折々の法話

地球に平和を(上)

 

K. スリダンマーナンダ長老 訳:出村佳子

◆ LET PEACE PREVAIL ON EARTH

「敵の攻撃に対抗する唯一の方法は、よりいっそうの攻撃を仕掛けることである」という考え方は、大国間の軍備拡大競争へと結びつきました。そして武器を増大させたこの競争は、人類が全滅する寸前にまで至らせました。もし我々がこの軍拡競争をやめなければ、次に戦争が起こったとき、この地球は、勝利者も犠牲者も存在しない、死骸だけの世界となって滅亡することでしょう。

  憎しみは、憎しみによって終わらない
  慈しみだけが、憎しみを終わらせる

 これは敵意や悪意を主張する者、互いに戦争や反乱を起こす者たちに対して、お釈迦さまが説かれたものです。「敵に対して善で報いよ」という教えを実行するのは不可能だと大勢の人々が言いますが、実際のところ、これこそがあらゆる問題を解決する唯一の正しい方法なのです。これは釈尊が自らの実体験を通して提唱された方法です。我々は傲慢で利己的なので、他人が自分を臆病者とみるのではないかと考え、悪に対して善で報いることをいやがるのです。思いやり、正直さ、忍耐強さ、穏やかさを表すことが弱者のしるしであると考える人々もいます。しかし、危険な利己主義を放棄し、この知識的な方法を実践することによって、我々がさまざまな問題を解決し、平和と幸福を享受できるというならば、敵に対して善で報いることが弱者や臆病者のしるしであるはずはないでしょう。

◎ 寛容な心
 我々は寛容な心を育てなければなりません。そうすれば世界に平和が訪れるでしょう。暴力や強制はただ偏狭な心をつくるだけです。人類が平和と調和を確立するために我々一人ひとりが最初にすべきことは、一切の悪の根元である憎悪、貪欲、無知を滅する方法を実践することです。もし人類が貪瞋痴の有害なエネルギーを根絶することができれば、この不安な世界に平和と幸福が訪れるでしょう。
 広大な慈悲心をもつお釈迦さまの弟子たちは、今日、特別な義務を持っています。それは世界に平和を築くように努めること、そしてお釈迦さまの教えを実行することによって他の人々に模範を示すということです。

  すべての者は暴力に脅える
  すべての者は死ぬことを恐れる
  他人を自分の身に置き換えて
  人を殺してはならない
  人に殺させてはならない   
          (Dhammapada 129)

 平和は必ず得られるものです。しかし祈ったり儀式を行ったりすることだけで、平和は得られません。平和は、自分の心を成長させること、また他の生命や我々を取り巻く環境と調和を計ることの結果なのです。暴力によって平和を得ようとしても、その平和は長続きしません。暴力的な平和は、利己的な欲望の衝突と常に変化している世の中の状況が一時休止しているようなものです。
 やさしさや寛容のないこの地球に、平和は存在できません。寛容であるために、我々は偏見を捨て、正しいものの見方を持たなければならないのです。

  自分から生じる渇愛、憎しみ、嫉妬ほど、
  敵は自分を害することができない

 仏教とは、正しい見解を得るための教えです。自己を制御し、自立することを説いています。命令に従うのではなく、真理に基づいた生き方を教えています。仏教はこれまでに、異なる考えをもつ人々を迫害したり虐待したことは一度もありません。お釈迦さまは、どんな人にも、仏教徒というラベルを持っていない人にも聖なる真理を体験できる道を教えられたのです。

 世界は鏡のようなものなのです。ほほえみながら鏡を見てください。そうすれば美しい笑顔が見えるでしょう。逆に不機嫌な表情で鏡を見れば、決まって醜い顔が映ります。同様に、思いやりをもって世界に接するなら、世界も確実にあなたを親切に扱うのです。
 平穏な気持ちでいることを学んでください。そうすれば世界もあなたにやさしく接してくれるでしょう。

 人間の心は、自己欺瞞や自己中心的な考えでいっぱいです。そのため我々は、自分の欠点を認めたくないのです。そして「自分には欠点がない」という錯覚をつくりだすために、自分の過ちを正当化する、へたな言い訳を探すのです。でも、もし本当に苦しみから解放されたいなら、潔く自分の欠点を認める勇気が必要です。お釈迦さまはこうおっしゃいました。

 他人の過ちは見やすい
 自分の過ちは、実に見がたい
          (Dhammapada 252)

 人類の歴史は、貪欲、憎悪、高慢、嫉妬、妄想、わがままなどが絶え間なく表面化してきた混乱の現れです。過去3,000年間に人類は15,000もの大きな戦争を起こしたと言われています。戦うことは人類の特性なのでしょうか?
 何のために戦うのでしょうか?

