No.97(2008年1月号)
縫い針物語
Sūci jātaka(No.387)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時、智慧について語られたお話です。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある村の貧しい鍛冶屋(かじや)に生まれました。成長した菩薩は、超一流の腕を持つ鍛冶職人の青年になりました。
菩薩の住む村からそれほど遠くないところに、千軒の鍛冶屋が集まる集落がありました。その鍛冶屋村に、一人の優れた腕を持つ親方が住んでいました。彼は王からも重用されるほどであり、鍛冶長者と呼ばれていました。鍛冶長者には、たいへん美しい一人娘がいました。彼女はその国の美人としてのあらゆる相を備えていたのです。多くの人々が、評判の美人を一目見ようと、鋼や斧、鍬、鋤などを買いに村へ来ると、家事長者の娘に会いに来るのでした。娘の美しさに感心した人々は、自分の村に戻ると、皆に聞かれるままに彼女のすばらしさを話しました。
菩薩はその娘の話を聞いて、話を聞いただけで彼女に強く心を惹かれました。何とかしてその娘を自分の妻にしたいと思った菩薩は、少量の極上の鋼を調達し、これ以上ないほど細くて堅い縫い針をつくりました。菩薩はその針に糸を通し、その針がきっちり収まるような針の鞘(さや)をつくりました。次に、またそれを入れるための鞘をつくりました。そのようにして七重の鞘をつくった菩薩は、最後に円筒形の入れ物を作り、自分の作品を収めました。そのような品物が他のどこかにあるわけではなく、誰かから教わったものでもありません。それは菩薩の広い知識と優れた技術によってのみ作ることができる品だったのです。
菩薩はその作品を持って鍛冶屋村に行きました。そして美しい娘のいる鍛冶長者の家を探し当てると、そのお屋敷の門の前に立ち、次のような詩句を唱えました。
糸はするりと、滑らかで
ぴかぴか磨かれ、まっすぐで
針先鋭く、品のある
そんな針はいらないか
糸はするりと、通りよく
見目麗しく、まっすぐで、
堅いものをも刺し通す
そんな針はいらないか
鍛冶長者の娘は、朝食が終わって休んでいる父親に扇で風を送っていました。そこに菩薩の声が聞こえてきました。その優しく美しい声を聞いて、娘は生肉で心を打たれたようにハッとしました。千の瓶の水で心を洗われたような、清らかな気持ちになったのです。
「いったい誰がこのようなすばらしい声で針を売ろうとしているのでしょう。ここは鍛冶屋村なのに、針の本場で針を売ろうとするのは誰でしょう」と思った娘は、扇を置いて、家の外まで様子を見に来ました。ここで、鍛冶長者の娘に会いたいという菩薩の最初の目的は、まずは容易く達成できたことになります。
娘は菩薩を見ると、「若いお方、ここは鍛冶屋村です。この村に住む者は、皆、針や斧や鋤などをつくっているのです。たくさんの人々が、そういうものを買うために、こちらに来るのですよ。あなたは、針の本場で針を売ろうという愚かなことをしようとしておられる。一日中歩き回って宣伝しても、ここでは誰も針を買おうとはしませんよ。針を売りたければ、他の村に行って売らなければ」と、次の詩句を唱えました。
釣り針も、縫い針も、
すべて、ここでは売られたり
かかる鍛冶屋村に来て
針を売ろうとするのは誰ぞ
こちらでは
武器さえもつくられており
かかる鍛冶屋村に来て
針を売るとは愚かなり
菩薩はその言葉を聞いて、「娘さん、あなたは知らないからそんなことを言うのですよ」と、次の詩句を唱えました。
たとえ鍛冶屋村なるも
秀でた針は売らるべし
まさに、真の師こそが、
巧みなる技の価値を知るものなれば
娘よ、汝の父親が
わが針を見し、そのときは、
家督をわれに譲らんと
汝をわれに与えよう
その会話を聞いていた鍛冶長者は娘を呼びました。「娘よ、誰と話していたのか?」「お父様、見知らぬ若者が針を売っています。私は彼と話していました」「ではその若者を呼びなさい」。
娘は菩薩を連れてきました。菩薩は鍛冶長者に礼をして傍らに立ち、二人は次の会話を交わしました。「おまえはどこの若者だ?」「私は近くの村の、鍛冶屋の息子です」「何をしにこちらに来たのか?」「私の作った針を売りに来ました」「ではその針を見せなさい」。
