パティパダー巻頭法話

No.266(2017年4月号)

善悪の超越

善も悪も執著です Relative and absolute righteousness

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Yodha puññañca pāpañca
    Ubho saṅgamupaccagā
    Asokaṃ virajaṃ suddhaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ.
  • この世の福とわざわいと ふたつながらのじゃくを去り
    無憂 無貪の清淨者  そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 412)

ブッダの戒め

七仏通誡偈としても知られる、ブッダの教えをすべてまとめた偈があります。

Sabbapāpassa akaraṇaṃ  すべての悪を犯さないこと
Kusalassa upasampadā  善に至ること
Sacittapariyodapanaṃ  自らのこころを清めること
Etaṃ buddhāna sāsanaṃ  これが諸仏の教えである
(DhP.183 ダンマパダ一八三偈)

単純でわかりやすいと思われるように説かれた偈です。ブッダの教えをわかっただけで、人格向上するわけでも、こころ清らかになるわけでも、煩悩がなくなるわけでも、解脱に達するわけでもありません。この教えを実践しなくてはいけないのです。おこなうべきものは、シンプルであればあるほどよいのです。理解することすら難しい戒めを実践しようとしても、完成することはできません。この偈は、完成するまで実践できるように説かれた教えです。

普遍的な真理

これは、誰にでも納得できる教えです。解脱を目指す仏教徒だけでなく、宗教に興味すら持たない一般の方々にも実践できます。悪・罪(pāpa)を犯さないこと。人間なら誰でも認められる言葉です。悪を犯さないように自分の生き方を制御するならば、それが善(kusala)になります。悪を犯さないと決めて生きることで、生き方そのものが善行為になるのです。ふつうに生きることが善行為になるならば、それはこの上ない素晴らしい生き方です。偈の二行目は一般的に「善行為をすること」と訳しますが、本意は少々違うと思います。悪を犯さないように戒めるだけで、善行為です。二行目の意味は、「善に至ること」です。要するに、善い人格を築き上げることです。善行為をするだけで止まらず、善人になろうと励むのです。三行目の意味は、「自らのこころを清めること」です。こころは煩悩で汚れています。その煩悩をなくす努力をしなくてはいけない。こころを清らかにする仕事は、必ず本人がやらなくてはいけないのです。他人に頼んで清らかなこころを作ってもらうなんて、あり得ない話です。

俗世間の善悪観

一般人は、この教えを「悪行為をやめて、精一杯善行為をすることである」と単純に理解して実行しているのです。「悪を犯すと不幸に陥るのだ、善を行なうと幸福になるのだ」というのは、一般的に知られている仏教の話です。だから一般の仏教徒は、五戒を守ることで悪から身を守ろうとするのです。それから、さまざまな善行為をして、功徳を積もうとします。たくさんの功徳が積まれたところで、解脱に達するのだと信仰しているのです。ブッダ本来の教えとは少々変わっているが、仏教徒たちはそれを気にしないのです。なぜならば、悪を犯さないこと、善を行なうことは、どう見ても善い生き方に決まっているからです。

存在欲を守るという善悪

これから、善について少々考察してみましょう。すべての生命に存在欲があります。だから、生きていきたいのです。死にたくはないのです。生命の生き方とは、命を支えてくれる行為をすすんで行うことと、命を脅かす行為を極力避けることです。木の枝に完熟した果物がぶら下がっているとしましょう。お腹が空いているから、手を伸ばしてそれを取って食べたいのです。それは命を支える行為です。手を伸ばそうとして枝を見ると、毒蛇が枝に巻きついているのを発見します。では、その人はどうすればよいのでしょうか? 当然、命を脅かす原因を避けて、命を支える行為をしなくてはいけないのです。その人が、蛇におびえて逃げたとしても、棒を持って蛇を脅して追い払ってから果物を取って食べたとしても、どちらでも構いません。その人がどんな態度を取ろうが、そちらに正解・不正解ということはありません。存在欲が強ければ、蛇を追い払うでしょう。恐怖感が強ければ、逃げるでしょう。どちらの行為もおおもとは存在欲から発生するものです。生命は、命を支える行為を進んでおこなう。命を脅かす行為を極力さける。これが世間一般的に語られる善行為になります。命を脅かす行為は悪行為になるのです。

矛盾で終わる曖昧な理解

それなら、誰も悪行為をしないはずです。誰も進んで自分の命を危機にさらそうとはしないのです。それでも俗世間は悪行為でいっぱいです。人間の善悪観は、真理ではなく存在欲をあらわす感情に過ぎません。したがって、理性的ではないのです。存在欲を持つ人間が悪行為をするのは、矛盾極まりないことです。善悪の区別は、善悪観ではなく「善悪感情」になっています。感情とは、主観的で勝手な気持ちであって、客観性のある具体的な話ではないのです。ですから、人を殺してはいけないと言っているのに、敵を倒すために闘わなくてはいけないとも言うのです。盗んではいけないと言っているのに、さまざまな工夫を凝らして宣伝して、それほど価値のない品物を高値で売ってぼろ儲けをしているのです。平和を守るために、武器を開発するのです。言葉を変えれば、「平和を好むなら、弾を込めたピストルを携帯しなさい」ということになります。