 我々は、なぜ同じ仲間である人間を殺すのでしょうか? 人類は、次から次へとすばらしい道具を発見し、発明してきました。しかし同時に、新しく発見したものを悪用したため、人類の種が滅亡する方向へ進んでしまったのです。この地球から、人間の尊厳や心の豊かさがすっかり失われてしまいました。

 今日では、数秒で全人類を灰に変えることができるほど、現代人は、高度な戦争技術を身につけたのです。そして「軍事拡大競争」というちっぽけなゲームの結果、世界は軍事兵器の倉庫になってしまいました。1945年8月、日本の広島に落とされた原子爆弾よりも、水素爆弾の方がさらに強大な破壊力をもつと言われています。科学者たちは、数百個の水素爆弾を使用すれば世界が全滅する、という恐ろしいことを考えているのです。人間が人間をどう扱っているかをよく見てください! 科学の発展が何をもたらしたかを考えてください! 人間はいかに残酷で利己的になったかを理解してください!
 我々は、本能である攻撃性に従うべきではありません。そうではなく、幸せになるために、賢者が教える聖なる真理を支持して、道徳的な行為をとるべきです。

 世界の至るところで、大勢のリーダーたちが「世界の平和を維持し、促進する方法を見いだした」と言明しています。そして数多くの平和条約や協定が取り決められました。しかしそのような努力にもかかわらず、いまだに人々の脅威を取り除くことはできていないのです。なぜでしょうか?

 理由は、我々が若者たちの教育を怠ったからです。自我を捨てて他者の役に立つ行為がいかに重要であるかをよく理解すること、また、わがままな行為は不幸をもたらすということを教えていないのです。真の平和を保証するためには、慈しみや思いやりを実践し、互いに協調することを、あらゆる有効な手法を用いて若者たちに教えなければならないのです。
(続く)

◎ 仏教徒のアプローチ New!!
 仏教徒は、たとえ仏教を守るためであっても、他者を攻撃してはなりません。どんな暴力行為も避けるように最善を尽くさなければならないのです。ときにはお釈迦さまが教えた慈悲の概念を尊重しない人から、「戦争に行け」と強要されたり、「敵の攻撃から自国を守れ」と命じられたりするかもしれません。世俗の生活をやめないかぎりは、戦争への参加を義務づけられることもあるのです。こうした状況のもとで、軍隊や自衛隊に加わる人のことを責めても仕方ありませんが、仮にすべての人々がお釈迦さまの教えを実践するならば、この世界に戦争は起こらないでしょう。人間が人間を殺戮するような戦争を布告せずに、平和的に論争を解決する道を見いだすことは、教養ある人の責任です。
お釈迦さまは「どんな悪い心にも負けてはならない」と弟子たちに教えられました。

 知性と科学の力で、人間は人間の都合のいいように自然をつくり変えてきました。しかしいまだに安心して暮らせないのです。なぜでしょうか?
 それは知識を重視し科学に支配されているあいだ、我々は心(堕落し、腐敗し、利己的な欲望で汚れた心)を放っておいたからです。

 一人ひとりが安心して暮らせないのに、どうして世界全体に平和が起こりうるでしょうか。平和があるためには、事実を直視できるように客観的で謙虚な心を育てなければなりません。ある人が、ある国が、常に間違っている(あるいは常に正しい)とはかぎらないということを理解してください。それから、この地球の豊かさを分かち合うことも大切です。そしてどんな場合でも、他の生命の生きる権利を奪ってはなりません。 世界の人口のたった5%が地球の資源の50%を享楽していること、世界人口の25%が栄養を十分に、あるいは過剰に摂取している一方で、75%がいつも飢餓状態であるということは、理解しがたいことです。豊かな国が貧しい国を助け、強い国が弱い国を助ける…… このように、国と国とが快く助け合うときにのみ平和が訪れ、国際親善が成立するのです。そしてそのとき初めて、戦争のない平和な世界を心に描くことができるでしょう。

