No.91(2007年7月号)
象のお腹に入った狐
Sigāla jātaka(No.148)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の舎衛城(しゃえいじょう)近郊の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
ある時、舎衛城に住む五百人の大金持ちの息子たちが、お釈迦さまの法話を聞きました。法話を聞いて感動した息子たちは、悟りを得るための道を歩もうと決意しました。彼らは仲の良い友人たちだったので、皆で出家しました。出家して比丘となった若者たちは、祇園精舎で共に修行していたのですが、そのうちに若い心に愛欲の煩悩が生じ、出家を後悔する気持ちが生まれてきました。在家に戻って再び自分の欲を満たしたいという煩悩が力をふるいだしたのです。
お釈迦さまは、慈悲の目で祇園精舎の修行僧たちの心を観察され、彼らの妄執をご覧になりました。釈尊は、母親が一人息子を見守るように、片目の人が一つの目を大切にするように、弟子たちを護られます。修行僧たちが欲の妄執で苦しめられているのであれば、直ちにそれを静めようとされるのです。この時も、「私は転輪王(てんりんおう)がその統治する国土を素早く巡って定め鎮(しず)めるように、すみやかに彼らの煩悩が静まるようにしてあげよう」と思われました。そして、「五百人の若い比丘たちだけを集めて説法したならば、彼らは自分の煩悩を師に知られたことを気にして、素直に法に耳を傾けることができないだろう」と、アーナンダ尊者に、祇園精舎にいるすべての比丘たちを集めるようにと命じられました。アーナンダ尊者は祇園精舎をくまなく廻り、すべての修行僧たちに釈尊の法話が始まることを伝えました。
祇園精舎にいるすべての比丘たちが集まりました。お釈迦さまは、大きな岩の上の須弥山(しゅみせん)のように堂々と、高い場所に用意された座に端正に坐られました。お釈迦さまの頭の周りからは六色の光明が光を放ち、まるで大海の底から暁の太陽が頭を出した時のようでした。その輝きは天にまで届いていました。比丘たちはお釈迦さまに礼拝し、それぞれ座に着きました。
お釈迦さまは、聞く者の心をつかむすばらしい声で法話を始められました。「比丘らよ、比丘たる者は、貪欲の思い、怒りの思い、害意のある思い、という三つの不善の思いに気をつけるべきです。心の中に起こる煩悩は、それがいくら小さくても、これぐらいは大したことはないと考えてはならない。いかなる煩悩も最大の敵だと知りなさい。たとえ小さな敵であっても、バカにすることはできません。小さな煩悩も、強い破壊力を持つようになる。わずかな煩悩であっても、いつ増大して、大きな破壊をもたらすかはわかりません。毒のように、痛みのように、毒蛇のように、雷のように、煩悩を怖れなければならない。たとえ一瞬サッと生まれただけの煩悩であっても、自己をよく観察し、わずかでも自分の心に留めることのないように。あたかもハスの葉が水滴を瞬時に転げ落とすように、直ちにそれを消し去るように気をつけなければならないのです。昔の賢者たちは、煩悩を観察し、懺悔して、再び心に煩悩が生じないようによく気をつけた」と説かれ、過去の物語を話されました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は狐として生を受け、ガンジス川の傍の森に住んでいました。
ある日、菩薩の狐がお腹を空かせて食べ物を探して歩いていると、一頭の老いた象がガンジス川の河辺で死んでいるのが見つかりました。「これは大きなごちそうを見つけた」と喜んだ狐は、まず老象の鼻に噛みつきました。けれども象の鼻は鋤(すき)を噛むように固く、まるっきり歯が立ちませんでした。そこで次に、耳に噛みつきました。しかしここは笊(ざる)の端を噛むようにカスカスしていて、まったく味気ないものでした。次に、お腹を噛んでみましたが、死んだ老象の大きなお腹はそれこそ穀物倉のようなもので、とても食べられたものではありません。次に足を噛んでみましたが、象の巨大な足はずっしりと重く、石臼(いしうす)を噛むようなものでした。次に、しっぽを噛みました。しっぽさえもカチカチになっていて歯が立たず、杵(きね)を噛むようなのです。これはもう、この象を食べることなど無理ではないかと思われるほどでしたが、菩薩の狐はあきらめず、どこか食べられるところはないかと、次々に試してみたのです。
ついに食べられるところを見つけました。象の肛門のあたりは柔らかく、まるでお菓子のようにおいしかったのです。ひどくお腹が空いていた狐は、喜んで食べ始めました。おいしくていくらでも食べられます。そのままドンドン食べ進み、お腹が一杯になってから、自分の住み家に戻りました。
