パティパダー巻頭法話

No.275(2018年1月号)

新年を祝して

幸福を理解しないと幸福にならない Wisdom leads you to happiness

アルボムッレ・スマナサーラ長老

釈尊の説かれた最勝の真理を学び歩んでいる皆様方が、新しい年も幸福でありますようにと、こころから祝福いたします。人間にとって、真理を学ぶ機会に恵まれることに勝るしあわせはありません。人々はしあわせを目指して頑張っています。しあわせになる方法をいろいろ考えているのです。その結果、しあわせになる方法がたくさん世にあるようです。もし、一つの方法で人が確実にしあわせになるならば、他の方法は無効になるはずです。でも、まだそれは見つからないようです。ならば、人間はこれからも幸福になる方法を考えて悩み続けることでしょう。

「物質的に豊かになれば幸福になるはず」と思って努力した結果、地球上の一部の人間は豊かになりました。しかし、幸福にはなっていません。むしろ、たくさん問題を抱える結果に陥っています。幸福は精神的なものだと思っている人々もいる。でも、どうすれば精神が幸福に達するのか、という明確な方法はないようです。幸福に達するどころか、精神とは何なのかともわからぬまま、未だ議論中です。幸福という概念で、私たちは何を探し求めているのかと理解しておけば、この問題を解決に近づけられるでしょう。お釈迦さまは、「最高の(絶対的)幸福とは涅槃である(nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ)」と説かれました。問題は、人間には涅槃(nibbāna)という概念が理解できないことです。ゆえに、順を追って説明する必要があります。

主観的幸福

人間一人ひとりは、自分固有の幸福観を持っています。そして、その幸福観から導き出した自分の幸福論に固執しています。他人の話など聞きたくはないのです。他人の話を聞いてみても、それはその人の主観になるので、さほど役に立ちません。他人に言われるままに生きようとすると、自分自身の自由も失ってしまいます。自由を失うと、また人は不幸を感じます。一神教を信じる方々は、神様に絶対服従することを教えられています。要するに、幸福になるためには「人間としての自由」を手放さなくてはいけなくなるのです。ひとには自分の主観で考える幸福が本物であるかどうか分からない。かといって、他人が教えてくれる幸福論が本物であるという保証もありません。だったら、自分固有の幸福観を持つこと自体が、幸福に達する障害になっていると理解してみては如何でしょうか?

他力の幸福

「自分以外の何かの力によって幸福を恵まれる」という考えがあります。しかし、自分以外の力とは何なのかはっきりしないので、人間は延々と考えている。これも未だに議論中です。もし、「人を幸福にしてあげることが自分の仕事だ」と考える超越した力があると推測すると、そいつはとてもいい加減で、人類を悉く幸福にしてくれていないと分かります。要するに、自分の仕事をやっていないのです。この考えを謳う方々は、「問題は人間の側にあるのだ」と恵みを求める人間のせいにします。ある一人が頑張ってその条件を揃えたとしましょう。彼はそれによって幸福に恵まれます。もしも、その幸福が自分の主観に合っていれば、満足できそうに見えます。しかし、彼の幸福観が間違っていたならば、かわいそうな結果になります。超越した力とやらが、自分の立場で考えた幸福を与えたとしたら、恵みを与えられる個人が満足しない可能性もあります。「そんなはずではなかった」という気分にも陥るかもしれません。

もう一つ、問題があります。「幸福は他者から恵まれるものである」とするならば、我々は他力に依存しなくてはいけなくなります。依存とは、自由がない状態です。何一つも自由が成り立たない生き方はみじめなものです。「幸福」と「みじめ」という二つの概念は、決して両立しないのです。

自力の幸福

自分の力で幸福になるならば、その人は自由です。決してみじめになりません。満足して生きることもできます。そこで問題になるのは、「自分の力はどこまであるのか?」ということです。個々の人間はたいした力を持っていません。個人はほとんど力を持っていない、と言ったほうがベターな表現かも知れません。個人が、自分の考える幸福に自力で達したとしても、他人の生き方と比較して見ると「それでいいのか?」という疑問が生じます。不幸な人と比較すれば自慢できるかもしれないが、より幸福に見える人と比較すれば落ち込むはずです。自力の幸福もまた、こんな程度です。