 軍拡競争という愚行を止めなければなりません! それぞれの政府は、多くの命と金銭を、戦争で浪費する方向から、国民の生活水準が向上する方向に使うよう転換すべきです。 人と国家が利己的な欲望を放棄し、民族的なプライドを捨て、財産と権力を追い求める愚かな行為を完全に捨て去るまで、この世界に平和はありえません。お金は幸福をもたらしません。法(Dhamma)だけが、心に有益な変化を与えてくれます。そして本当の意味での武力解除、……心の中での戦争が終わるのです。 どんな宗教も「殺生してはならない」と教えています。しかし不幸にして、この重要な教えは無視されているようです。今では最新兵器を使用すれば、一秒以内で何百万もの人間を殺戮することが可能になりました。 さらに不幸なことには、宗教の名前を盾にして、スローガンや旗を掲げて、戦争に挑む人々がいることです。彼らはその行為が自分の宗教の名前を汚していることに気がついていないのです。

お釈迦さまが説かれました。

  「比丘たちよ、感覚的な欲望のために、国王は国王と戦い、王子は王子と、聖職者は聖職者と、国民は国民と戦う。
  母親は息子と言い争い、息子は父親と、兄は弟と、弟は姉妹と、姉妹は兄と、友人は友人と言い争う」( Majjhima Nikqya )

 幸いにも、およそ3000年間、仏教徒が仏教の名前において、戦争につながるような大きな争いや対立を起こしたことは一度もありません。これはお釈迦さまが教えた「寛容の概念」のダイナミックな特徴の結果でしょう。

 現代の人々は、より大きな名声や財産、権力を手に入れることに夢中になり、休みなく走りまわっています。嫉妬に心を占有され疲れきっています。五感を満たすものをしきりに追い求め、そのために恐怖や疑い、不安の中で日々を過ごしているのです。
 混乱と危機にさらされているこの時代にあって、人間同志が平和に共存することが難しくなっているようです。だからこそ、世界にはこれまで以上に大きな「寛容の精神」が必要とされているのです。寛容な態度をもって人が人と接すれば、平和共存の社会が実現されることでしょう。
 世界中が原理主義や頑固という病を患い、ひどく心を痛め苦しんでいます。地球上の多くの大地には無意味に流された血が染み込んでいます。これは、宗教でも政治でも自分の仲間たちには愛をもたらしているのですが、それ以外の人々に対しては攻撃的になっているからなのです。

 高く評価された「進歩」の世紀
道具と発明の世紀とも呼ばれる20世紀をふり返ってみますと、携帯電話、ファクシミリ、電話、テレビ、コンピューター、インターネット、宇宙船、人工衛星、電気器具など、ずらりと並んだ最新科学技術の道具には目がくらむほどです。しかし、こうしたあらゆる機械を開発して究極的な進歩を成し遂げた一方では、何百万もの人間が、銃剣、弾丸、ガス、爆弾によって虐殺されてしまったのです。「偉大な進歩」といわれる世紀の中で、寛容の精神はどこにいったのでしょうか? 今日、人類はもはやこの地球上で互いに仲好く調和して暮らしていくことができないと考えて、宇宙を調査することに関心をもちはじめました。人類はやがて別の惑星も奪ってしまうのでしょうか。
 現代人は物質的な充足を求めて自然を破壊してきました。快楽にあまりにも心を奪われているので、生きる目的を見失っています。この現代人の破壊的な行為は、「人間としての生き方」や「人間が目指すべき究極的な目的」についての誤った考え方から生じています。この誤った考え方が、欲求不満、恐怖、不安、不寛容を生み出しているのです。

 実際、世の中にある宗教は、今の時代になっても寛容の精神に欠けています。教えを説くときも主に「天国に行くための近道を提供する」ことを約束するだけのようです。でももし本当に、イスラム教徒が「兄弟愛」の教えに従い、キリスト教徒が「山上の垂訓」に基づいて生活し、ヒンドゥー教徒が「梵我一如」の思想で生き方を形づくり、仏教徒が「聖なる八正道」を実践するならば、この世界には確実に平和と調和が訪れることでしょう。偉大な賢者たちの貴重な教えをないがしろにして宗教を信ずる者たちは、今でも調和を計ることや寛大な心を示すことの価値に気づいていないのです。宗教と宗教とが互いに争っている様子は、あまりにも恥ずかしく、惨めなことです。
 お釈迦さまは説かれました。

