根本仏教講義

10.診療カウンセリング 8

問題を解決するのは自分です

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、様々な診療カウンセリングの実例を紹介しながら、心の悩みから抜け出す根本療法を探りました。診療カウンセリング最終回の今回は、もう少し実例を追いながら「心の悩み」への対処法を考えてみましょう。

生きる意味がわからない

何をしても空しいばかりで、仕事もやる気がおこりません。何のために生きているのか。近ごろはもう、死にたいばかりですというご相談がありました。

そういう精神の人も世の中にはたくさんいるんですね。なんだか何をやっても空しく、生きている意味がわからないと言う。そういう人はいくらカウンセリングを受けても治らないんですね。何かアドバイスしても、また何か言い返す。たとえば仕事をしっかりやってみなさいと言うと、仕事をしても意味ないでしょうとか、何のために仕事するんですかとか、ただ食べるためにそんな苦労をする意味がわからないとか…。自分でそう言いながら、自分はたいへん哲学的に世の中を見ているのではないか、すべては空しいと、とても高次元で世の中を見ているのではないかと、勘違いしたりするようです。

仏教も「すべてが空しい」と言葉だけ見れば同じことを言っているように見えます。でもそれは、一般的に言う「人生はむなしいなあ」のような感情の表現ではありません。仏教の「空しい」論は、宇宙生命全体の本来の姿を観察した上で成り立った、超越した智慧で得た結論なのです。それは、生きているうえで起きてくる問題に立ち向かう能力のないことに気付いた場合に起きてくる「空しい」という感情とは、全く違うものだということを理解していただかなければ困るのです。そういう人々は、何か超越した智慧があるのではないかと思ってしまうのですが、本当はそうじゃないのです。余りにも希望がありすぎなのです。智慧は「なさすぎ」ということなのです。智慧のある人なら、「いくら仕事をしても、結局歳をとって死ぬだけですよ」と言っても仕事はやめませんよ。毎日食べていくわけですから仕事は続けるのです。子供の面倒を見るときでも、この子たちは大きくなったら親のことを忘れて出ていくのだからと言って、十分に面倒を見てやらない、なんてことはありません。そのときそのときが楽しいわけですから、子供を育てることも、ちゃんとやってしまいます。大きくなって出ていって、それで終わりだとがっかりする、そういうことは智慧のある人にはありえません。

世の中が空しいと考えてしまう人というのはあまりにも希望があり過ぎて、人生の中に何か大胆な目的をさがそうとしている人。だから、空しくなってしまうのです。あまりにも目的が大きすぎると、何もできなくなってしまうのです。たとえば、一千万円儲けようと思ったら、額はちょっと大きいかもしれませんが、何とかして手に入れることはできるのです。でももし人が、一兆円儲けようと考えるなら、できないんですね。目的が大きくなると、できなくなって空しくなってしまうのです。

人生についても、あまりに大きな目的を考えると、空しく感じてしまいます。そういう人々には、そこそこでいいんじゃないかということを理解してもらうように、指導してあげなくてはなりません。人生は空しい、何もやることはない、死ぬしかない、と思っている人々は、ものすごく大きな希望を持っているのです。

巨大な希望を持つことは、非論理的な妄想に過ぎません。そういう人々は今現在の自分の人生を大失敗します。いつでもかないそうもない夢を追いかけているからです。希望を小さくしなさい、ということよりも、もっと具体的、現実的になって欲しいのです。それも人間に必要な智慧なのです。その智慧もないまま「人生は空しい」「仕事を何もしたくない」と思うと、今現在の人生も失敗するし、すぐれた精神的な境地に至ることも、不可能になってしまいます。ですからこのような人々は、余計なことを妄想せず、日々の現実を理解して、それに適した生き方をすればよいと思います。

懸命に働いても理解されない

次の相談は、会社で上司に、自分の仕事を変えられてしまった、というものです。自分は、休みも返上して一生懸命に働いているのに、上司はそれを評価してくれない、それどころか自分が懸命に働くことを嫌がってもいるようだ、だんだん会社にいづらくなってきて、最近は仕事も手につきません、どうしたらいいでしょうかというのです。

