ジャータカ物語

No.89(2007年5月号)

アッサカ王物語

Assaka jātaka(No.207) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

ある比丘が、在家の時に妻であった女性を恋しく思い出し、出家生活が嫌になってきました。

それを聞いたお釈迦さまは、「比丘よ、君が在家の時の妻を思って出家生活が嫌になっているというのは本当なのか?」とおたずねになりました。その比丘が「尊師、本当でございます」とお答えすると、「君がかつての妻に恋いこがれて苦しんだことは過去にもあったのだよ」と言われ、彼に請われるままに過去のことを話されました。

昔々、カーシー国のポータリカという街において、アッサカという名の王が国を治めていました。アッサカ王には、ウッパリーという、輝くように美しく魅惑的な妃(きさき)がいました。彼女の美しさは神々しいほどで、天界の天女には及ばないにしても、この世の人間の美しさは、はるかに超えていたのです。王は美しいウッパリー妃(ひ)を第一王妃とし、心から愛していました。

ところがある時、そのウッパリー妃が、まだ若くして死んでしまいました。寵愛(ちょうあい)する王妃を亡くしたアッサカ王の落胆ぶりは、並大抵のものではありませんでした。王は、ウッパリー妃の棺(ひつぎ)の中に、つぶして油を取り去ったゴマを詰めさせ、棺を自分の部屋の寝台の近くに置いたまま、食事もとろうとせずに、ひどく嘆き悲しんで寝台に臥(ふ)せっていました。

王の両親も、親族も、友人も、家臣も、バラモンも、在家の者も、「大王よ、どうかそのように嘆き悲しまれますな。諸行は無常でございます」と口々に言いましたが、誰も王を納得させることはできませんでした。そのように王が嘆き悲しんでいるうちに、七日間が過ぎました。

その頃、菩薩(ぼさつ)は出家して、五種類の神通や八つの禅定をすべて修得した仙人となって、ヒマラヤに住んでいました。菩薩はその神通力によって天眼で世間を見渡して、アッサカ王が愛する王妃を亡くし、悲嘆に暮れて臥せっていることを知りました。菩薩は王を救うために山を下ることを決め、神通力で空中に昇り、街の中の御苑に降り立ちました。菩薩は、御苑にある吉祥石の上に、黄金の象のように坐りました。

ちょうどその時、その御苑には、ポータリカに住む一人の若いバラモンが来ていました。彼は菩薩を見かけると、菩薩に礼拝して傍らに坐りました。菩薩は彼に好意を示し、

「若者よ、こちらの王様は公正にふるまわれていますか?」とたずねました。

「はい、尊者よ。私たちの王様は行いの正しい方です。しかし、第一王妃が亡くなられてからというもの、王様は、ひどく嘆き悲しまれて臥せっておられます。食事も召し上がらずに、お后様(おきさきさま)の遺体が入った棺の傍で、七日間もの間、ずっと嘆いておられるのです。尊者、あなたのような徳の高い方がこちらにおられますのに、王様があのように苦しんでおられるのは、ふさわしいことではありません。なぜ、すぐに王様のところに行って、王様の苦しみを取り除いてあげようとなさらないのでしょうか」。

「若者よ、私は王様と面識がない。私の方から訪ねることはできません。もし王様の方からこちらに来られて、私におたずねになるならば、私は、亡くなられたお后様はどちらに生まれ変わっておられるのかということをお話しすることもできるし、王様が、生まれ変わられたお后様と話しができるようにしてあげることもできるのですが」。

「尊者、私がすぐに王様のところに行って、王様をこちらにご案内いたします。どうかそれまで、このままこちらにおられますように」。

バラモンの若者はお城に行って、王に面会することを得、菩薩との会話を告げました。そして、「あの天眼を備えた仙人のところにおいでになられるのがよろしいと存じます」と、菩薩と会うことを王に奨めました。王は、ウッパリー妃と再び会って話すことができると聞いてたいそう喜び、すぐに車で御苑に乗りつけました。御苑に着いて車から降りた王は、菩薩に近づき、菩薩に礼をして、傍らに坐りました。王は菩薩にたずねました。

「尊者よ、貴殿は妃の生まれ変わったところを知っていると聞いた。それは本当ですか?」

「はい、大王よ、そのとおりです」

「尊者よ、妃はどちらに生まれ変わったのでしょうか?」

「大王よ、お后様は、その美しさを誇って怠惰になり、善業を積むことを怠られました。そのために、この御苑にいる、牛糞を食べ、皆からフンコロガシと呼ばれている甲虫類に生まれ変わられました」

「まさか、そんなことはあるはずがない。余はそんなことは信じぬ」

「では、お后様とお話しをなさいますか?」

「ぜひ、そうしてもらいたい」

菩薩は神通力で、ウッパリー妃の生まれ変わりであるフンコロガシと、今はその夫となっているフンコロガシの、二匹の虫を呼びました。二匹のフンコロガシは、仲良く牛糞の塊を転がしながら、やって来ました。菩薩はウッパリー妃の生まれ変わりのフンコロガシを指して、

「大王様、こちらがお后様です。今はこちらの虫と夫婦になっておられます」と言いました。

「尊者よ、余はウッパリーが、この牛糞を食う汚いフンコロガシとして生まれ変わったなどということは、断じて信じぬぞ」

「では、話をしてご覧になりますか?」

「尊者よ、どうぞそのようにしてもらいたい」

菩薩は神通力でフンコロガシが会話ができるようにして、「ウッパリー妃よ」と呼びかけました。彼女は「尊者よ、何でございましょう」と、人間の言葉で答えました。

「あなたは前生で誰だったのですか?」

「尊者よ、私はウッパリーという名前で、アッサカ王の第一妃でございました」

「今、あなたには新しい夫がいるようだが、あなたは、アッサカ王と牛糞を食うフンコロガシである現在の夫と、どちらを愛しているのでしょうか?」

「尊者よ、前生では、私は、この御苑で、アッサカ王様と共に、さまざまな五つの感覚(色形・音声・香り・味・触覚)を楽しみました。しかし今の私にとりましては、そんなことはすべて過去のことでございます。もう何の関係もありません。今の私は、アッサカ王を殺して、その首から出る血を、私の夫であるフンコロガシの足に塗ってあげたいと思うほどでございます」

