえすればいいと思っていますから、仕事しろ、仕事しろ、と社員のお尻をたたくわけです。成績が悪い、これじや駄目だ、とね。そのうえ恐ろしいことは、事務所で今月の成積表などグラフまで書くのです。こういう会社がよくも倒産しないなぁと思います。 結構倒産していますが、でも私から見ればもっと倒産しても仕方がないとさえ思うのです。あんな恐ろしいことまでして、つまり人を差別し、人をけなし、人を馬鹿にして、いじめて、それでも会社が儲かっているというのは、ありえないことでしょう。儲かればいいというのは単なる欲望、わがままだけであって、欲望やわがままは嫌われるのです。儲かるということにもそれなりの法則があるということを知るべきです。何か人に必要なことをしてあげる、あるいはくだらないことであろうともこれは必要なこと、これは買わなきや損するよと、何とか宣伝をして、工夫しなければものは売れません。そしてだんだん自分の余計な欲、つまり儲かればいいという欲ではなく、その仕事自体が「社会に必要だ」という状況を作っていくのです。会社で仕事をする人々にもあなたがたの仕事は社会にとって大変大事ですよと、各人に自分の存在の有り難み、また自分が必要であること、自分の仕事が大事であることをきちんと納得させて充実感を与えてあげると、働くものも、やっぱり頑張らなくてはいけないと思うようになるのです。自分のやっていることが大事な仕事だと思えば、自信がついてくる。そうすると会社にとっても損はなくなるはずです。そこで必要なのはやっばり考え方を直すことです。

心の中の「ウイルス」を取り除く

お釈迦様は、すべての人間の基本的な悪い点を非常に厳選して教えてくださっています。それはたとえば、わがままは良くない、高慢は猛毒です、あるいは自分本位で行動するな、怒りは自殺行為だ、嫉妬するななどなど。これらはぜんぶ、癌みたいなものですよとおっしゃっているのです。家にシロアリが来たような感じです。放っておけば食いつくされて破滅してしまう。嫉妬や妬みなどは体に癌細胞が入ったのと同じようなものです。そういうものが我々の心の中にあるならば、心のなかは敵ばかりで、汚染されてしまうので、自分だけ良ければよいという考え方、他人の幸せを自分にとってのまるで悪のように思う考え方なのです。それでうまくいくはずがありません。

悪いことに父親にしても母親にしても同じことです。子供に成功してほしいのは自分の為なのです。自分が自慢したいのです。かわいそうに、子供たちの命は両親の奴隷になっているわけですから、その子供が親を攻撃し、親に逆らい、親に逆らって気が済まない場合は社会にまで逆らってしまうというのも当然と言えば当然と言えるのです。その結果犯罪者になってしまうこともあります。

皆様には関係ないかも知れませんが、私の国では、人が犯罪に走ったならばそれは親のせいだと言われます。そこまで言われると、親というのはものすごく緊張してしまいます。私もものすごく厳しく育てられました。わずかな間違いでも、何か人殺しでもしたかのような感じなのです。ちょっとした軽い嘘を言っただけでもとんでもないことになるのです。大変怒られたうえ、物語まで聞かされるんですね。人の物を盗むなと言う場合は、人の物は糸一本でも取るなとしつけられらます。それでも取ったならばあなたは泥棒だ、もうどうしようもないんだというのです。なぜならば、糸を盗んでそのときは何ということも無かったとなると、次は「もうちょっと」と針も盗む。針を盗んだら次には服まで盗んでしまうようになる。それから結局は大泥棒になってしまう。ですから糸一本さえも取るな、そこから気をつけろと言われるのです。なぜそこまで言われたかというと、私達の文化では、犯罪に走ったら親のせいだと言われていたせいなのです。親はものすごく真剣にならざるをえません。どうでもいいようなところまでも徹底的に言われるわけですし、小さいときに言われるので自然と性格はでき上がっていくのです。親が私利私欲のために幼い子供に勉強を押しつけるような状態とは全く違う環境に子供は置かれています。

心の中に毒、細菌、ウイルスがいっぱい入ってしまうと、その心は正しく行動しなくなります。ですから、お釈迦様はそれを言われるのです。例えば、私達はO-157で食中毒になって死んじゃうよと言っても、我々にとってはO-157でもO-158でもいいんですね。一般人の知識はただ体に入ると危ないということぐらいでいいのです。敵がO-157であり、どこにいるのか、どんなふうに汚染するかということは研究者達が見つけて、我々に教えてくれ、回避する方法も教えてくれる。ですから、私達は自分の目で顕微鏡で、O-157を見ていなくても自分の身を守ることが出来ます。それと同様に、お釈迦様は、嫉妬するな、怒りはとんでもない自殺行為みたいなものだ、欲張るのは貧困のもとだ、と教えてくださっているのです。

お釈迦様のおっしゃったことについては、来月、もう少し許しく見てみましょう。(以下次号)