あなたとの対話(Q&A)

寿命について

岩波文庫「ブッダ最後の旅・大パリニッバーナ経」中村元訳を読むと、マーラが釈尊に入滅を勧める前後、アーナンダとの会話のなかで釈尊が「如来は…もし望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれよりも長い間でも留まることができるであろう」と繰り返しおっしゃっています。
この「寿命よりも長い間」というのは、いったいどういうニュアンスなのでしょうか。一方で、「壊れないものはない」とおっしゃっていることからすると、ちょっと違和感を感じるのですが。

これは仏教徒にとっては何の違和感もない文章です。
仏教徒の時間の観念は現代人の思考とは、はなはだしく違います。宇宙の破壊、現れること、膨張、収縮、などについての時間を、遠い昔から日常茶飯事のことのように、たとえに使っていたのです。(本当に分かっていたか、ないかは私にもわかりませんが。)昔の人は宇宙論を語っていたのではなく、はかり知りえない輪廻の長さへの脅威感を引き起こさせるために、例として扱っていたのです。一つの太陽系が現れて、消えてしまう時間を、1kappaという単位で考えていたのです。それを人間の年代に入れ替えると、1kappaは10万数の阿僧祇年になるみたいです。阿僧祇とは、10の140乗だそうです。このようなもので、仏教徒にとっての時間の感覚は現代人とはかけ離れたものだと理解して頂きたいのです。

★人の寿命について
経典の情報によると、人間の寿命は定まってないみたいです。7年で衰えて死ぬ時代もあるし、一阿僧祇年も長生きできる時代もあります。寿命が左右される原因は、こころの怒りと欲の働きです。これらが機能すると寿命が短くなって、これらが機能しないで睡眠状態になると寿命が延びるのです。しかし、これは10年、100年で起こる出来事ではありません。欲と怒りの少ない世代交代が続いていくと、そのたびに寿命が延びていくのです。

現代の日本のDNA研究者たちが、細胞を老化するDNAがあるのだ。それを管理することで千年でも長生きできるのだ、と言っているのではないでしょうか。仏教徒も単なる夢想家ではなかったのでは、と、今私も感心しているところです。こころがDNAに与える影響は、あと千年くらい経ったところで、科学者の研究課題になるかもしれません。

★こころと身体の管理
身体はこころで管理しているのだ、それは仏教の一般常識ですね。
こころを完全に育てた人に、身体であろうが、物質であろうが、自由に管理できる能力がつくということは、仏教徒にとってはあたりまえの論理です。経典に出てくる神通などの話は、神の恵みでも、超能力でもない。こころを育てたことで得られる、あたりまえの論理的な結果です。
しかし、神通を使わないし、その訓練もしないのです。物質を操りたくなるのは、欲と怒りでこころを汚している無知な人々の気持ちです。瞑想はこころの欲と怒りをカットするのです。

ブッダは、こころを完全に育てたのです。修行の結果として、普通の悟った人々よりも桁外れの能力も持っていたのです。ですから、長生きしようが、早く亡くなろうが、自由自在で、自分勝手で決められるものなのです。ブッダ個人の立場から見れば、悟ったその日にこの世を去って涅槃に入った方が、生きる苦労は省けます。しかし他人にもその幸福の道を教えるために、苦労を気にせずに、生き続けることに決めたのです。

80歳になったときだけではなく、その前に病気で倒れたときも、ブッダが寿命を終了させるか真剣に考えたのです。しかし、一日でも生き延びることで、たくさんの人々が解脱を体験するのです。
「自分は今でも生を終えたい。しかし、君たちにとって、どうしても生きることが必要だと思うならば、受難してもかまいません。」これが、ブッダの全くも見返りを期待しない大慈悲なのです。

マーラ、アーナンダ、とのやり取りは、ブッダのこころのジレンマも表しているのではないでしょうか、と、私は勝手に思います。
マーラが、早く死んで消えてしまえ、と説得している時、ブッダがアーナンダに、君どう思いますか?と聞くのです。
そのとき、人が勝手に「死ね」と言っても、生きるか死ぬかは自由自在に決められる能力が自分にあることも、弟子アーナンダに言ったのです。弟子アーナンダが何も言わないで、黙っていたのだから…。