次の日、菩薩の狐の足は、自然に象のごちそうの方に向かいました。もう、どこから食べればいいかとわかっています。どんどん食べつづけてふと気がつくと、狐はいつのまにか象のお腹の中へと入り込んでいました。狐はそのまま、象の腸や腎臓、肝臓、肺臓などの内臓を食べ、満足して住み家に戻ったのです。次の日も、また次の日も同様でした。そういうことを繰り返しているうちに、象のお腹はとても居心地の良い場所になりました。そして狐の心に、「いっそここに住めばどうだろう」という思いがわいたのです。お腹が空くと、いくらでも食べ物があります。喉が渇くと象の血を飲みました。そして、狐は、象のお腹の中で暮らすようになったのです。
ところが、そのまま何日か経つと、強い太陽に照らされた象の死骸は、少しずつ乾燥してきました。だんだんと死体が縮み、入り口も小さくなって、中が暗くなってきたのです。ある時、入り口が完全にふさがって、毛の先程も見えない真っ暗闇になりました。象のお腹は、世間から隔絶した閉ざされた空間になってしまったのです。
菩薩の狐は初めて恐怖を覚えました。あちこち出口を捜しましたが、どこにも出口は見つかりません。だんだん血も渇いてきて、飲み物も不足してきました。肉も固くなってきました。狐は、グツグツ煮えるお釜の中で米粒が動き回るように、真っ暗な象のお腹の中で出口を探しました。
その時、雨が降り出しました。雨は激しい大雨となり、乾ききっていた大地は潤され、象の死骸も少しずつ湿り気を取り戻してきたのです。
ついに、象のお腹の中に入ってきたところがわずかに開き、星のようなかすかな光が差し込みました。菩薩の狐はその光に向かって全力で突進し、必死で突き進んで、やっとのことで象のお腹から這い出しました。しかし、お腹から出るための穴はあまりにも狭かったので、外に出る時に体中の毛が抜けてしまったのです。狐は、変わり果てた自分の体を見て、思わず走り出しました。しばらく走ったところで立ち止まり、再び自分の体を見て、しみじみと思いました。
「これは他の誰のせいでもない、自分自身の貪りのせいだ。自分の行為の結果、こんな有り様になった。これから私は決して貪欲は起こさないことにしよう。それと、どんなことがあっても、象のお腹の中には二度と入らないぞ」。そして、菩薩の狐は、次の詩を唱えました。
ひとたび、ふたたび
またみたびとなりぬ
象の腹には入らぬぞ
命取りなり誘惑の恐怖
菩薩の狐は、それ以降は象の死骸にはまったく見向きもせず、貪欲の煩悩を起こすこともありませんでした。
お釈迦さまは、「その時の狐は私であった」と言われ、過去の話を終えられました。
そして、「比丘らよ、心の中に貪欲を育ててはならない。常に自分の心を調御し、心に生じた煩悩をすぐに取り除きなさい」と、四聖諦の真理の法を説かれました。
その法話を聞いて、五百人の比丘たちは、ある者は阿羅漢果の悟りを得、ある者は不還果の悟りを得、ある者は一来果の悟りを得、ある者は預流果の悟りを得たのでした。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
欲の考え、怒りの考え、恨み憎しみの考えなどを、我々は簡単にするものです。そして、一旦心の中にこのような思考が入ってしまえば、どこまででも同じ妄想をし続け、「ただ考えるだけ」と軽く思ってその危険を無視するのです。仏教は、犯罪よりも汚れた思考の方が大変危険だと説くのです。犯罪というのは長い間回転させた悪思考の結果なのです。犯罪は繰り返し繰り返し無限に犯すことは不可能ですが、妄想は限りなくやり続けるのです。
欲、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、落ち込みなどの妄想の種が心に入ったら、ウィルスのように限りなく繁殖していく。本人は完全に支配されるのです。妄想の奴隷になるのです。自由を奪われ、いくらやりたくても、明るい思考、清らかな思考ができなくなるのです。心の中にはいっぺんに複数の思考は流れないのです。悪思考の妄想に陥るというのは、想像を絶する危険なものであると理解しなくてはならないのです。
心理学では、たくさんの精神病を発見しています。精神的な病で苦しんでいる人々の思考パターンを見て、学術的な病名をつけてあげるのです。患者さんも、「私は○○症だ」と思って諦めるのです。仏教から見れば、精神病はたくさんあるかもしれませんが、原因は一つ。それは「妄想」です。妄想がすべての精神病のもとなのです。悪のもとです。不幸のもとです。理性を失って感情の奴隷になる原因です。無知をどこまででも拡大させる原因です。妄想は、冗談ででもするべきではありません。
しかし、人間には四六時中具体的な思考だけで生活することも難しいのです。一日中ほとんど有意義なことは何もせず、無駄なことばかりして生きているなら、我々の心は妄想を繁殖させる絶好の場所になるのです。何もしていない時は明るい思考でいれば良いのです。そうでないと、悪の妄想が人を破壊するのです。「死んだ象のお腹に閉じこめられた狐」になってはならない。