仏道の八不思議
pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
アルボムッレ・スマナサーラ長老
はじめに
「初期仏教経典」というお釈迦様の直々(じきじき)の教えから、一つ経典をご紹介いたしましょう。
経典には「仏教とは何か」というお釈迦様の教えの特色を示しているエピソードがいくつかあります。多くの方々は、「仏教って一体どんな教えなのか?」と疑問に思ったことが一度はあるのではないでしょうか。といいますのも、仏教はまったく宗教的ではないからです。祈祷やお祓いなどはやりません。仏教以前からある伝統的なしきたりや習慣も、全部くつがえしてしまうのです。たとえば、インド文化では年上の人を尊敬しなくてはなりません。年上の人が来ると、立ち上がって深く礼をしなければならないのです。この習慣は現代になっても続いていて、年上の人にたいしては必ず挨拶をします。お釈迦様は、そのようにはやりません。年齢ではなく、人間の道徳性を重視されたのです。つまり尊敬し、礼をすべき人とは、「道徳的に優れている人である」と教えられました。このようにして、あらゆることをくつがえされたのです。
しかし、そういうことをしながらも、お釈迦様は宗教家として出家し、托鉢をしながら、何もモノを持たずに生活しました。
ですから、仏教を学ぼうとする方々にとっては、お釈迦様は宗教家か、あるいは革命的な生き方を教える人か、どちらかわからなくなるのです。それで「仏教って何なのか?」という疑問が出てくるのです。
経典には「仏教はこういうものである」と紹介する教えがいくつかあります。この『パハーラーダ経』も、その一つです。お釈迦様ご自身が、自分の教えはどのようなものかと説明されているこの経典はとても貴重な記録であり、皆様にも大いに役立つでしょう。
Axguttara Nikāya, Aṭṭhaka nipāta, 2 Mahāvagga, Sutta No. 09
Pahārāda Suttaṃ
大海の八つの不思議
阿修羅は大海が好き
パハーラーダ(Pahārāda)という名の阿修羅がいました。
まず、「阿修羅」とは何かを考えてみましょう。阿修羅はパーリ語でasura と言います。asura のsura は「神」という意味で、asura のa は「無」または「非」、いわゆる否定するときの接頭辞です。この二つの語を合わせると、「非神」とか「無神」となりますが、そういいましても、阿修羅は神の一種ですし、意味がよくわかりません。
ギリシャ神話には神々がいて、その神々と戦うもう一種の神々がいます。この神々と戦う神々のことを「タイタン族」と言います。asura はちょうどこのタイタン族のような存在で、英訳するときは「タイタン族」とすることもあるのです。
仏教では、阿修羅は神霊の一種とされ、仏典にときどき登場しています。
この経典は、お釈迦様がヴェーランジャー街のナレールプチマンダ樹の下に座っていたとき、パハーラーダ阿修羅と対話した記録です。ナレールプチマンダというのはどのような種類の樹かわかりませんが、その樹の下に座っていらっしゃったときの対話です。
パハーラーダが、お釈迦様に礼をしました。そうすると、お釈迦様は先にパハーラーダにこのように尋ねました。
「君たち(阿修羅たち)は大海が好きですが、それはなぜですか?」
パハーラーダは答えました。
「尊師よ、大海には八つの不思議があります。だから我々は大海が好きなのです」
そして、八つの不思議を次のように説明しました。
1. anupubbaninno anupubbapoṇo anupubbapabbhāro , na āyatakeneva papāto
大海は徐々に深くなる。最初から深淵ではない。
大海というのはだいたい徐々に深くなるのであって、崖のように突然ガクンと深くなるわけではありません。これが大海の不思議なところの一つです。
2. mahāsamuddo ṭhitadhammo velaṃ nātivattati
大海は安立している。決して岸を超過しない。
川とは違います。川は突然洪水になって民家を台無しにすることもありますが、海はそのようなことはありません。落ち着いていて安定しています。(でも、津波の場合はどうですかと聞かないでください。阿修羅たちはそこまで細かく考えていないようです)
3. mahāsamuddo na matena kuṇapena saṃvasati
大海は死骸や腐敗物と同居しない。腐敗物をたちまち陸に捨てる。