この言葉の中に問題があるんですね。「一生懸命に働いているのに」という言葉です。本当に一生懸命に働く人は、誰ひとりいませんからね。誰でも、まあそこそこ、働いているだけなのです。一生懸命と言うのは、自分をごまかしたいときに使う言葉なのです。たとえば、夜遅くまで会社にいるのだと。しかし、遅くまで働いていることと、一生懸命やっていることとは違うのです。遅くまでやっているというのは、たいがいは仕事の段取りが悪いということです。私なら、それはできるだけ早く済ませた方がいい、と言うと思います。上司は遅くまでいることを評価するわけではありません。

一生懸命働いていますという人が忘れていることがあります。それは、一生懸命だと自分で自分の能力に高い採点をつけているということです。普通に考えれば、「あなた、一生懸命ですね」と評価するのは上司であるはずです。たとえ悪い上司であろうとも、自分が高い結果を出しているなら、それを無視することはできません。自分の仕事に自分で高得点を与えて、他人がそれを認めないと落ち込むことは、それほど論理的ではないのです。どう考えても、「一生懸命やったのに」と思う人は、自分の能力の弱みに気付いた方が利口だと思います。

なぜ「自分は一生懸命やっている」と感じるのでしょう。それは、自分が、自分の能力ぎりぎりのところまでやっているつもりなのに、結果はそれほどよくないからです。また、他人が自分の能力リミットを越えたものを要求するときに「私は一生懸命やっているんだ」と言いたくなる。

このケースを論理的に分析してみましょう。自分の能力をぎりぎりまで使ったが、要求されたほどの結果が出ていない。自分としては、これ以上できないというところまでやったので、それを認めて欲しい。仕事を頼んだ側から見れば、予想したほどの結果がない。それで気持ちよく認めてもらえないのは普通なのですが、仕事した本人は、一生懸命やったのに、と不満を感じる。そこに見えるのは「能力」と「能率」の差ではないでしょうか。わかりやすく言うなら「一生懸命やったのに」という人には、「あなたは能力がないんですよ」と言うべきです。

そういう人は、休みまで返上して仕事するのではなくて、いかに時間を節約するかというふうに考えた方がいいのです。たとえば、四時間かかる仕事を、どうやれば一時間で終えて、三時間遊べるか、という風に考えた方がいいのです。できればそれをやってみてください。そのように頑張ってみると、休眠状態にある人間の能力が、必ず目覚めてくると思います。冗談ですけれども自分の一週間分の仕事は全部 二、三日で終えてしまって、私の仕事は終りましたので明日は休みましょうか、と上司に言うくらいの人間になった方がいいと思います。「一生懸命」に仕事するのではなくて「いかに巧みに、楽しく仕事するか」ということを考えたほうがいいのです。そうすると、その人の能力は出てくるようになるのです。

能力がないから「一生懸命」に働く。だから上司に迷惑がられるのです。夜10時まで会社にいるのだけれど、ろくな仕事をしていない。そこに本人が気付いていない。ですから、10時まで会社にいるのではなくて、3時半に会社を出られるように仕事をしたほうがいいのです。4時になれば私は帰ります、と言うくらいに生き方を変えれば、その方の問題は解決すると思います。

この方は、上司に仕事を変えられたことに不満を感じていますが、「一生懸命」という概念を分析して今話したことから言うと、その上司も部下に能力がなかったことがわかっていて、本人の仕事を変えたのではないかと思います。

限りなく起る人間の問題をどう解決するか

心療カウンセリングについて、納得していただけるようにお話をまとめることはできなかったと思いますが、仏教の立場から、個々人の問題に具体的にカウンセリングしてあげることはそれほど大事だとは思いません。人間における問題は限りなくありますので、そのときそのとき、カウンセリングも限りなく続けなくてはならなくなります。問題があろうがなかろうが、物事を具体的に、論理的に、また客観的に観られるように智慧を育てた方がよいと思います。そうすると自分の問題を自分で解決できる人になる。心のことをきめ細かく教える仏教の狙いは、カウンセラーを育成することではなく、人類が、自分の問題を自分で解決できるようにすることです。(この項終了)