世界とは?
世界って、自分が感覚器官でもって知覚している全てですか。それとも、自分は世界の一部なのでしょうか。
釈尊が(byāma)ほどの長さのこの身体において世界と世界の生起を示しますと言われたのです。(Pāli原文は覚えていますが上手く訳できません。)
Byāmaと言うのは両手を伸ばしたぐらいの長さです。意味は「世界」も「世界の起源」もこの身体の(中?)ことだとなります。私にとって「世界」は私の身体とその身体で感じるもの(考えるものも入ります。)のみです。それ以上全くも知らないし、知り得ないのです。
世界は全体で自分はその全体の一部と言う意味であるならば、自分は世界の一部とは思えません。私の身体という地水火風と外で見られる地水火風、どちらでも只の地水火風だと言うのはブッダのことばです。どちらの地水火風も、無常、苦、無我であります。
Sumanasara
私は自分の知ることが全てと思います。私たちはあまりに狭い世界しか認識できませんから。
仮に死後の世界があるとして、そこで、自分を認識できるのに、なぜかお腹も減らないし、喉も渇かない。とすると、それだけで世界が変わります。
よく「地獄絵図」と言うものがありますが、なぜか責苦が肉体に与えられるものが多く描かれますが、それは納得出来ませんが。
人間が考える死後の世界も、天界の快楽も、地獄の責苦も決してそれらの世界の実体ではなく人間の頭の中に起る想像の延長です。天国の絵を見ると人間が楽しいでしょう。天人はどう思うでしょうかね。
地獄の絵を見るとき人間が怯えるでしょう。しかし、地獄にいる生命は?(まぁ、関係ないか)。
では、仏典に出てくる天国地獄話は妄想の産物でしょうか。仏典になるとそうではないかと思うが、仏陀と神通能力を持っていた阿羅漢たちは作り話しを言う必要はないと、「仏教徒」として思います。ただ、その方々は認識に入られるデーター範囲を広げているのです。
例えて言えば、人間の目に50mぐらい見えるか、それとも100mか1kmかと言うようなものです。1kmまで見える人の世界は、確かに100m見える人と違います。ですから、ブッダが天国の話をしても「世界はこの身体のことに限る」と言う論理はそのままです。(私の意見ですが)
Sumanasara