No.268(2017年6月号)
汚れの道は世の道になる
無執着に達した人は世を超越している Tumultuous life and life of calmness
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Yo imaṃ palipathaṃ duggaṃ Saṃsāraṃ mohamaccagā
Tiṇṇo pāragato jhāyī Anejo akathaṃkathī
Anupādāya nibbuto Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- この険しく難き道なる輪廻を 修行して無知を破り超越す
揺らぎなく曖昧を払拭し 無執着により安穏に達す
彼をバラモンと我は説く - 訳:スマナサーラ長老
- (Dhammapada 414)
世の道
世の道とは、われわれが普通に行っている生き方のことです。個人個人には自分の生き方というものがあります。しかし、自分の生きたいように自由奔放には生きていられません。「人間の社会」という世界があるから、個々の人間はその世界の生き方の参考にしながら、自分の個人的な生き方を調整しなくてはいけないのです。その結果、世界に認められた人間ということになります。
理論は簡単ですが、実行は難しいのです。まずは自分自身でどのように生きたいのか、ということがはっきりしない人々もいます。「わたしはどうすればよいのか?」という問題を抱えているのです。誰であれ、まずは自分好みの生き方を発見しなくてはいけないのですが、それがうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあるのです。
自分の生き方を発見した人に、それを世界の人間の生き方と照らし合わせる仕事がでてきます。人類全体の生き方を調べることは実践的に成り立たないので、みな自分の周りの人々の生き方に照らし合わせてみるのです。うまく行けば、自分の周りの社会に適した人間になるかもしれませんが、その人に別な社会でスムーズに生きられるかどうかは分かりません。社会とは、一定していて変化しない組織ではありません。つねに変化しているのです。変動する社会に適応するのも、また容易いことではありません。
この世に生まれるどんな人間にとっても、この状況は大変な問題なのです。誰だって、社会に認められて成功を収めて生きていきたいでしょう。しかし、社会に認められる人間になることは、決して完成できない課題です。みな、自分の能力にあわせて、折り合いをつけたり、妥協したりしなければいけないのです。最終的に言えるのは、「誰だって自分の人生について、完全に満足することはできない」ということです。私たちは、完全に満足できる人生を目指しても、それは観念だけに終わるのです。ですから、「それなりにうまく生きているのだ」という状況でじゅうぶんなのです。
汚れの道
世の道に対して、お釈迦さまは「汚れの道」という言葉を使います。否定的な言葉であると思われるかもしれませんが、ブッダが説かれる言葉なので、ありのままの事実を語られているのだと理解しなくてはいけないのです。少々、詳しく観察しましょう。
こころに存在欲がなければ、「何としてでも生きていきたい」という衝動は生まれません。生きてみようと思ったら、生きることを応援して支えてくれる現象よりは、生きることに障害を与える現象のほうがはるかに多いと発見できます。要するに、生きることは大変ですが、死ぬことならいたって簡単にできるのです。成功することは大変ですが、失敗したければ簡単です。豊かで平和な家庭を保つためには大変苦労しなければならないが、家庭を壊そうとすることなら至って簡単です。ひとの信頼をかちとることは大変ですが、わずかな過ちでも信頼をすべて失ってしまうのです。
ひとはこの事実を意識化していませんが、無意識で感じているのです。無意識に起こる衝動で生きているのです。それで人は、自分の命を支えてくれる人や物に対して、執着しなくてはいけなくなります。苦労して守らなくてはいけなくなります。命を脅かすさまざまな現象を避けなくてはいけなくなります。壊さなくてはいけなくなります。生きることのナビゲーターは、欲と怒りなのです。自分好みの生き方と、世間の生き方を照らし合わせて、理想的な生き方を見出すことができなくなっているのです。欲と怒りが自分の人生をナビゲートしているのは、世間の人間も同じことです。世界は欲・怒り・無知という感情で生きているのです。