そして彼女は、次の詩を唱えました。

ここはかつて、アッサカ王と二人
われら仲良く遊びしところ
互いに愛し、愛されて
王が愛しきわが夫であったころ

新しき苦、新しき業を受けた今
それらすでに過ぎ去りし
されば、アッサカ王よりも
夫のフンコロガシこそ、愛し

それを聞いたアッサカ王は、ひどくがっかりして、その場に立ちつくしました。王はすぐにウッパリー妃の棺を寝室から取り去るように命じ、菩薩に挨拶してから、気を取り直して、街へ出かけて行きました。

菩薩は、そのように王の悲哀を取り除いてあげて後、再び自分の住むヒマラヤに戻りました。その後、王は、他の婦人を第一妃として迎え、それからも正しく国を治めました。

お釈迦さまは、過去の話を終えられると、四つの真理(四聖諦)について、説かれました。その法話を聞いて、かつての妻に未練を感じて悩んでいた比丘は、預流果の悟りを得ました。お釈迦さまは、「その時のアッサカ王はこの比丘であり、ウッパリー妃は比丘のかつての妻であり、御苑にいた若者はサーリプッタであり、ヒマラヤの行者は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

愛欲は厚い目隠しです。それをかけたら、何も見えないのです。愛欲に病んでいる人が何をするのかは自分でもわからないのです。愛欲はガン細胞のようなものです。ガンは、自分の身体から発生して自分の身体を破壊しつつ、無制限に成長します。人が愛欲で病んでいる場合も、その人の理性を破壊しつつ、狂心状態になるところまで進むのです。愛欲は寄生樹の種のようなものです。宿り木に付いたらなかなか落ちません。宿り木から栄養を摂って無制限に成長し、宿り木を破壊するのです。

お釈迦さまが、愛欲は松明(たいまつ)を持って向かい風に向かって歩くようなものだと説かれるのです。向かい風に逆らって松明を持つと、周りを明るくしてくれるどころか、持った本人をやけどさせるのです。また、肉片にもたとえてあります。一羽の鳥が肉片を見つけて大変喜んで空へ飛び上がる。お腹がすいている仲間の鳥たちは、それを見てその鳥を攻撃するのです。もし肉片を持っている鳥がそれを捨てないなら、死ぬはめになるのです。また、愛欲は夢で食べたごちそうにもたとえられています。

ということで、愛欲はかなりたちの悪い感情なのです。怒りの感情とは違います。怒りは狭心症のようなもので、たちまち激痛を感じさせる。ですから治療して治せるのです。しかし愛欲はガン細胞のようなもので、最初は何の苦しみも感じない。「私は元気だ」と自慢げにわがまま放題で生きているのです。栄養たっぷりの食べ物を食べたり娯楽にふけったりして生活すればするほど、身体より速くガンが成長するのです。やがて調子が悪いと本人も気づきます。しかし、その時は、ガンは治療不可能の状態になっているのです。

仏教を学ぶ人々も、「この怒りはなんとかならないのか」とよく訊きます。やはり、怒りから生まれる苦しみも、失敗も、身を以て経験しているのです。しかし、誰一人も、一度も「この欲はなんとかならないのか」と訊いたことはないのです。欲は生きる上で必要不可欠なものだと思っているようです。しかし、私たちの主観と事実は合わないのです。愛欲は、怒りよりたちの悪い感情なのです。

出家した比丘たちに、愛欲を戒めるようにと説かれた経典の数は多いのです。それに比べると、怒りを戒めるように説かれた経典は少ないのです。出家は怒ってもいいという訳ではありません。怒りが悪いと簡単に理解できるので、自分で戒められるのです。愛欲は悪いと感じないのです。愛欲は快楽の泉だと思ってしまうのです。

怒りも欲も感情なので、いったん感染したら理性が失われます。しかし本人は、自分の感情に支配され、理性が失われたことに気づかないのです。その代わり、あらゆる工夫をして自分の気持ちを正当化するのです。この場合も、怒りよりは愛欲が勝つのです。たとえば、怒った人が「憎むのは当たり前だ、恨むのは当たり前だ、仕返しするのは当たり前だ、暴力をふるっても構わないのだ、相手を殺しても悪くないのだ」などなど自分を正当化するための屁理屈を羅列しても、早いうちに自分でも気持ち悪くなるのです。ばかばかしくなるのです。みっともないとわかるのです。それで、怒りの炎は減って、消えていくのです。

欲の場合は違います。「あの人は美しいのだ、優しいのだ、笑うととても可愛いのだ、活発的だ、皆に愛されているのだ、とてもセクシーだ、一緒にいた時はとても楽しかったのだ」などなど考えて愛欲がどんどん膨張していっても、決して惨めに思わないのです。みっともないと思わないのです。自分は純愛をしている立派なものだと、勘違いまでしているのです。だから、人を破壊する過程においては、怒りの感情よりは愛欲の感情が勝つのです。愛欲症に罹った人には理屈は通らない。「やめなさい」と言っても、「何を言っているのだ」と拒むのです。ですから、正しいのは、この物語で語られているようなショック・トリートメント(療法)なのです。