23.刺激論 6
囚われずに歩む
誘惑されるのは誰のせい?
餌について、仏教にはこのような話があります。ある人がお釈迦さまに「この世の中には美しいものがありすぎて、誘惑が多すぎます。私はこの美しいものが欲だと思います」と言いました。これに対し、お釈迦さまは次のように説かれました。
Na te kâmâ yâni citrâni loke,
Sankappa râgo purisassa kâmo;
Titthanti citrâni tatheva loke,
Athettha dhîrâ vinayanti chandam.
(Sanyutta Nikaya ,I. 22)
「この世の中にある美しいものは欲ではない。 人の心の妄想が欲である。
様々なものは、世の中にただそのように在るだけである。
それゆえ、賢者は心の欲を捨て去る」
世の中には種々様々な色や形が、ただ区別的にあるだけなのです。花には花の色形があり、人には人の色形がある、それだけです。ですから「美しい花々に魅了された」とか「あの人は美人だ、脳裏に焼きついて離れない、誘惑された」などと外部の対象のせいにするのはおかしいのです。花や人が誘惑したわけではありません。自分の心の欲のために、対象に誘われ、釣られて、束縛されたのです。
「タバコをやめようと思っているけどなかなかやめられない」という人も結構いらっしゃるでしょう。禁煙するぞと固く決心するのですが、イライラしたり、会社で周りの人たちが吸っているのを見ると、つい「一本だけ」と吸ってしまうのです。タバコがやめられないのはタバコのせいでしょうか? 違います。タバコが誘惑しているのではなく、自分の心の欲に負けているのです。
そこで欲とは何でしょうか? 仏教の答えは「欲とは自分の妄想である」ということです。外の対象が私たちを誘惑して束縛しているのではありません。私たちの心に湧き起こってくる、美しいとか、おいしそうとか、儲けたいとか、偉くなりたいとか、欲しいなどという妄想が欲なのです。これは、お釈迦さまが悟りを開かれた智慧で世の中を鋭く観察して発見なされた偉大なる真理です。
人間関係の悩み
一般的に、私たちは人間関係でものすごく苦労して悩んでいます。自分が生んだ子供なのに、その子とうまくつきあってゆくのも簡単ではありません。子供は親の言うことを聞かないし、親は子供が何を考えているか分からずに苦しんでいます。子供とのつきあいも大変なのだから、他人とのつきあいはどれほど複雑で難しいかというと ――。それで私たちはいつでも人間関係に悩まされ、苦しんでいるのです。そして助けを求めてあっちこっちに走り回っています。不倫に走る人、酒に走る人、金儲けに走る人、権力に走る人、おしゃれに走る人、信仰や神様に走る人、いろんなところに走り回って、別のものを追い求めるのです。
でも考えてみてください。これらの問題はどれも、自分が見たことや聞いたこと、考えたこと、感じたことから生じているのではないでしょうか。ですから私たちの悩みや苦しみというのは、外部の情報を感受する六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)から生じているのです。これらが、あらゆる苦しみの原因なのです。家庭内暴力も、夫婦喧嘩も、権力争いも、戦争も、すべての問題は、眼耳鼻舌身意から生まれているのです。
認識システムは、もろい
眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、瞬間的に感覚が生じて、膨大な妄想の世界が現れます。眼に色形が入った瞬間、もうとっくに妄想しているのです。たとえばテーブルの上に饅頭が置いてあるとしましょう。饅頭の色形が眼に入ったとたん「あ、饅頭だ、おいしそう、一つ食べたい」と、もう欲の妄想が湧き起こっているのです。ときどき手を伸ばして口のなかに入れていることさえあります。この反応の速さ、どのぐらい速いと思いますか? 途轍もなく速いのです。
しかし、この「認識システム」はあまりにももろいのです。ちょっとしたことで壊れます。
(1)眼耳鼻舌身意と、(2)色声香味触法と、(3)認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・触識・意識)の三つのセットのうち、どれか一つでも壊れると、セット全体が壊れるのです。たとえば、ある晴れた日に美しい花がいっぱい咲いている公園に出かけたとしましょう。花の好きな人は、その美しさにひかれて楽しくてたまりません。しかし、いくら眼の前に美しい花が咲いていたとしても、眼を閉じたらどうなるでしょうか? 何も見えないのです。眼を閉じた瞬間、あの強烈な欲望が、さっと消えてしまうのです。あるいは夜、明かりのない真っ暗闇のなかでその花を見ても、何も見えません。見えなければ、きれいだとか、美しいとか、一本持って帰りたい、という欲望も妄想も生まれてこないのです。このように私たちの認識システムは大変もろいもので、ちょっとしたことで壊れるのです。
そこで皆さんに理解していただきたいのは、見えるものや聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものに、そんなにしがみついて執着しなくてもいいのではないか、ということです。私たちはいつでも目先の楽しみや刺激を追い求め、結局はそれらに釣られて苦しんでいます。ものごとに引っ掛かって執着すれば、あらゆる苦しみを味わう羽目になります。これが私たちの最大の問題なのです。しかし、客観的に事実を観察して「ものごとはすぐに消え去る儚いもの」ということを理解するなら、欲望や執着は生まれませんし、苦しみを味わうこともないのです。
煩悩のストップ
眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると、感情がふつふつと現れてきます。そしてそれからごちゃごちゃ考え始めるのです。「考える」というと、なんとなく知的なように聞こえますが、仏教から見れば、考えるということは、つまり妄想のことです。どんなに「立派なことを考えた」と思っていても、それは単なる感情の空回りにすぎません。冥想して自分の妄想を客観的に観察してみてください。観察すれば、怒りの回転か、欲の回転か、くだらない回転か、そういう貪瞋痴の回転しかやっていないということが発見できるでしょう。私たちは普段「私はこう考えている」とか「これは自分の意見だ」などと主張して、ときには他人を攻撃してまで自分の意見を押し通すこともありますが、本当はたいしたことは考えてないのです。すべては感情の空回りであり、ただの妄想なのです。
そこで、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れた瞬間、たとえば眼に色形が入った瞬間、妄想を展開させずに、「見えた」と、そこでストップしたらどうなるでしょうか? 何の妄想も、何の主観も、何の煩悩も生まれてこないのです。それで心がすごく穏やかになるのです。悟った人は、ここでストップします。妄想には行きません。悟った人に煩悩が無いというのは、眼が見えないとか耳が聞こえないとか、何も感じないということとはまったく違います。悟った人は常に目覚めて、ものごとを鋭く観察していますから、誰よりも鋭く聞こえていますし、鋭く見えています。ただ妄想には行かないのです。
最後に、有名なお釈迦さまの言葉をご紹介いたしましょう。
Kâmâ hi citrâ madhurâ manoramâ
Virûparûpena mathenti cittam,
Âdînavam kâmagunesu disvâ
Eko care khaggavisânakappo.
(Suttanipâta 50 )
外に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものは、
美しく、おいしく、喜ばしいものである。
これらはあらゆる形をとって(様々に変化し)心を混乱させる。
欲望の対象(色声香味触法)には恐ろしい災いがあることを見て、あらゆるものから離れるべきである。
犀の角のように、独り歩む。
(完)