No.78(2006年6月)
真珠物語②
Mahāsāra jātaka(No.92)
(前回からのつづき)
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はあらゆる技芸に秀でた有能な大臣として、王に仕えていました。ある日、王は、家臣や宮女たちを引き連れ、御苑へ野遊びに出かけました。王は林の中を散歩してから、水遊びのために、宮女たちを呼びました。宮女たちはイヤリングや首飾りなどの宝石類を取り外して上着に包み、下女に番を命じて、蓮池に入りました。
御苑に住む一匹の雌猿が、国王の第一王妃が美しい大粒の真珠の首飾りをはずすのを、木の上から見ていました。雌猿は、その美しい首飾りを自分の首にかけてみたくてたまらなくなりました。雌猿が何とかできないものかと様子をうかがっていると、見張りの下女が居眠りをはじめました。雌猿は、木の上から風のようにふんわりと飛び降りて、真珠の首飾りを首にかけ、再び風のようにふわっと木に飛び上がりました。そして、少し離れた木の穴の中に首飾りを隠して知らんぷりをしていました。
居眠りをしていた下女は、目が覚めて、王妃の真珠の首飾りがなくなっていることに気づきました。驚いて怖くなった下女は、「たいへんです!男が王妃様の首飾りを盗って逃げました!」と大声をあげました。人々がたくさん集まって来ました。事件の報告を受けた王は、「盗賊を捕らえよ」と命じました。家来たちは御苑の外まで泥棒を捜し回り、「盗賊を捕まえろ、怪しい男を捕まえろ」と大騒ぎをしました。ちょうどそこに、神々に供物を捧げようと田舎から出て来ていた一人の田舎者がいました。彼は王の家来たちの大声と大騒ぎに驚いて、震えながら逃げ出しました。皆は彼を追いかけて捕え、「この悪党め!おまえがあの高価な首飾りを盗もうとしたのか」と大声で罵りました。男は、「もし私がここで『私は知りません』と言ったりしたら、すぐに殴り殺されてしまうだろう」と思い、「はい、旦那様、私が盗りました」と言いました。
男は王のもとへ連れて行かれ、審議のための問答が交わされました。「汝(なんじ)は首飾りを盗ったのか」「はい。大王様」「首飾りはどこにあるのだ」「大王様、私は高価なものというものは、寝台と椅子でさえ見たことがないのです。実は、大長者が私にあの高価な首飾りを盗ませました。私は首飾りを長者様に渡しました。首飾りの場所は長者様が知っているでしょう」。
王は大長者を捕らえさせ、大長者に訊きました。「汝はこの男から首飾りを受け取ったのか」「はい、大王様」「首飾りはどこにあるのだ」「司祭様に差し上げました」。そこで王は司祭を捕らえさせ、司祭に訊きました。「汝は長者から首飾りを受け取ったのか」「はい、大王様」「首飾りはどこにあるのだ」「あれは音楽師に与えました」。そこで王は音楽師を捕らえさせ、音楽師に訊きました。「汝はこの男から首飾りを受け取ったのか」「はい、大王様」「首飾りはどこにあるのだ」「愛欲にかられ、美しい遊女に与えました」。そこで王は遊女を捕らえさせ、遊女に「汝はこの男から首飾りを受け取ったのか」と訊きました。すると遊女は「私はもらっていません」と答えました。
この五人を調べているうちに、日が暮れて暗くなってきました。王は、「今日はもう遅い。明日また取り調べることにしよう」と、五人を大臣である菩薩に渡し、自分は城に戻りました。
菩薩は考えました。「真珠の首飾りは御苑で盗られた。しかしこの田舎者は、御苑の外にいた。御苑の門には、力の強い番人が見張りをし、御苑にはたくさんの家来たちがいた。御苑の中にいる者でさえ、首飾りを盗って逃げるなどということはできないことだ。まして、御苑の外にいた者には不可能だろう。ということは、彼は首飾りを奪うことなどできなかったはずだ。この不運な男は、『私が盗って長者に渡しました」と言ったが、それは自分が許されたいためだろう。長者が『司祭に差し上げました』と言ったのは、司祭と共にいる心強さがほしかったのだろう。司祭が『音楽師に与えました』と言ったのは、音楽師のお陰で気楽になりたかったのだろう。音楽師が、『遊女にやりました』と言ったのは、嫌な状況を楽しくしたいという気持ちから、そう言ったのだろう。この五人は、いずれも泥棒ではないのであろう。御苑にはたくさんの猿たちがいる。あの首飾りは、御苑に住む雌猿が盗んだに違いない」。
