あなたとの対話(Q&A)

坐禅瞑想時の目は開くのですか

日本の坐禅では目は必ず開くとありますが、閉じるのとどちらが正しいのでしょうか? 仏陀はどのように教えられているのでしょうか? それはどの経典にあるのでしょうか。 教えてください。

問題は「必ず」、「絶対」等の言葉にあります。
文書上では使っても構わないものですが問題は人間がほとんど「必ず」主義であることですね。「絶対」論者で何でも断言して考えていますね。
「事実は何ですか、真理は何ですか」とオープンなこころで探求することが大事だとこちらの勝手で思っています。
「必ず」目を開けなさいと初期経典には書かれてないのです。「必ず」目を閉じなさいとも書かれてないのです。
集中できるならば、こころの汚れをなくすならば、真理に出会うならば、悪から離れることが出来るならば、解脱へ上達できるなら「目を開けておく」どころか逆立ちして実践しても良いのではないかと思います。

ブッダの教えは具体的で合理的です。こころの汚れ、解脱できない理由などは明確に定義してあります。煩悩をなくし解脱、平安を体験できる道もブッダ自身が自分で証明して解かれたのです。それからその道を歩んだ多くの方々も同じ結果を体験して「道は効果的である」と証明になっているのです。
解脱を希望して「新たな欲」を作らないことが禅も初期仏教も同じです。初期仏教の場合は実践の過程でこころが悪の状態、汚れの状態から善の状態へ、清浄な状態へ進んでいるかは気にします。チェックもします。もしかするとこのポイントは禅と違うかもしれません。

その道は何ですか? 八正道です。
残念なことに八正道には目の開け方、閉じ方もありません。「坐禅くみなさい」ともないのです。
静かに坐って「目を閉じて」(開けても構いませんが、閉じた方が楽です。)意思的な思考を止めて受動的に流れていくこころの回転を客観的に観察ことは「ブッダの実践プログラム」の一部です。

外人の日本語だから乱筆あるかもしれません。お詫びを申し上げます。
スマナサーラ
三宝のご加護がありますように。

早速のご教示ありがとうございます.
日本の禅のしかもほんの一部しか知らないのです.
曹洞宗禅の道元の坐禅儀の中で「目は須らく常に開くべし」とありその他の人も目は閉じるなときびしく教えてあるのでそのようにしていました.
仏陀は禅秘要法経の中でチューラパンタカに「……一心に端座して叉手閉目 し……」と、またゼンナンダと阿難にも「……まさにまず端座して叉手閉目し……」とあったのでお伺いしました。

各大乗経典また、大乗仏典にある内容については私に何も言えません。私は初期仏教を語る者ですから、自分の能力、知識、経験以外のものについて推測で語ることは正しくないのです。
Cūḷapanthakaなどの名前がPāli仏典にもありますが、禅のバーションが元のPāli versionと違っています。その違いはどのように解決するべきかはいまだに各研究者の好みによるものになっています。
そのやりかたは決して正しくないと思っていますが学問的な答えがないのでどうにもならないのです。
宗派の人は自分の宗派の教えに基づいて解釈します。
初期仏教の私は初期経典が正しいと思っています。後の仏典を参考に使いますが初期経典の教えの入れ替わりには使用しません。後の仏典は私にとって単なるsecondary evidenceのみです。
First Authorityではないのです。これが私の立場です。

メールの中で[意思的な思考を止めて受動的に流れていく心の回転を客観的に観察する」とありますがこの途中の心の状態はどのような展開になるのでしようか? 教えて戴ければ有難いです。

これは私に聞くよりご自分で試して見たほうが良いのではないでしょうか。
基本中の基本的なやり方はテーラワーダ協会の事務所に問い合わせすれば送って上げると思います。
長所も短所もご自分で理解できると思います。
宗教家の嫌な、決まっている答えではないかと思われるかもしれませんが。

同じ講義を二度と繰り返さないで二十年間も日本で「客観的に観察する」方法を語ってきましたが、語りきれないのです。日本語で一行にまとめたからと言って思考で簡単に理解できるとは限りません。

思考というのは真理ではなくその人、その人の好みに基づいて頭が回転することです。
いくら立派に見えても、感じても思考は循環です。前進ではありません。
Vipassanā実践は思考の循環機能を前進機能にします。前進した人には智慧はありますが思考、推測、妄想などはないのです。正しくいえば想にとらわれないのです。
テーラワーダ協会出版の小冊子をお読みになれば何か研究材料になるでしょうと思います。
ありがとうございます。
三宝のご加護がありますように。

スマナサーラ