根本仏教講義

8.苦集滅道 5

苦集滅道の理解で苦しみが終わる

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月、「苦集滅道」の「道」について、「正見」「正思」「正語」「正命」「正精進」という言葉でいう「道」をお話ししました。正精進については、不満がなくなって生きがいもなくすのではなく、別のがんばり、つまり「良いことをしよう」というがんばりへ向うのだということをお話ししていました。

感情で行う行為は悪い結果に-正業

次に実行しなくてはならないのは「正業」です。正業というのは、日本で一般的に思う業ではなく、行為のことです。生きているということは何か行動することですので、行為は諌めて行わないと人には成長がありません。普通、人間は感情で行為を行います。感情は、知識と智慧の世界ではありません。感情で行う行為は、ほとんど、悪い結果を引き起こします。さらに人の精神的な成長には何の貢献もしません。感情というとわかりにくいですが、ほとんどの感情は、欲か怒りかどちらかだと理解すればよいと思います。よく理解した上で行う行為は、心を育てます。

行為には三種類あります。からだの行為、話す行為、考える行為の三つです。話す行為は正語といい、前にお話ししたとおりです。また、考える行為は瞑想実践しない限り治りませんので、正業という場合はからだの行為のことを指しています。

からだの行為といえば、歩く、座る、仕事するなどですが、どれが正しくて、どれが良くない行為なのかということは理解しにくいのではないかと思います。そこで、お釈迦様は、殺生をやめること、盗まないこと、よこしまな行為をしないこと、と明確におっしゃっています。
ですから、それだけをやめれば、正業になります。しかし、殺生をしないというだけでは、心は育ちません。ポジティブに、一切の生命を慈しみの気持ちで思い、生活することです。我々の行動によって生命が幸福になる、また全ての生命に対して、何の障害も起こさないようなからだの行為は正業です。

盗まないということも、少し考えた方がいいのです。何とかごまかしをして、決められた収入よりも多く収入を得ようとすることは、盗むことになります。いくら収入を増やしてもかまいませんが、それは正しい収入で法に基づいた正しい収入でなけれぼなりません。社会には、盗んでいると実感していなくても間違った方法で収入を得ている人がよく見られると思います。そのような行為は、仏教では、「盗む」という罪に入ります。よこしまな行為をするときも、こころが欲におぼれます。財産が消えて健康を失います。
家庭の平和もなくなって、不幸になります。そして、こころには悩み、苦しみ以外の何も残りません。成長を目指す人なら、やめるべきことです。

正念、正定で成長する

そこで、「道」の話であとに残るのは「自分への気づき」、つまり、瞑想会でも指導してきた「サティの実践」です。
これを「正念」といいます。常に自分の、からだとこころの動きに「気づいて」いること、常に気をつけている。
そうすると、こころも行動もきれいになって、抜群に成長する。

そして最後に「禅定」。こころを常に統一しておくこと。こころが混乱している状態ではなくて、落ち着き、集中し、統一されている。そうすると、穏やかに間違いのない立派な行動ができるのです。これを「正定」といいます。

以上の八つが揃って「八正道」と呼ばれています。これは「中道」ともいうし、「仏道」ともいわれます。これが、「苦集滅道」の「道」なのです。

仏教を実践する人が元気なわけ

説明が長くてむずかしかったかもしれませんね。しかし仏教というのは、それほど単純で簡単なものでもないということもご理解いただきたいと思うのです。結構たくさんやることがあるのです。ですから、この仏教の、釈迦尊の教えを実践する人々は、ものすごく元気で明るいのです。今日は休みだからつまらない、などと思うことはありません。年もとったし、仕事もやめたし、やることはもうない、そういうことは仏教を実践する人にはありません。会社を退社しても、年をとっても、からだが弱くなっても、いくらでもやることがあるのですから。良い人間になろうと努力することや、精神的に統一しようとすることなど、仕事は山ほどあるのです。ですからとても元気いっぱいに行動しなければなりません。だまって、ぼけーっとすることは仏教ではないのです。真に仏教を実践する人は、いつもテキパキと行動する。だけれども同時にこころは落ち着いているのです。

ヴィパッサナー瞑想を始めたら、誰もが経験するひとつのことがありまして、それは「もっとやらなければならない」という自分のなかからのメッセージなのです。ああ、これではだめだ、もっとしっかりやらなくちゃならない、そう思うのです。一時間瞑想して、我が輩は満足であるとか、南無阿弥陀仏と一回唱えたら極楽道へ行けるから安心しなさいとか、そういう話ではないのです。逆なのです。一時間ヴィパッサナー瞑想をしたら、これはもっとしっかりやらなければならないと感じ、もっとがんばるための宿題みたいなものが残って終るものなのです。
ですからいつまでも謙虚で、でも忙しく、明るく生きていられるのです。ある意味で、明るく健康的に、元気にがんばれるような道でもあるといえます。

