根本仏教講義

22.智慧ある人は愉しんで生きる 2

相対論

アルボムッレ・スマナサーラ長老

相対論者に悩みはありません

相対論を最初に発見したのは仏教です。相対論は、言い換えれば因果論のことです。では相対論とはどのようなものか、ごいっしょに考えてみましょう。次の図1を見てください。

(図1)
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「この線は長いです」と言うと、皆さんどう思いますか。「はいそうですね、この線は長いです」と何かわかったような気がするのではありませんか。それは「長い」というものが実体として有ると思っているからです。でも、ほんとうにこの線は「長い」のでしょうか。次の図2を見てください。

(図2)
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実は図1を見ただけでは、図1の線が長いとは言えないのです。長いと言えるのは、図1と図2の二つの線を比べたときなのです。つまり長いという言葉は、二つ以上のものを比較したときに初めて成り立つ言葉であって、一つだけでは成り立たないのです。これが相対論です。他のどんな言葉もこのようなものです。大きい・小さい、高い・低い、美しい・醜い、上手・下手など、すべてのものは相対的に成り立っています。しかし私たちは相対的ということを知りませんから、何に対しても固定的、実体的に「有る」と錯覚し、わかったような気持ちでいるのです。日常生活のなかで人と喋っているとき、ほんとうは互いに何も意味が通じていないのに、私たちは意味が通じていると思い込んでいます。たとえば二人の女性が喋っているとしましょう。どちらか一人が話しているとき、もう一人は聞いているはずですが、実は聞いていないのです。もちろん本人は聞いているつもりですし、相手の話しに合わせて頷いたりもします。しかし頭のなかは自分の妄想でいっぱいなのです。たとえば一人が「太い」と言ったとしましょう。するともう一人は「私のことを太いだなんて失礼な人だ」と勝手に妄想して、腹を立てたりするのです。でも相手は「太い」と言っただけで、何が太いのかは言っていません。犬を見て太いと言ったのかもしれませんし、近くの木を見て太いと言ったのかもしれません。なのに聞いているほうは「太い」という言葉を実体としてとらえ、さらに自分勝手に妄想して、気分を悪くするのです。

それに対して智慧のある人は、人が何を言おうとも、怒ったり舞い上がったり落ち込んだりしません。相手が言う言葉に意味があるかないかを客観的に判断して、意味がある場合はその意味を理解して終わります。先の例で「図1の線は図2の線より長い」と言えば、それで終わるでしょう。何も問題は生じないのです。それから、意味が無い場合も悩みません。しかし普通の人は悩むのです。たとえば「あなたはAさんより太っている」と言われると、女性ならたいてい悩むでしょう。でも智慧のある人はこう考えるのです。「Aさんと比べると太っているという結果になるが、Bさんと比べると痩せているという結果になる」などと。このように柔軟にものごとを考えて愉しむことができるのです。ですから「すべてのものは相対的である」と理解する人に悩みはありません。

その場で問題を理解する

問題が起こったとき、相対論を知っている人はその場で問題を理解して解決します。こういう理由でこういう結果になりました、と問題の原因と結果を明確に把握するのです。相手が怒っているとしましょう。その人に対して「なんで怒っているのか!」と自分も同調して怒ることがありますが、これはまったく無意味なことです。私たちは自分の感情を、つい他人の感情と合わせてしまう傾向があります。たとえば旦那にお茶をだしたとき、旦那が「熱いじゃないか!」と怒鳴り声をあげました。すると奥さんがそれに反応して、「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないの!」と怒鳴るのです。その言い方にむっとした旦那はまたひとこと文句を言い、奥さんもまた言い返したりするのです。はじめは取るに足らない些細な事でも、互いに相手の感情に反応することによって、事はどんどん複雑になっていきます。このように私たちは相対論を知らないために、なんであの人は怒っているのか、なんであんなつまらないことで悩んでいるのか、と自分もいっしょに苦しんでいるのです。

一方、智慧のある人は相手の感情に引きずられることなく、客観的にものごとを観察します。先ほどの夫婦の例で、もし奥さんに智慧があれば、こう考えることもできるでしょう。「旦那は焦っていきなりお茶を飲んだところ、自分が思っていたよりもお茶が熱かったから驚いて怒鳴り声をあげた」などと。このように問題の原因をクールに理解して、落ちついていることができるのです。

昨年のことですが、小学六年生の女の子が同級生の女の子を殺害するという事件がありました。動機は、ホームページのチャットで嫌な書き込みをされて腹が立ったということだそうです。教育関係者をはじめ多くの知識人たちは、「なんであんなことで人を殺してしまうのか、いまの教育システムは堕落している、改善しなければならない」などといろいろ議論していましたが、結局は、どうすればいいかという具体的な指針や方策を見いだせないまま、時だけが過ぎていったようです。

そこで、この問題を相対的に考えてみましょう。女の子がチャットで悪口を書かれて怒ったということですが、逆に「あなたは明るくてかわいい」と書かれたらどうなるでしょうか。怒るどころか、きっと舞い上がって喜ぶでしょう。人間の心はそんなもので、言葉を少し変えただけですぐに変わってしまうのです。あまりにも単純で愚かなものなのです。もし相対論を知っている人が、事件が起こる前にこの子と話していたなら、事件を回避することもできたと思います。具体的に言いますと、その子にちょっと言葉をかけて、頭のなかの考え方を変えてあげるのです。「あなたはなんでそんなに怒っているの?」とやさしく聞くと、何か答えるでしょう。それで「そうか、私はあなたのことを賢い子だと思っていたんだけど、そんなことで怒るんだ、恐いもんだなあ」などと言えば、女の子は恥ずかしくなったり、ばかばかしくなって、殺しに行くのをやめるでしょう。これだけで怒りが消えてしまうのです。あるいは「ところで君、いま何歳?」と聞くだけでも充分です。「十二歳」と答えたなら「人間はだいたい八十歳ぐらいまで生きていますから、あと六十八年間もありますね……」と、こういうふうに穏やかに、軽い口調で言えば、女の子のとんでもない怒りの心が、カチンと良くなります。相対論を知っている人は、こうやって気楽に冗談っぽく、でも、きりっと真理を伝えて問題を解決するのです。

解決法も相対的

それから、問題に対する解決法も相対的です。何か問題を一つ解決できたからといって「何でも解決してあげます、私に任せなさい」と得意気になっている人もいるようですが、ある状況で解決した方法は、別の状況では通用しないのが普通です。たとえば十二歳の女の子が万引きしようとしています。ある方法を使ってうまく止めることができました。同じ十二歳の男の子が万引きしようとしています。しかし先の女の子に使った方法と同じ方法は使えないのです。男子と女子という時点で状況が違いますし、豊かな家庭で育ったか貧しい家庭で育ったか、ということによっても解決法は異なってくるのです。ですから「解決法も相対的である」ことを理解して、問題が起きたときには、その場で智慧を使って解決することが望ましいのです。過去に同じような問題があって、そのとき使った解決方法をそのまま使っても役に立ちません。それから、たいていの人は問題が起こったあと時間が経ってから「あのときああすればよかった」と智慧が湧いてくることが多いのですが、これも役に立ちません。大事なのは常に頭を軽くして、問題が起きた瞬間に「これはこうだからこうすればいい」と判断できる智慧を身につけることなのです。

(次号に続きます)