智慧と慈悲
悟ると智慧が自然と現れてくるそうですが、慈悲はどうなのでしょうか?
努力しないと現れないのでしょうか、それとも自然とあらわれるのでしょうか?
また戒律についてはどうでしょうか?
悟りを開くと戒律をまもろうとする努力はないのでしょうか?
悟りと智慧:
悟りが智慧だと理解したらいかがでしょうか。ありのままの真理を発見したことによって、こころが煩悩・束縛から解放されたならばそれは解脱だと申せましょう。別に単語なんかに拘らなくてもいいけど。
慈悲は:
自然に現れるものとは思えませんね。本来、皆がわがままでしょう。自我中心的でしょうね。自分のことばかりを気にして生きている。それはそれで構いませんが他人に迷惑をかける、害を与える、が、それはそれで良いと思っている。結果がヤバイと思う人は他人に迷惑をかけないでしょうが、それも自分の事をかわいがった上の行為です。
慈悲は新たに育てるものなのです。エゴイスト的な感情を慈悲で置き換えるのです。
戒律:
煩悩・こころの汚れを制御するための行為で、生きる上での規則なのです。俗世間的な立場で言うなら、道徳・倫理でしょうね。仏教は社会的な振る舞いよりも、己のこころが清らかになることをより大事にする。
悟りを開いた、解脱を体験したと言うならばこころの煩悩が消えている状態ですね。
その人にとっては、戒律の賞味期限が消えたのです。守ったからといって別にこころが成長することもない。しかしですね、こころはもともと清らかなので、道徳を破ることはありません。普通に生きているがそれは完全な道徳的な生き方なのです。
こころに煩悩・汚れがあるから普通の人の戒律・道徳は「完全無欠」ではありません。しかし、普通の人だからこそ道徳を守らなくてはならないのです。では、さようなら。