苦集滅道

長々と話してきましたが、お釈迦さまはこのように「苦」「集」「滅」「道」という四つの真理を発見しました。発見しただけではなく、さらに細分化して理解を深め、実践に至る道筋まで解明されました。

一部繰り返すようになりますが、まず「苦」では、「苦しみとは何か」を明確に理解することです。生老病死の四つに加え、嫌な人とつきあう苦しみ(怨憎会苦)、好きな人と別れる苦しみ(愛別離苦)、望むものが得られない苦しみ(求不得苦)、まとめていえば執着の対象となるからだと心は苦しみである(五取蘊苦)。

私は日本語では「不満」という言葉に近いという話をしました。その苦しみをありのまま理解する、乗り越えるべきだと理解する、乗り越えたと確認するという三段階で理解するのです。

それから、その苦しみの原因、苦しみをどうすべきかということも三段階で理解する。それが「集」ですね。「渇愛」から苦しみが生まれることを知り、それをなくすべきだということを知ります。また、渇愛がなくなったと理解する、それで三段階です。なくすべきなのは「苦しみ」ではなく、「渇愛」つまり「欲望」であり「煩悩」なのだということを覚えておいてください。

欲望をなくし、智慧が現れることを「滅」といいます。欲望が消えると清らかな心が生まれるのだと理解すること、それを体験するべきだと理解すること、体験しましたと確認することが「滅」の三段階です。それは「体験」なんですね。

そして「道」ですが、ここでもまず、何が道なのかを理解する、つまり八正道。そしてその道を実践するべきだと理解し、完成しましたと確認する。それが、「道」の三段階です。

このような順序で、四聖諦と十二階のステップを完全にわかったならば、それはお釈迦さまの「悟り」そのものなのです。むずかしく聞こえるかもしれませんが、お釈迦さまのお教えになった修行方法は非常に簡単でわかりやすいものですから、順番に取り組んでいけば無理なく理解していけます。

喉が渇いた時塩水を飲む危険な生き方

これまでの話で少し補足したい部分があります。「苦しみ」のことです。これまで「不満」ということだけ申し上げてきましたが、そればかりでなく、存在そのものがいつでも不安定な状態にいるということをわかっておいていただきたいのです。何一つとして完全ではないのです。人間も宇宙も物質も、完成したものはないのです。完成したら、そこで変化はなくなってしまいます。そこで停止するのです。たとえば玉をひとつもって、空の上の方で放したら不安定なんですね。落ちて、地面まで落ち、転がって、それで最後に安定する。安定したら、その玉はそこで止まりますね。ですから、ものが動くということは不安定だということなのです。
そしてものは動くだけではなく、変化もしているのです。原子一個を見ても、そのなかでエネルギーはずーっと変化しっぱなしなんです。原子一個の中に、新しいエネルギーが入り、入ったエネルギーは出ていき、いつでもエネルギーの交換をしているのです。

私達のからだもそうですね。毎日、エネルギーを取り入れ、入ってきたエネルギーを出し、出したり入れたり、いつも不安定な状態にいるわけです。

そういうことで「無常」という概念が出てきます。太陽は、地球よりもかなり「年上」なんですが、地球が破滅しても太陽はまだ残ることでしょう。では太陽は安定しているのかというとまったくそうではありませんね。地球についても、なぜ地球が自転しているかというと、不安定だからでしょう。なぜ公転しているかといえば、これも不安定だからなのです。不安定だからバランスを取るために動く、こういったシステムはすべてのものに共通です。我々には瞬間でも安定した状態は作れません。ですからこころも常に不安定で不満なのです。それもひとつのドゥッカ(苦)の解釈なのです。ここにはいわゆるこころの苦しみと、宇宙的な立場の苦しみの二種類があります。

お釈迦さまは、すべては苦しいのだという風な、何か暗い話をされたのではなくて、存在は不安定な状態にあるということをおっしゃっているのです。それは真実なのです。

子供は、安定してしまったら大きくなりません。不安定だからごはんを食べて、いろいろな食べ物を食べて、どんどんどんどん大きくなっていくのです。大きくなって、大人になると、いずれ年をとって死んでしまいます。それは誰にもとめられません。できるのはこころをきれいにすることだけです。

むずかしい感じばかり受けるかもしれませんが、普通の生き方は苦しみの道、それに対して仏道は幸福の道と呼ぶこともあります。

普通の生き方というのは、ものすごく喉が渇いたときに塩水を飲むような生き方だといいます。喉が渇いて塩水を飲むと、飲めば飲むほどさらに喉が渇くのです。さらにつらくなる。けれど喉が渇いて水は飲みたいわけですから、すぐ飲んでしまう。でものどの乾いたときに塩水を飲んでしまったら大変危ない。仏道というのはそのような刹那的な解決法ではなく、本当に幸福になるための道なのです。何かにすがるのでもなく、自分の力で着々と努力を続ければよいのです。(「苦集滅道」の項は今回で終わりです)