智慧の扉

2006年11月号

「知っている」人に進歩はない

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間は「あれも知っている」「これも知っている」と言いたくてたまらないものです。でも気をつけて下さい。「私は知っている」という高慢は、ものすごく巨大な「心の鍵」になるのです。高慢という鍵で、自分の心を頑丈にロックしてしまう。それでもう進歩はなし。人生はおしまい。「私は知っている」という人は、お釈迦さまにもどうにもできません。

人間は誰でもそんなに差はないのです。しかし「まだ知らないことばかり」という態度でいる人だけが、成長できるのです。「私は知っている」という人は、鍵をかけた心のなかで、日々、智慧が衰えていくのを待つしかない。高慢という心の鍵を開けるのも閉めるのも自由意志です。自分でかけた心の鍵だから自分で開けるしかないのです。

修行の世界でも、「私はここまで進んでいる」という人はぜんぜん前に進めません。ヴィパッサナー冥想は「まだこれがある、まだこれがある」と自分のダメなところ、未熟なところを観る道だからです。「ここまで進んだのですけど、次は?」と聞かれても、「次は」ないのです。そういう修行には勇気が必要なので、知識人でないとやりきれない。ブッダの定義する知識人とは「まだ私には欲がある。まだ怠けてしまう。これではまだまだ情けない」と自分の小さな欠点にも気づける人のことです。

ヴィパッサナーは中道的な冥想だから、あまりにも悲観的になるのもダメだし、「ここまで進んだ」と慢心してもダメ。完全に悟るまではずっと有学だから、いま自分が学ぶべきところを観るしかありません。学校でも、冥想でも、分からないところに、知らないところに重点を置いて勉強しないと進歩はないのです。

修行者が預流果に悟っても、「自我がない」というところでウロウロしていると「愚か者!」と怒られます。「自分という実体がないと分かっても、怒りや欲が出るでしょう」と。預流果に悟ったら、次はそうやって自分の未熟なところ、感情に当たらないといけない。だから自分の愚かさに気づくことは、修行の完成まで続く仏教の大切なポイントです。