根本仏教講義

10.診療カウンセリング 2

頼らない心と自然法則を認める心

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、仏教は「心の科学」であるというお話、また精神科医療と仏教が担う「心の科学」の領域の違いについてお話ししました。

今月から、仏教が治療する「心の悩み」について、さまざまな例を見ながら考えてみることにしましょう。

溺愛している息子を死なせた母親

お釈迦様の時代、ある非常に貧しく苦しい娘時代を送ったキサーゴータミーという娘が嫁に行きましたが、嫁ぎ先でも子供ができず立場がありませんでした。

そんな彼女にようやく子供が生まれ、生まれて初めて彼女は自分の幸せをつかみました。奥様としての立場を得、皆からも尊敬され、大変幸せな日々を過ごしていたのです。

ところがそんなころ、子供が走り回って遊ぶ、一番かわいい年ごろになったとき突然、病気になって死んでしまったのです。

彼女のショックは並大抵のものではありませんでした。
生まれて初めてつかんだ幸せだったのです。

子供の死を認められない彼女は、絶対治してみせるとまわりの助言も聞かずに、子供の死骸を抱いて家を出ます。
あちこちの医者に行っては門をたたき、どうか治してくださいと頼んで回りました。

当然、無理ですよと言われるわけですが、彼女は「何を言うんですか」と怒って次を探す…そんな具合でした。

ある頭の良い人が、この娘は精神的に病んでいるのだと判断し、彼女に、「このような病気なら確実に治してくれる良い医者がいますよ」とお釈迦さまの住む寺を教えたのです。彼女は飛び上がらんばかりに喜んで、出かけていきました。

寺に着いたらお釈迦さまは、ちょうどお坊さま達を集めて説法をしている最中でした。

そこへ走り込んでキサーゴータミーは、「先生、私の息子が病気ですから何とか治してください」と言ったのです。

お釈迦さまは何とおっしゃったと思われますか?

「ええ、娘さん、わかりました。治してあげましょう」…そんな風に、おっしゃったのです。

そのひとことで彼女はどうなったでしょう。大火事のように悩んでいた心の中が、ホッと落ち着いたのです。

「でも娘さん、治療するにはちょっとした薬が必要です。カラシの種を持ってきて下さい」お釈迦さまはおっしゃいます。

インドというのは、どこの家にもカラシがあるのです。(日本風に言えば、味噌を少々もらってきて、というようなものです)それで彼女は、それだけでいいのですか? わかりました、すぐ持ってきます、そう言って出かけようとしました。

「そうそう娘さん、ひとつだけ守ってください。一人も死人が出たことのない家からもらってきてください」…

わかりましたと飛び出し、彼女は家々をまわります。「私には今、カラシの種が必要なんです。こちらにありますか」と聞くと「ありますよ」と持ってきてくれます。

「ところで、この家で亡くなった方はありますか」
「何を言うんですか。当然でしょう。今生きている人数より死んだ人数の方が多いですよ」…インドの町は大きく、代々続く家ばかりです。

彼女は探して探して、歩いて歩いて、くたくたになるまで、家々を訪ね続けましたが、死人の出ていない家なんて一軒もないのです。

そのとき、彼女はやっと、息子の死を認めたのです。そして、今まで抱いていた息子の遺体を墓場に捨て、寺へ戻り、お釈迦さまに「私を助けてください」と頼んだのです。

お釈迦さまは、微笑んでうなずき、世の中に生まれるものはすべて消える、それを認めない人は苦しむのだと説法しました。その後彼女は出家して悟りました。

このストーリーでは、一般的な状態ではなく精神的に狂った状態の一人の女性を前にし、お釈迦さまが瞬時に、彼女の状態を理解したことがわかります。

彼女の問題は何かというと、事実に直面したくない。でも、直面するしか方法はない。それで、徹底的に経験させてあげたのです。

お釈迦さまをカウンセラーとして見るとすばらしくカウンセリングしたんですね。彼女の大問題を、堂々と自信を持って受け止めたのです。

私たちも、人の悩みを受け止めるときには必要なのは、大きな自信と問題の理解能力、それからちょっとした工夫ですね。

何ものにも頼らない心

もうひとつのストーリーも例としてあげたいのですが、これは以前にもお話しました。PAṬIPADĀのNo.43の、巻頭法話を思い出してください。

パターチャーラーという大富豪の娘が、身分の低い召使いと恋に落ちて駆け落ちし、森の中で赤ん坊を産む話です。そして大雨の中、2人目の子を産み、子供をかばって朝起きてみると、夫は蛇にかまれて死んでおり、川を渡ろうとして赤ん坊二人を一度に亡くしてしまう話です。

狂ったようになって実家へたどり着くと、昨日の雨で雷が落ち、この家の人は全員亡くなったと聞かされます。

彼女はその瞬間に、気が狂ってしまいました。狂い、泣き乱れて、もう着ているものも全部脱げ落ち、そんなことにも気付かぬまま、歩き続けていると、子供たちには石を投げられ、男たちからからかわれ、見るも無残な状況でした。