はじめから考えなおす

夏になると蝉たちが一斉に鳴きだします。相当うるさいのですが、なんのために鳴くのかは蝉に訊けないからよく分かりません。間もないうちに、蝉たちはみな死んでしまいます。実は、人間も蝉と同じことをやっています。「幸福になりたい」と一貫して思っているのに、幸福に達する前にむなしく人生を終えるのです。幸福になりたいという、こころの叫びを考えなおしましょう。そうすると、いままで説明したとおりの矛盾が成り立たない、幸福に達するための新たな道を発見できるはずです。お釈迦さまは、「幸福になりたい」という人間のこころの叫びに混じることはしませんでした。その代わりに、考えなおすことにしたのです。その結果、究極の幸福に達しました。さらに、その究極の幸福に達する方法を私たちにも教えてくださったのです。

なぜ幸福を期待するのか?

考えなおすことの第一ステップはこれです。なぜ、そんなにも幸福を期待するのでしょうか? なぜ、人間は幸福に飢えているのでしょうか? 「いま、私は幸福ではない。いま、不幸である。不満である。」いたって簡単ですが、それが答えです。経験したことのない幸福を期待しても、単なる妄想概念になります。だから、幸福を目指して闇雲に、なんでもいいからやってみる生き方を止めるのです。まず、生きること自体が「苦」であると認めること。これは簡単ではありません。命はなにより大事だ、生きられることはさいわいだ、などなどの感情的な言葉で、我々のこころは洗脳されています。新たに考えなおすことが不可能になるほど、こころの機能が壊れているのです。文化・宗教・一般常識・聖書・伝統・歴史などなどの先入観に染まることなく、客観的に生きることを観察しなくてはいけない。こころの洗脳が無くなった結果はじめて、客観的な事実として「生きることは苦である」と発見するのです。

なぜ「苦」なのか?

生きるプログラムは皆に同じです。生まれて、大きくなって、老いて、病に倒れて、最終的に死ぬ。それは生老病死というフレーズでまとめられています。生きるプログラムは、すべての生命に平等です。それを意図的に、苦とも楽とも判断する必要はないのです。なぜ、生老病死の決まっているパターンに納得して、幸不幸という概念を捨てないのでしょうか? なぜ、捨てられないのでしょうか? なぜ、生きることが苦であると見なして、経験したことのない幸福を目指しているのでしょうか?

これが考えなおすステップの二番目になります。答えは、愛着です。生きることに対して、私たちは愛着を持っています。いくら愛着を抱いても、生老病死の流れは皆に平等なプログラムです。それは変えられない自然法則です。愛着という感情は、自然法則に逆らおうと企むのです。これに匹敵するような愚かな行為は他に存在しません。自然法則に勝てるはずがないのです。それは自分好みで地球の自転を止めようとするような振舞いです。老いることが無ければ、命は成り立ちません。でも、人は老いたくない。病が無ければ、命は成り立ちません。なのに、人は病に罹りたくない。病とは、風邪をひいたり、高血圧になったり、癌になったり、認知症になったりすることだけではありません。もっと微妙です。一個一個の細胞には、簡単に壊れてしまう恐れがあります。だから、お腹がすく、のどが渇く、なども病なのです。細胞にたえず酸素を供給しなくてはいけないので、呼吸することすら、病があることになります。つまり、病が無ければ命は成り立たない、と理解しなくてはいけないのです。しかし、人間は病と対立しようとしています。死が無ければ命は成り立たないにも関わらず、死を嫌がるのです。あり得ないことを期待するから、不幸を感じるのです。そこでさらに、あり得ない幸福を妄想して、頑張ろうとする。なおさら苦しくなって、失望感に襲われるのです。

不安と不満

生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、生きることは老いと病の連続です。私たちは、必死に手当てをしています。手当てをしたところで、老いと病は無くなりません。だから、手当てにも終わりがないのです。死ですべてストップになるまで、身体を維持するために手当てをしている。だから、暇はないのです。食べても、再び食べなくてはいけない。飲んでも、再び飲まなくてはいけない。一回食べたからといって、満足に達するはずがありません。不満が必要です。不満があるから、次に別なものを食べたり、より美味しいものを食べたりするのです。何を食べても、何を飲んでも、適当に運動をしても、他のさまざまな方法で身体の面倒を見てあげても、老いと病は流れています。ですから、つねに不安なのです。ちょっとした失敗でも、生きることが死で終わるかもしれません。死ぬことは驚くに値しない自然現象ですが、人は死にたくはないのです。考えなおしましょう。命によけいな愛着を抱いたから、生きることが苦そのもの、不幸そのものに変わってしまったのです。