次の日、菩薩は王のところに行き、「大王様、あの五人を私にお預けください。この事件は、私の手で解決したいと思います」と申し出ました。王は「よろしい。汝がこの事件を解決するように」と、同意しました。
菩薩は家に五人を連れて帰り、召使たちを呼んで、「あの五人を一緒の部屋に入れ、しっかり番をするのだ。そして、彼らが互いに話すことをよく聞いて、何を話していたか私に報告しなさい」と命じました。
五人を同じ部屋に入れたところ、長者が田舎者に向かって怒鳴りました。「おい!田舎者の悪党め!おまえは私とどこで会ったことがあるのだ。いつおまえは私に首飾りを渡したというのだ」「大長者様、私は高価な品物というものは、樹の芯で作った寝台や椅子でさえも見たことがありません。実は、大長者様に頼って何とか許されたいと思い、あのようなことを言ったのでございます。どうか、大長者様、怒らないでください」。司祭も長者を怒鳴りつけました。「大長者!そなたは自分でもらいもしないものを、どうやって私にくれたというのだ」「司祭様、我々二人は、人の上に立つ者です。二人が一緒にいれば事件が早く解決するのではないかと思い、そう言ったのです」。音楽師も司祭に怒って言いました。「司祭よ!いつ私に首飾りをくれたというのですか」「音楽師よ、私は君が一緒にいると気楽にいられると思って、そう言ったのだ」。遊女も音楽師に怒って言いました。「音楽師さん!あなたは本当に悪い人ね。私がいつあなたのところに行きましたか。あなたが私のところに来たことがあるというのですか。あなたはいつ、私に首飾りをくれたというのですか」「女よ、なぜそんなに怒るのか。我々は家族のように一緒にいることになる。だから、嫌でなく楽しくいたいと思って、そう言ったのだ」。
菩薩は使用人からこれらの話を聞いて、彼らが泥棒でないことを確信しました。そして、「やはり盗ったのは御苑の雌猿に違いない、何とかして首飾りを取り戻してやろう」と思いました。
菩薩は、ガラス玉でたくさんの首飾りを作らせました。そして、園内の雌猿たちを捕らえさせ、首にガラス玉の首飾りを着けて放させたのです。菩薩は御苑の番人たちに、「おまえたちは御苑に住む猿たちを見張れ。真珠の首飾りをした猿を見つけたら、その猿を脅して真珠の首飾りを取り戻せ」と命じました。
真珠の首飾りを盗んだ雌猿は、首飾りを大切にして、ずっと首飾りの近くを動かずにいました。ガラス玉の首飾りを首にかけられた雌猿たちは、「首飾りをもらった」と大喜びで園内を飛び回りました。彼女たちは、真珠の首飾りを盗った雌猿にもそれを見せびらかして、「きれいな首飾りだよ」と自慢しました。真珠の首飾りを盗った雌猿はついに我慢できなくなって、「そんなガラス玉の首飾りなんか、なんだ」と言って、真珠の首飾りを着けて皆の前に現れました。御苑の番人がそれを見つけ、雌猿を捕らえて真珠の首飾りをはずし、菩薩に渡しました。
菩薩は、無事に戻った真珠の首飾りを王のもとに届け、「王様、首飾りが戻りました。あの五人の者は、泥棒ではありませんでした。首飾りは、御苑に住む雌猿が奪って、木の穴に隠していたのです」と報告しました。王は驚いて、「いったいどのようにして、これを雌猿が持っていることを知ったのか。そして、どのようにしてこれを取り戻したのか」と菩薩に訊きました。菩薩はそれまでのいきさつを話しました。国王はたいへん満足して次の詩を唱えました。
戦争には勇者を
相談には言葉の曖昧でない者を
食事には親しき友を
事が起きたときには賢者を