これを見兼ねた仏教の信者さんが、この道をこう行ったほうがいいと、お釈迦さまの寺を教えました。

言われるまま、裸の彼女は寺に入っていこうとします。

寺の人々やお坊さま達はあわてて、入るな、と言ったんですね。

その言葉を聞いて、お釈迦さまは振り向かれ、即座に、「彼女を通してください」とおっしゃったそうです。

そして、「娘さん、どうぞどうぞ、よく来ましたね」…日本語文化的に言うと、長く離れていた娘が帰ってきたときに、最大の歓迎を込めて「お帰り」とでもいうような、そんな優しいことばをかけられたのです。

パターチャーラーは、その「お帰り」というひとことで正気に戻りました。

そしてはじめて自分が裸でいることを知り、服を借りて説法を聞き、出家しました。それからすぐではありませんが、悟りました。

神戸の大震災のようなものですね。あれほどひとときにすべてをなくしたとしても、あんなに大きな精神的ショックを受けていても、たったの一言で治ることもあるのです。

パターチャーラーは世間のことはまったく知らないわがまま育ちでしたから、それでひどい目に遭いました。それもこのお話のひとつのポイントです。

親が金持ちであろうと医者であろうと、社会に出れば同じ平等な人間なのです。

同等に困難に立ち向かい、他人と渡り合っていかなければなりません。

それなのに親が自分の好き勝手に可愛がり、贅沢させているということは、子供にとっては親というより鬼のような存在になってしまいます。

そんなわけで、彼女は独立ができなかったのです。ずっと親に頼っていて、それから夫に頼りとにかく、人に頼ることしか知らなかったのです。
ですから、頼るものが一気になくなってしまったとき狂ってしまったわけです。

彼女に本当に必要なのは、自分で生きていけるという強い精神力でしたが、それは彼女が育つ過程で誰ひとりとして教えてくれなかったのです。

それをお釈迦さまは瞬時に理解されたのです。

そして、静かな優しい声で、「お帰り」とおっしゃいました。そのことばは彼女の心にじーんと響き、やっと家に帰ったんだ、安心だ…そういう実感が生まれ、落ち着いたのです。

お釈迦さまの声は静かに響く低音でその声を聞くと誰もがほっと、落ち着いたそうです。パターチャーラーの場合もそうやって落ち着いてから、お釈迦さまは、この世に頼るものは何もないんだよ、とお話をされたのです。

そこで次のポイントなんですが、彼女のように精神的に弱い人を見るとよくわかるのですが自分自身さえ、自分の頼りにはなりません。

たとえば何か予期しない出来事があったときに人はものすごいショックを受けますね。

ショックを受けて家を出ることさえできなくなってしまった人もいます。それはどういうことかというと、何かあれば自分の心さえ、自分の頼りにならないということです。

からだに傷がつけば、ちょっとバンドエイドでも貼っておけば治りますが、心に傷がついたら治りません。その傷のおかげで人生がもうおしまいになってしまう人もあるのです。

だから、何にも頼らない心を作らなければならない、ということです。

自然法則を認めない現代人のゆがみ

現代の日本では、様々な問題が起こっています。

小学生でも、殺人を起してしまいますからね。

日本の社会というのは平和で、特に悪い社会じゃないし、お互いにとても気を使って行儀の良い社会ですよね。そんなにりっぱな社会なのに、いきなり小学生の殺人ですからね。

こんなに整備された、平和で豊かな社会にいるのに問題があるということは、やっぱり育ち方の問題でしょう。
学校と両親の問題だと思います。
大人の場合に問題を作るのは社会と会社ですが子供の問題は学校と両親。

パターチャーラーも育ち方に問題があったように、日本の子供たちの問題も育ち方にあるでしょう。

先程お話した二つのストーリーのうち、現代人には、後者が関係あります。
たとえば、地震や火事で何もかもなくなったとき、何も認められず、神様まで恨んでしまうのが現代人なのです。

自然法則を認めたくない、あるいは自然法則まで自分の思うとおりになると思っているのが現代人です。

それは恐ろしいことです。

もうひとつ例を言いますが、日本の多くの病院ではガンになったとき、医者が真実を話さないんですね。
これはひどいです。

言わなければ治るというなら言わない方がいいでしょう。でも、言っても言わなくても、ガンはガンなのです。

まわりも真実を言わずにあらゆる嘘をつき続けて死ぬまでつきあうより、残りの人生を計画的に生きていけるように強い精神を作らせてあげるべきです。

だまされたまま死んだというのは良くないのです。
自分だけはガンにならない、という考え方はおかしいのです。

誰もがごく普通の人間ですから、ガンであれ何であれ罹るものはかかるのです。
それなりの治療法があれば受ければいいし、ないというなら、そのまま楽しく明るく残りの日数を計算して一日一日生きていけばいいのです。

それが自然です。

自然を認められないのが、パターチャーラーのケースです。
自然を認めないことは、大変大きな問題なのです。

お釈迦さまの時代のさまざまなストーリーの中に、心の悩みと仏教の心療カウンセリングのポイントを読み取ることができますね。

女性のストーリーが二つ出ましたから、次は男性のストーリーをお話しましょう。(以下次号)