この問題がどれほど悪化しているのかというと、「欲がなければ生きていられない」「競争しなくては生きていられない」「相手に打ち勝たなくては生きていられない」「自分が怒りで対応しなければ世間に舐められてしまう」「正直者はバカを見るだけ」などなどの人生哲学まで作っているのです。それは自然法則に反した生きかたであると、気づかないのです。
世間の生きかたは、貪瞋痴にナビゲートされていす。「貪瞋痴がなければ生きられない」という罠に嵌められているのです。世間の人々は、貪瞋痴を強化することに頑張るが、制御することを嫌います。それは、存在欲のせいです。というわけで、「世の道」とは貪瞋痴を強化する道になります。こころを次から次へと汚す生き方なので、仏教では世の道について、「汚れの道である」と言うのです。
世の道を乗り越える
世の道を批判しても、何の意味もありません。生命は、貪瞋痴を無視しては生きられないという障害を持っているのです。このありのままの状況を、知り尽くさなくてはいけないのです。貪瞋痴にナビゲートされる生き方は、苦しいものであると理解します。争い・戦いの原因になると理解します。貪瞋痴があるから、他の生命が危険な存在に見えてしまうのです。貪瞋痴があるから、慈しみ、思いやり、やさしさを実行できないのだと見えてきます。
このように発見すると、「なんとしてでも生きていきたい」という存在欲はどうなるでしょうか? かなり弱くなっていくのです。存在欲が弱くなると、貪瞋痴も弱くなります。そうなってくると、素晴らしい結果が現れてくるのです。世は互いに戦っているが、自分に戦いから離れることができる。世は互いに憎み合っているが、自分に他を憎まないでいることができる。世は互いに敵視しているが、自分に他の生命を慈しむことができる。世は生きることで苦から苦へと進むが、自分は苦を減らす生き方を選んでいるのだと見えてくる。このように世を乗り越える道を、お釈迦さまは「正しい道」として推薦しているのです。
輪廻
これは皆に理解が難しい仏教用語です。人間は「わたし」という個人が確実にいるのだと思っています。輪廻という法則があると言われた途端、「わたしは死んでから生まれ変われるのですか?」「信じられません」「科学的な事実に反している考えです」などなどの感想を持つのです。問題は、自分の錯覚にあります。「自分は実在する」という錯覚・幻覚に基づいて、輪廻を理解しようとしたからです。実体として「個人」というものは成り立たない、ということは科学的にも証明できます。物質は、つねに変化して無限に流れているものであると科学的にも言えます。われわれが「ある」と思っている物質は、絶えず変化しているのです。その変化を止めることは不可能です。感じる、知る、という能力は、「こころ」と言います。その機能も、変化して流れます。知る機能の変化は、物質の変化よりも早いのです。仏教でいう輪廻とは、知る機能の流れです。「わたし」という実体が、死後、別なところに引っ越しするという原始的な話ではないのです。貪瞋痴の衝動で生きている「生命」という組織は、その衝動がある限り、変化して続くのです。
「貪瞋痴の衝動で生きることは苦しみの道である、汚れの道である」と発見しない限りは、その道から脱出する、その道を乗り越える意欲が起こらないのです。生命は貪瞋痴に罠に嵌められているのだ、という事実に気づかないことは、「無知」と言います。貪瞋痴の衝動があるからこそ、生命が成り立っているのだと発見する人に、この無知がなくなるのです。無知が消えることで、いま生きる苦しみだけではなく、輪廻を繰り返すという恐ろしい苦しみも乗り越えることができるのです。(Saṃsāraṃ mohamaccagā 輪廻と無知を越え)
不動
存在欲を持っている生命は、貪瞋痴にナビゲートされて生きなくてはなりません。つねに「うまくいくか否か」という問題に悩んでいるのです。家庭のなかにいても、仕事をしていても、商売を営んでいても、こころが揺らぐのです。披露宴で祝辞を述べるときでも、こころが揺らぐのです。貪瞋痴がある限り、こころが揺らがない瞬間はありません。揺らぐこころで行う判断も、曖昧なのです。自分が出した判断なのに、自分自身にも自信が持てないのです。揺らぐこと、曖昧中途半端であることが、こころの本質になっています。それでも人は、幸せを願う。実現不可能な希望です。やるべきことは、生命は貪瞋痴にナビゲートされて生きているのだと発見して、存在欲を徐々に無くすことです。すべての現象は無常で、流れるものであると発見すると、こころの揺らぎが無くなります。こころが不動(aneja)の境地に達したと言うのです。不動に達したとは、こころが変化しないで固まってしまった、という意味ではありません。こころは物事を認識して、変化しているのです。しかし、揺らぎはない。曖昧さはない。