万が一アーナンダ尊者が、長生きしてくださるように、とブッダにお願い申し上げたら、ブッダは何年生き続けるのでしょうか。人間の寿命のことも1kappaというのです。その場合は、āyu kappaというのです。アーユカッパを年数に換算するところで、説がいくつかできました。1阿僧祇年にも人間の寿命は延びるのだから、またブッダが、いかなる生命にも達することができないところまでこころの能力を開発したのだから、アーユカッパは1阿僧祇年である、という説。この世でみな死んでいくのにブッダだけ生き延びているのは理に合わない。「一切は無常であり、苦である」と教えられなくなる。ですから、アーユカッパは当時の人間の最大限の寿命である(120年ほど)、という説。

ブッダは80歳で亡くなったので、これらの説はどうでもいいことです。これらの異説ができたのは、アーユカッパというのは何年になるのか、と経典に出てこなかったからです。

>一方で、「壊れないものはない」とおっしゃっていることからすると、ちょっと違和感を感じるのですが。

壊れないものはない。たとえ、寿命が1kappa生きていても、亡くなります。

三宝のご加護がありますように。

★以上は最終決定ではないので、この問題について、いろいろな視点でお考えになる方々は、どうぞご自由に意見交換をなさってください。
Sumanasara

ご教示、有難うございました。残念ながら私にはもうひとつ腑に落ちないのです。これは、恐らくその前後のことが私にはよくわかっていないせいだと思うのですが…。
「如来は寿命のある限り…あるいはそれよりも長く…」という釈尊のお言葉を受けたアーナンダが、後で非難されるかのように描かれていますね。
「修行完成者がこのようにあらわに明示されたけれども、おまえは尊師に『どうか寿命のある限りこの世に留まってください』と願わなかった」「もしお前が3度懇請したなら、修行完成者はそれを承認しただろう。これはお前の罪である」といった具合に。
そうすると、釈尊の問題の言葉は、明らかに入滅をほのめかした言葉だった、というわけなのでしょうか。読む限りではアーナンダが咎められる理由もピンときません。どうもそのあたりからして理解できていないのです。
重ねて恐縮ですが、この辺りを含めてもう一度ご教示願えないでしょうか。

(HP愛読者から)

はじめまして。
HP、いつも楽しく読ませていただいています。特にこの WEB FORUM は、HPを開くとまず最初に開いてみて、何か新しい書き込みがあると「何が書いてあるのかなー」とうれしく、楽しみにしています。

ここに書かれているエピソード、私もとても強く心に残ったお話で、時々考えたりしていたことなので、ちょっと何か書いてみたくなりました。

アーナンダ尊者が、お釈迦さまのおっしゃった言葉の真意に気づかず、後で知って、とても悲しまれたこと、私も「本当につらかっただろうな」と思ってつらくなって、なんだかアーナンダ尊者を身近に感じちゃいました。それで、でもやはりアーナンダ尊者は、その時にはその行動しかとれなかったのだろうな、後から気づいて「しまった」と思っても、やはりその時はどうしても気づくことができなかったのだろうな、などと思ったりしました。

お釈迦さまとアーナンダ尊者の関係は、慈しみと親しみにあふれたすばらしい雰囲気だったと思います。このエピソードのお釈迦さまの言葉も、非難するという感じでは全くなくて、こういうことだったのだよ、と優しく話されたことだと思うんです。

でもやはりとてもショックなお話ですよね。私も時々思い出したりして、「気づかないということはとても怖いことなんだよ」という教えなのかな、などと考えたりしていました。
そして、ブッダは真理を淡々と語られる方なのだから、普通の会話のときでも全く違う次元の言葉を話されたのだろうな、聞いている者にはなかなかその真意がわからずに、すごく大事なことを聞き流してしまうようなことが、どうしても起こってしまうのかもしれないな、と思ったのです。
あのアーナンダ尊者さえそうなのだから、そういうことは他の人々ともよくあったのかもわからないけれども、お釈迦さまは別にがっかりすることもなく、明るい慈しみの心で淡々と流してしまわれるのだろうな、などと空想したりもしました。

昔から物語が好きで、あれこれ空想したりするクセがあるので、つまんないことばかり書いたような気がしますが、思い切って送っちゃいます。
読んでいただいて、どうもありがとうございました。