菩薩は自分の力は多くの人々に見せた方がよいと考えて、「おひとりでご覧になるよりも、たくさんの人とご覧になった方がよいのではないでしょうか?」と言いました。
鍛冶長者は承諾し、村中の鍛冶屋を集めました。菩薩は、針の性能を見せるため、鉄敷と水を満たした銅器を用意してもらうように頼みました。
準備が調うと、菩薩は皆の前で円筒から七重の鞘に入った針を出し、長者に手渡しました。鍛冶長者はそれを手にとって、「これがその針か」と訊きました。「いえ、それは針ではありません。それは鞘です」。鍛冶長者は、あまりにも細い鞘を開けることができませんでした。菩薩が爪で鞘を開けると、中から針の入った鞘が出てきました。それを見た鍛冶屋たちは、皆、驚きの声を上げました。鍛冶長者が「これがその針か」と訊くと、菩薩はまた、「いえ、それは針ではありません。それは鞘です」と応えました。鍛冶長者は鞘を開けることができなかったので、菩薩が開けて、針の入った鞘を出しました。そのようにして、次々に、鞘を開けてみせるたびに、集まっている鍛冶屋たちは、感嘆の声を上げました。
七回目にやっと針が出てきた時、鍛冶長者は菩薩に、「友よ、この針はどれほどの力があるのか」と尋ねました。菩薩は「師よ、力持ちの者に命じて、鉄敷を銅器の上に置かせてください。そうすれば、鉄敷の真ん中に、この針を突き刺してお見せしましょう」と言いました。用意が調うと、菩薩は見事に針を鉄敷の真ん中にまっすぐに突き刺しました。しかも、銅器に入った水は毛の先程も動かず、水面は静かなままだったのです。
そこに集まった鍛冶屋たちは大変驚き、「こんなにすばらしい腕を持った鍛冶屋の話は、一度も聞いたことがない」と口々に言いながら、腕を振り上げて菩薩を賛嘆しました。鍛冶屋は娘を呼び、たくさんの人々の前で、「娘よ、この若者こそ、おまえの夫にふさわしい」と言って、二人の頭上を祝福しました。菩薩は娘と結婚して鍛冶長者の家督を継ぎ、長者の死後は、その村の鍛冶長者になりました。
お釈迦さまは、「鍛冶長者の娘はラーフラの母であり、賢い鍛冶屋の息子は私であった」と言われて、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
●勉強ができることと頭がいいこと
これは同じではありません。勉強ができても頭が悪い人、勉強はできないが頭の良い人がいるのです。辛抱強く繰り返すことで、誰でも学識は得られます。繰り返し練習することで、技術を身につけることもできます。我々は、繰り返すという手段を使って動物たちにも様々な芸を教えるのです。はっきり言うと、「勉強ができない人間」は、あり得ないと思います。勉強は根気よく繰り返せば誰でもできる。頭が良いということは別な能力です。もともと頭が良いから勉強は楽だということもないのです。頭が良くても勉強に苦労する人もいる。根気よく繰り返すことをしないからです。
芸大を最優秀で卒業した二人がいるとしましょう。芸大を出ただけで芸術家になれるでしょうか? 音大を出ても高校の先生で人生が終わる人もいれば、音大を出て有名な音楽家になれる人もいます。科学の場合も、技術の場合も、状況は同じです。頭の良いことと勉強ができることとの区別は、このたとえで理解できると思います。人間にはこの二つの能力が必要です。
しかし、価値があるのは頭の良いことです。一般社会で、発見者、発明家、アイデアマン、発想豊か、インスピレーション溢れる、等々の単語で褒めたたえているのは、頭の良いことです。経済学にすぐれた能力のある大学教授が、政府の財務大臣になったからといって、国の経済状況が良くなる保証にはなりません。
仏教も、頭の良いこと、ひらめきがあることを必要とするのです。それがないと、仏教を学んでも悟りには達しない。理論と実践の区別は、はっきりしている。ダンマパダ第一偈のエピソードでは、ブッダの教えを全部学んでも、偈ひとつも覚えることのできない実践者に敵わない、と言っているのです。今月のジャータカ物語も、この教訓を語っています。鍛冶屋には訓練さえすれば誰でもなれます。しかし菩薩は、ただの鍛冶屋ではなかったのです。アイデアマンでした。たとえ学識があっても、智慧がなければ、役に立つものになりません。