大海は、死骸や腐敗物などの汚い物とはまったく関係がありません。すぐに捨て去ります。たとえばクジラが死んだら、その死骸は波に流されて、どこかの陸にあげられるように。
(そうはいっても、実際のところ、陸にあげられる前に他の魚に食べられる生き物もいくらでもいます。パハーラーダはそこまで考えて言っているわけではなく、ただ陸から海を眺めたときに見える自分の感想をちょっと述べているだけです。海を眺めていると死骸などが陸にあげられるのが見える、そのことを言っているのです)
4. yā kāci mahānadiyo, seyyathidaṃ_gaxgā yamunā aciravatī sarabhū mahī, tā mahāsamuddaṃ patvā jahanti purimāni nāmagottāni,’ mahāsamuddo’ tveva saxkhaṃ gacchanti
ガンガー、ヤムナー、アチラワティ、サラブー、マヒーなどの大河は大海に流れ、 どの大河もたちまち元の大河の名前を捨てて、一つの「大海」になる。
これも大海の不思議の一つです。ガンガー、ヤムナー、アチラワティ、サラブー、マヒーなどの大河は、インドにある大きな河です。現在もあります。ガンガーは大変有名で、インド人にとっては河の王様のような河です。「ガンガー」はそれ自体が「河」という意味で、ヤムナー、アチラワティ、サラブー、マヒーなどのように個々に名前が付いているわけではありません。
「河=ガンガー」なのです。日本語では「ガンジス河」としてよく知られています。
そこで、あちらこちらからいろいろな河が大海に流れ込んできますが、大海に入った時点で大海に溶け込んで混ざり合い、元の河は何かということがまるっきりわからなくなるのです。これも大海の不思議なところの一つです。
5. yā ca loke savantiyo mahāsamuddaṃ appenti yā ca antalikkhā dhārā papatanti, na tena mahāsamuddassa ūnattaṃ vā pūrattaṃ vā paññāyati
世界中の河々が大海に流れ込み、また空からは雨が降り落ちてくる。しかし大海は減ることも増えることもない。
世界中のいろいろな河々が海に流れ込んできますから、海の量は増えるはずです。でも、全然増えません。湖には増えたり減ったりする現象はありますが、海にはないのです。
また、空から降り落ちてくる雨の量は相当なものです。ちょっと豪雨になると、陸では災害にもなるほどですから。でも、大海は増えたり減ったりすることもなく安定しています。これも大海の不思議なところの一つです。
6. mahāsamuddo ekaraso loṇaraso
大海の味は一貫して塩味である。
世界中どこでも大海の味は塩味です。
7. mahāsamuddo bahuratano anekaratano
大海には大量の宝物がある。
大海には真珠や瑠璃、真珠母貝、石英、珊瑚、金、銀、水晶、猫目石などの宝石がいろいろあります。おそらく昔のインドの人たちは、海の深いところには種々様々な宝物がいっぱい眠っていると想像し、海に憧れていたのでしょう。
現代科学から見ても、海には金、銀、銅などが大量に溶けていますが、残念ながら工業的にとり出すことができません。海の中にはかなりの財産があります。ただ使えないだけなのです。
8. mahāsamuddo mahataṃ bhūtānaṃ āvāso
大海は巨大な生命の住すみか処である。
大きな身体を持つ生き物は、だいたい海に生息しています。経典にはその生き物の名前がいくつか列挙されていますが、ただ現代ではクジラ以外の生き物はみんな絶滅していますし、名前を挙げても私たちにはどんな生き物かわかりませんから、ここでは省略いたします。
このようにして、パハーラーダ阿修羅は「大海には八つの不思議があります。だから我々は大海が好きなのです」と答えました。
私の個人的な感想としましては、インド人、とくにインドの中央部に住んでいる人たちにとっては、海は未知なるもので、一生海を見ないという人はいくらでもいます。そういう人たちは海を神秘的なものだと考えて、海に憧れるのです。ですから「海は不思議」といいましても、そこに何か特別な神秘的な意味があるのではなく、ただ「海はいいなあ、不思議だなあ」と憧れている程度の不思議なのです。
この施本のデータ
- 仏道の八不思議
- pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2011年5月11日