また、「あれをやっておけばよかった」「これはやらないほうがよかった」「もっと頑張ればよかった」「これでいいのだろうか?」などなどの悩みはどんな人間にもあるものです。何をしても悩むのです。信仰を持つべきか無宗教のままでよいか、修行するべきか止めるべきか、修行するならばどんな修行法がよいのか、自分が選んだ仕事は自分の性格に合っているのか否か、いまやっている仕事で自分の能力を発揮できるか否か、などなどの悩みが、数えきれないほどあるのです。この状況をまとめて、「こころの曖昧さ」としておきましょう。仏教用語ではkathaṃkathīと言います。世の道を乗り越えることに成功した人のこころから、曖昧さが完全に消えてしまうのです。(akathaṃkathī)
無執着
「生きていきたい」という存在欲が、執着の親分です。生きていきたいからこそ、人、財産、名誉、権力などに執着しなくてはいけない。現象に執着するために、貪瞋痴を使うのです。貪瞋痴が人を執着から執着へとナビゲートします。執着があると、苦しみが生じます。執着すること自体も、苦しみです。なぜならば、執着とは無理な話だからです。実を言うと、執着することは不可能です。生命は無知だから、執着は可能だと思っているのです。たとえ執着しても、その現象は無常で変化するから、悲しみを経験しなくてはいけなくなります。若い自分が、若さに執着しているとしましょう。しかし、日々、老いていくのです。老いることは自然現象ですが、若さに執着する人が老いたところで、精神的な苦しみを味わわなくてはいけないのです。グルメな人が生活習慣病に罹ったとしましょう。健康に執着していたならば、病気から生まれる自然な苦しみよりももっと激しく、苦を経験することになります。その人はかつてグルメだったので、食べるものに執着していたのです。病人にはグルメ生活はできません。その人は、さらに苦しむのです。ひとの苦しみはなんであろうとも、調べてみると、それは執著を原因にして生まれるのだと発見できるでしょう。
仏教徒は、生きることは自然の流れに任せて、執着しないことにするのです。無執着の実践は、いろんなランクでできます。お金を儲けるが、それに執着しないで正しく使う。子供を育てるが、子供への愛着を抑える。結果として、子供の尊厳を守る立派な親になります。自分が持っているものを、他人と分かち合います。必要なものを、必要な時期に、必要な人に、あげます。このように生活すると、無執着が限りのない安らぎを与えてくれるのだと発見します。最終的に、一切の現象は無常であると発見して、いかなる現象にも執著しない、という境地に達します。その人は、究極の安穏に達します。(Anupādāya nibbuto)「仏道とは無執着を実践する道である」と理解することができます。「すべて無常だから、執着が不可能である」と発見することが智慧なのです。智慧によって、こころにある「執着する癖」が消えたならば、それは解脱と言います。
覚者
覚った人、解脱に達した人、阿羅漢、聖者などなどの単語で、「世の道(汚れの道)」を乗り越えた人を示しています。お釈迦さまは、「真のバラモン」という言葉も使います。バラモンとは、バラモン・カーストの人、という意味ではありません。バラモン・カーストの人々は、単にバラモンの家で生まれただけなのに、「自分だけが聖職者であり、聖者であり、仙人である」と吹聴していたのです。仏教は、「ひとがどこかの家で生まれた、という理由だけで人格者にはならない」という立場です。「人々の行為によって、善人にも悪人にもなるのだ」と説くのです。「こころを清らかにしたならば、誰だって聖者になるのだ」と強調するのです。バラモンたちの迷信を認めたら、聖者になる道はバラモン家系の人間に限られた特権になります。たちの悪い人種差別です。しかし、すべてのバラモンたちがこの偏見を持っていたとは言えません。客観的に物事を考えられる、理性あるバラモンたちもいました。彼らは、「修行すれば梵我一如の経験に達することができます。それに生まれたカーストは関係ない」と言っていたので、バラモン・カースト以外の人々にも、自分の好みに合わせて修行する自由が現れてきたのです。
お釈迦さまは、バラモン・カースト至上主義という偏見を批判しましたが、バラモンたちをまとめて悉く批判したわけではないのです。ダンマパダの四一四偈では、「汚れの道を理解して、無知を越えて、輪廻を脱出して、こころの揺らぎと曖昧さを無くして、一切の執着を捨てて、安穏に達した人こそ、真のバラモン(聖者)である」と説くのです。
今回のポイント
- 世の道とは汚れの道です
- 世の道は理解して超越すべきものです
- こころの揺らぎと曖昧さは無くせます
- 現象に執着すると苦しみが増えます
- 無明を破らない限り輪廻は続きます