仏教的な善悪の定義

矛盾極まりない生き方をもって道徳的生き方と言うならば、笑い話になります。仏教的には、幸福な結果をもたらす行為は善行為で、不幸に陥る行為は悪行為になります。そこに矛盾があってはならないのです。幸・不幸を自分勝手に判断すると矛盾に陥ります。自分が金持ちになって幸福になるからという理由で、強盗してはいけません。なぜならば、被害者はただちに不幸になる。加害者も罪がバレたところで不幸になる。善行為の場合は、自分も他人も両方とも幸福にならなければいけないのです。ひとが畑で野菜をつくる。それを誰かに売ってお金をいただく。売った人も買った人も得しているのです。それは善い行為で、決して悪行為になりません。定義をそれだけにすると、ぶれが生じるのです。一切の行為はこころが惹き起こしているものです。貪瞋痴で汚れた行為は悪です。不貪不瞋不痴でおこなう行為は善です。それが最終的な定義です。

善行為に無我夢中

仏教徒たちは、無我夢中で善行為をしているのです。「なぜ自分の利益を重視しないのか?」と、他人に質問されることもあります。仏教徒は、「善行為すれば幸福になるのだ」と簡単に答えます。これは完全な答えではないが、一般の仏教徒はややこしい議論を避けるのです。仏教徒でない人々にとっては、自分の利益を二の次にして善行為をする生き方は理解できなくなります。仏教徒は幸福依存症であると誤解する可能性もあります。善行為をする仏教徒たちは、幸福になることだけではなく貪瞋痴を戒めることも考えているのです。善行為をしただけで解脱に達しないのだとも知っていますが、善行為を完成していないと解脱に達するための修行も実らないと思っているのです。

相対的善悪

一般的な善悪論はここまでにして、善悪論の上級編を考えてみましょう。存在欲がなければ、善悪は成り立ちません。命を支える行為は善で、脅かす行為は悪です。ですから、善悪は存在欲によってあらわれる現象です。それから、善行為は悪行為と対照することで成り立ちます。与えられたものでなくても取りたい、自分のものにしたい、という感情が人間のこころに既にあるから、与えられていないものを取らないことが善行為になっています。ひとは自然に嘘をついてでも自分を守りたいのです。だからこそ、がんばって嘘をつかないことは善行為になります。善が悪を養う、悪が善を養う、というような変な関係です。

この相対的な関係を支えているのは何でしょうか? 生きていきたいという存在欲です。なぜ生命は生きていきたいと思うのでしょうか? ほんのわずかな過ちでも起きたら、命が終わってしまう危険性があるからです。世にある一番脆いものは命です。脆いからこそ、命は必死で守らなくてはいけないのです。命に対して愛着がなければ、守る必要もなくなります。このように、わたしたちの目の前には、相対的でなければ成り立たない現象の世界があらわれているのです。「わたし」という言葉さえも、相対的な現象です。このポイントは複雑でわかりにくいかも知れません。あまり気にしないで、次のポイントに進みましょう。

善悪の超越

ブッダはわたしたちに何を説いているのでしょうか? 「ものごとをありのままに観察しなさい」と教えるのです。「ただちに存在欲を断ちなさい」とは言いません。それは一般人にできることではないからです。ひとに「空を飛んでみなさい」と言うような、無茶な話になります。ありのままにものごとを観察すると、現象の本当の姿を発見できます。現象が相対的であることも、瞬間瞬間に変化してゆくものであることも、発見するのです。その智慧によって、存在欲が無くなります。ふたたび現れることも無くなります。仏弟子たちは、この解脱の境地を目指しているのです。善行為をするために、悪行為を戒めるために、仏法僧に帰依して実践しているわけではありません。では、なぜ悪行為があるのでしょうか? 存在欲があるからです。命に執着があるからです。では、なぜ善行為があるのでしょうか? 存在欲があるからです。命に執着があるからです。すべての現象は無常であると発見した人のこころから、執着が消えてしまいます。執着が消えたら、善行為も悪行為も成り立ちません。ただ、行為だけになります。解脱者の立場から観れば、善も執著で、悪も執著なのです。

超越した人の心境

存在欲がある人に、憂い悲しみが必ず起きます。命は脆いものです。そのまま守ることは決してできません。こころから存在欲が消えたら、この現象の世界で何が起きても、その人に憂い悲しみがないのです。無常を発見していない人にとっては、ものごとが存在しているのです。美しい花も、気持ちの悪い生ゴミも、存在するのです。無常を発見していない人は、花を見て喜びを感じ、生ゴミを見て嫌な気持ちを感じます。要するに、眼耳鼻舌身意に色声香味触法がふれるたびに、こころが汚れるのです。無常を発見した人にとっては、眼耳鼻舌身意にどんな対象が触れても、こころが汚れることはありません。無常を発見した人のこころは、絵を描くことが不可能な空【そら】のようです。相対的な世界に住む人々に理解してもらうためには言葉を使わざるを得ないので、「聖者のこころは清らかだ」と表現しています。しかしこれは、不浄に対する浄のことではないのです。

最後に、聖者のこころはどのようなものか、まとめてみましょう。聖者のこころには、善(puñña)という執着も、悪(pāpa)という執着もありません。この二つの執着(ubho saṅgaṃ)を超えています。憂い悲しみが起こらない(asokaṃ)のです。こころは汚れなく(virajaṃ)無色透明できれい(suddhaṃ)です。これが真の聖者の精神状態なのです。

今回のポイント

  • 悪を止める、善をおこなう
  • 世界の善悪観は矛盾で終わる
  • こころ清らかにする行為は善
  • 善悪を超越しなくてはいけません