王は菩薩をほめたたえ、雲が大雨を降らすようにたくさんの七宝を与えました。王はその後も大臣である菩薩の教えにしたがって布施行などの善行を積み、自分の行為にふさわしいところに生まれ変わっていきました。
お釈迦さまは過去の話を終えられ、「その時の王はアーナンダであり、賢い大臣は私であった」と言われ、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
頭が切れる人間になるようにと戒めるためのエピソードです。仏教は、理性的で賢い人間になることを礎(いしずえ)にしています。ジャータカ物語は、この教訓を示すものが殆どです。人の智慧が役に立つか立たないかは、その人の判断能力によって明確になります。ですから「審判」をネタにした物語も多数あります。今回の物語は、智慧ある人は正しい判断で問題を解決して皆に幸福を与えるという話です。
「仏教徒は頭が賢くなければいけません」というと、生まれつき頭の回転が遅い人はどうするのかと疑問に思うかもしれません。頭の回転が遅いのは妄想するからです。必要なものだけは除いて、必要でないもの、どうでも良いもの、役に立たないもの、能力が浪費するもの、感情を引き起こすものなら、何でも妄想するのです。生まれつき頭が悪いと言うことは難しいのです。障害を持って生まれて脳が正常に機能しない場合は誰でもわかりますので、そのような人に難しい判断を迫ったり、智慧を借りたりはしないのです。その他の人々は、頭が悪いのではなく、どの程度妄想にふけっているのかを見た方が良いのです。妄想にふけっている程度が強ければ強いほど頭が悪いのです。回転が鈍いのです。妄想を停止する訓練をするならば、人は誰でも賢くなるのです。
頭の回転が早く賢くなるためには、妄想を制御しなくてはいけないのです。その実践をする人が、ヒューマリスト(ユーモアがある人)であるならば、結果が早いのです。今回のジャータカ物語の中にも、ユーモアが充分入っています。しかし、仏教は品のない笑いを禁止しているので、落語などとは違って、ユーモアがどこにあるのかと疑問に思うおそれもあるのです。
下女がしっかり見張りをやらないで、居眠りをする。真珠のネックレスがなくなる。自分の過ちを平気で棚に上げて、「泥棒、泥棒」と叫ぶ。何でも感情的に叫んだら安全だと思う女性たちの性格に、笑っているのです。女性だけをからかったら性差別です。軍人の家来が、バカみたく走り回る。高価なネックレスを盗むくらいの泥棒ならば、街の住人であることは明白です。僻地には泥棒はいないのです。なのに、大騒ぎに脅えて逃げる田舎者を捕まえる。これが国王を守る軍人の態度です。ここまでは嗤(わら)いです。
次に、もっと理性的な笑いが出てきます。権力を持った無知な人々に、話は通じないのです。権力者は、根拠があってもなくても、自分が言うことは正しいと頑固に言い張る愚か者です。愚か者に対して弁解しても、無意味です。だから田舎者は、いとも簡単に「はい、私が盗みました」と認めるのです。ここで権力者の愚かさに笑う。間違いを犯しても、裁判にかけられても、金持ちは金で見事に逃げる。現代と同じです。寝台と椅子さえも見たことがない田舎者は、金持ちに便乗すれば何とかなるだろうと思う。金持ちが、影響力ある人に便乗すれば何とかなると思う。音楽家は、どうせ殺されるなら短い間楽しくいようと思って遊女を巻き込む。男は決まって女にいじめられるので、遊女は「ネックレスをもらっていない」と怒る。
菩薩が雌猿たちにガラス玉の首飾りをつけられたところで、一般の女性たちの心理状態を面白可笑しく表現しているのです。安物で自慢されることに我慢できなかった泥棒の雌猿は、ブランド志向を剥き出しにしようとしたところで捕まってしまうのです。このように、一人残らず、皆の人間らしさに笑いつつも、智慧の素晴らしさを謳っているのです。何があっても、私たちもユーモアの精神を持ち続けるならば、賢い人間になるのではないかなあと思います。試してみなきゃわかりません。