  怨みをいだいている人々を怨まずに
  われわれは幸福に生きよう
  怨みをもっている人々の中で
  われわれは怨みなく生きてゆこう
  悩みをかかえている人々の中で
  われわれは悩みなく幸福に生きてゆこう
  貪っている人々の中で
  われわれは貪りなく幸福に生きてゆこう
            (Dhammapada 197-199)

◎ 平和への責任
 現代ほど、平和が遠くかけ離れ、この世の中で最も得がたいものとなった時代は、過去の歴史の中であったでしょうか。過去においても、戦争や衝突は起こり、恐ろしい専制君主や暴虐的な政府もありました。が、それらは決して、地球全体に破滅を及ぼすような勢力ではなかったはずです。
 こうした問題に対して、仏教徒としての私たちも、この惑星を破壊へと脅かす狂気を阻止するために力を尽くしている正しい見解をもつ人々を支持していかなければなりません。正しい見解をもつ人々を支持することは、私たちにとっての大きな責任なのです。

 欲したものを手に入れて満足したということが、人類の歴史の中にあったでしょうか?
 渇愛や心配といった際限のない渇きを満たすことは可能なのでしょうか? 眼耳鼻舌身意を楽しませれば楽しませるほど、渇愛が増幅するのではありませんか? お釈迦さまが正しく評価された「充実感」を心に育むことができれば、私たちはどれほどの幸福を得られることでしょう。
 今日、何百万もの罪のない人々が、難民として母国から逃れなければならない状況におかれています。戦争がもたらした悲しみや苦しみは、どんな言葉を用いても表わすことのできるものではありません。アルバート・アインシュタインは、戦争のことを、「未開時代からの非人間的で野蛮な遺物」と言っていますが、この表現に誤りはないでしょう。
 人間は創造することより破壊することに強烈な喜びを感じる生きものではないか、と私は思うのです。人間には生まれながらにして『戦う』習性が備わっているのでしょうか? いいえ、そうではなく、平和はとても退屈であり、戦争は刺激的なものだと感じる結果であるようです。

 戦場で百万人の敵に勝つよりも、
 ただ一人の自己に克つ者、
 彼こそ、実に最上の勝利者である
             (Dhammapada 103)

 殺生や盗み、脅迫をすることは簡単です。が、自分の心から生まれた怒りや嫉妬を制御するには、強大な精神力を要するのです。慈しみや哀れみの心を持つ人は、弱者ではありません。強者なのです。報復をしない人こそが、真の勝利者なのです。

 確かに、自己に打ち克つことは、
 他人に勝つことよりも、すぐれている
 神も、悪魔も、梵天にも、
 自己を制御し、常に行いを慎んでいる人の勝利を
 打ち負かすことはできない
            (Dhammapada 104-105)

お釈迦さまが生きていた時代の前後の時代にも、様々な宗教指導者たちが現れ、彼らも「攻撃してはならない」と繰りかえし説いていました。しかし、唯一お釈迦さまだけが、ほんのわずかな攻撃も、仕返しすらすべきではない、と率直に述べられたのでした。仏教徒であるなら、いかなる形であれ、攻撃することに弁解する余地はありません。お釈迦さまは、「攻撃するのではなく、証拠に基づいて事実を説くべきです」と言われました。

 民族意識、宗教差別、伝統、慣習、言語や文化の違い、政治の対立、優越感、劣等感、資本主義、貧困 ‥‥ これらは、人類に暴力や殺戮などの不幸をもたらした主な原因です。自己中心的な見解は、不幸を増幅させるだけなのです。
 そこで人間としての私たちが為すべき仕事は、「平和は、他人を征服することではなく自分の利己心に打ち克つことでのみ実現する」ということを、人々に知らせることではないでしょうか。

 仏教の目的は、人々を仏教へ改宗させることではありません。怨みを持たず、戦争に反対を唱えることを恐れない、高貴な人間を育てることなのです。
 今日の世界が直面している危険な事態をよく理解して、世界中の仏教徒たち、否、宗教や宗派に関わらず、一人一人の人間が自分にできる範囲で、恐れや心配のない平和な世界を維持するために貢献することを、仏教は願っています。 (完)