期待の暴走

生老病死は自然です。ひとは不生不老不病不死を期待します。しかし、この根本的な期待を実感しないで、より俗っぽいところに気づくのです。お金が欲しい、御馳走を食べたい、美しい服を着たい、贅沢をしたい、人気者になりたい、皆に認められたい、キレイになりたい、ブランド品で身を飾りたい、友達と遊びたい、世界旅行をしたい、知識を増やしたい、などなどの無限のリストがあります。これは期待の暴走です。何かを期待するとは、そのものが自分に無いということです。これは、「満たされていない」という苦です。自分にあるものに期待する人はいません。期待を抱くとは、「苦からは離れない」という意味です。期待に満ちた人生とは、苦と不満に満ちた人生です。生老病死に対立しようと思った愚かな感情は、限りのない期待を生み出して、限りのない苦をつくるのです。

取る世界、捨てる世界

何かを取ること、何かを得ることが、ふつうの生き方になっています。そして、取得したものに依存し、頼るのです。取得するたびに、取得したものが増えるたびに、依存は強くなります。頼るものが増えていきます。結果として、自立することが消えます。考えなおしましょう。取得することは可能でしょうか? 実は不可能です。取得と称して、世の中にあるものの一部を自分の個人財産だと勘違いしているにすぎないのです。苦労して金を儲けたとしても、結局は自分自身の金ではないのです。自分の家、自分の土地などなどと言っても、決して自分自身と一体になっているわけではありません。取得したと思ったものはすべて世間のもので、世間の法則に左右されます。取得した知識さえも、同じ運命です。世間の知識が変わった時点で、自分の知識は無効になります。自分の身体が衰えたら、知識はなんの躊躇もなく頭から抜け落ちてしまうのです。裸で何も持たずに生まれる我々は、気が狂ったような感じで取得に挑戦します。調子に乗って、国をまるごと取得して独裁者になる人々もいる。しかし、大富豪もホームレスも、すべてを捨てて死ななくてはいけないのです。この身体さえ、自分のものではありません。身体は身体の法則で変化してゆくものです。結局、何一つも取得できない、取得は不可能ということが事実なのです。それに逆らって取得の戦いに挑む人間が取得するものといえば、悩み・苦しみ・不満・落ち込み・怯えだけです。世間は取得の道を歩んで「苦」を取得します。幸福になる道の反対を歩んでいるのです。

幸福になりたければ、取得の道ではなく「捨てる」道を選ばなくてはいけない。捨てるという単語は、取得という単語の対義語に過ぎません。何か具体的に捨てる必要は無いのです。なぜならば、もともと自分は何も取得していないからです。「たくさんのものを取得しているのだ」という錯覚に陥っているだけです。ここで「捨てる」というのは、「執着しない」という意味です。身体を維持するために、食事をします。でも、食べ物に執着はしません。身体を自然から守るために、服を着ます。でも、服に執着はしません。呼吸がよい例になるでしょう。呼吸しないと、ただちに死にます。でも、人は空気に執着しないのです。執着しないから、楽です。死ぬまで身体を維持するために必要なさまざまなものも、空気のように使えるはずです。「私のもの」にする必要は無いのです。それは不可能です。

取る道は人の自由を奪い、こころを依存させます。想定できる苦しみも、想定外の悩み苦しみも惹き起こすのです。捨てる道、要するに無執着の道を選んだ人は、その時点から安穏を感じ、幸福を感じます。満たされていない気分、気持ちから解放されます。無執着がこころの衝動になった時、その人は究極の安穏に達しているのです。お釈迦さまはそれを「涅槃」という言葉で表現しています。ありのままに、客観的に、「生きるとは何か?」と観察することで、人は究極の幸福に達するまで進むことができるのです。

幸福の道

幸福とは、他人から恵まれるものではありません。洗脳されて壊れたこころで生きている個人が、自力で達することもできません。ひとはすべて、新たに考えなおさなくてはいけないのです。そして、命のカラクリを発見するのです。取得の道は法則違反だと発見するのです。捨てる道を選んで、無執着の精神に達するのです。これが仏道であり、幸福の道です。仏法を学ぶ人は、それだけでもこころの安らぎを感じます。皆様は、自分が幸福に達する道を歩んでいるのだと再確認して、有意義な一年を過ごしてください。

三宝のご加護がありますように。