ジャータカ物語

No.104(2008年8月号)

水盗人物語

Pānīya jātaka(No.459) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダが祇園精舎で語られたお話です。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はその王でした。

ある時、カーシー国のある村で、二人の若者が飲み水を入れた水瓶を持って畑に行きました。彼らは水瓶を畑の片隅に置いて農作業を始めました。一人の若者が、喉が渇いて水瓶のところに行きました。ところが彼は、なんだか自分の水が減るのが惜しくなり、こっそりと友人の水を飲んだのです。

夕方になって作業を終えた若者たちは、汗を流しに川へ行きました。友の水を飲んだ若者は、川の水で身体を清めてから、「今日、僕は何か悪いことをしなかったか」と自分を省みて、友人の水を盗み飲んだことを思い出しました。彼は自分の罪を見て怖くなり、「この貪欲を放っておくと、僕はいずれ悪趣に墜ちるだろう。この煩悩を克服するぞ」と鋭く自己を観察し、その場で悟りの智慧を得て、独覚仏陀(ひとりで完全な悟りを開いた聖者)となりました。

聖者となった若者が悟りの智慧を思い巡らしながら立っていると、友人が「さあ、そろそろ家に帰ろうよ」と話しかけました。彼は「君は帰るといい。僕はもう家に用はない。悟りを開いて独覚仏陀になったのだから」と応えました。友人は笑って「その格好では独覚仏陀とは言えませんよ」と言いました。彼は「では、独覚仏陀とはどんな格好をしているのでしょうか?」と問い返しました。友人は「独覚仏陀は、髪は指の節までの長さしかなく、袈裟をつけ、ヒマラヤのナンダムーラカ洞窟に住んでるんだよ」と答えました。

それを聞いたとたん、独覚仏陀となった若者の髪は短くなり、真紅の下衣を着け、雷光のような帯を締め、糞掃衣をまとい、黒い土器の托鉢の鉢を肩から下げて空中に立ちました。そして空高く飛ぶと、ナンダムーラカの洞窟に降り立ったのです。

また、その頃、カーシー国のある村で、裕福な商家の若旦那が店先に腰を下ろしていました。そこにまだ若くて可愛い夫婦がやって来ました。美人の奥さんに見とれていた若旦那は、ハッと自分の有り様に気づき、「こうやって五官を護らずに貪欲を放っておくと、いずれは悪趣に墜ちるだろう」と自分の罪を怖れて自己を鋭く観察し、独覚仏陀となる智慧を得ました。そしてそのまま空中に立ち、空中を飛んでナンダムーラカの洞窟に降り立ったのです。

またその頃、カーシー国の他の村に住む親子が旅に出ました。彼らは人質盗賊がいるという森に着きました。人質盗賊とは、二人連れの旅人を捕らえると、親子の場合は子を人質にして親に財産を取りに行かせ、兄弟の場合は弟を人質にして兄に財産を取りに行かせ、師匠と弟子の場合は師匠を人質にして弟子に財産を取りに行かせるのでした。父親と息子は、盗賊たちに出会っても絶対に親子だと名のらないことを申し合わせて森に入りました。森で父親は盗賊に捕まりましたが、息子が「私達は何の関係もない、赤の他人です」と言い張って、二人は難を逃れました。森を出て川で汗をかいた身体を洗い流し、その日の行動を省みた息子は、自分が嘘をついたことを思い出し、「このまま悪行をつづけると、僕は悪趣に墜ちるだろう」と自分の罪を怖れ、自己を鋭く観察し、独覚仏陀となる智慧を得ました。そしてそのまま空中に立ち、空中を飛んでナンダムーラカの洞窟に降り立ちました。

また、その頃、カーシー国の他の村の新しい若い村長は、村人たちに殺生を禁じました。しかし村人たちが「これまで通り鹿や豚を生贄にしなければ祭儀ができないではないか」と強く訴えたので、村長は「では、祭儀においてはこれまでの習慣に従えばいいでしょう」と仕方なく生贄を許可し、祭儀が行われました。祭儀の後で殺されたたくさんの動物たちを見た村長は、「この動物たちは、私の言葉によって殺されたのだ」と自分の罪を怖れ、家に帰って窓によりかかって自己を鋭く観察し、悟りの智慧を得て独覚仏陀となりました。そしてそのまま空中に立ち、空中を飛んで、ナンダムーラカの洞窟に降り立ちました。

また、その頃、カーシー国の他の村の新しい若い村長は、酒の売買を禁じました。しかし酒好きの村人たちに「酒祭りで酒が飲めないと、祭りにならない」としつこく文句を言われ、「では、祭りは今までのしきたり通りにすればいいだろう」と飲酒を許しました。祭りで酔っぱらった人々は喧嘩を始め、手足をくじいたり、ケガをしたり、頭を割られた人までいて、たくさんの人々が逮捕されました。それを見た村長は、「私の言葉によって多くの人々が罪を犯した」と自分の罪を怖れ、自己を鋭く観察し、悟りの智慧を得て独覚仏陀となりました。そしてそのまま空中に立ち、空中を飛んで、ナンダムーラカの洞窟に降り立ちました。

ある時、彼ら五人の独覚仏陀たちがバーラーナシーに托鉢に来ました。菩薩である王は若い聖者たちの立ち居振る舞いを見て心を清められ、五人を宮殿に招いてさまざまなご馳走をお布施し、「尊者方、皆さんがお若くして出家されたのはなぜなのですか?」と訊きました。五人はそれぞれ次のように答えました。

私は友人でありながら、
友の水を盗み飲みました
己の悪行を嫌悪して
二度と再びなさぬよう
ゆえに、私は出家しました

私は他人の妻を見て、
こころに欲を起こしました
己の悪行を嫌悪して
二度と再びなさぬよう
ゆえに、私は出家しました

私は森で父を捕らえた盗賊に、
「赤の他人だ」と嘘をつきました
己の悪行を嫌悪して
二度と再びなさぬよう
ゆえに、私は出家しました

私はゾーマ祭での生贄を許し、
多くの命が失われました

己の悪行を嫌悪して
二度と再びなさぬよう
ゆえに、私は出家しました

私はスラー酒メーラヤ酒の飲酒を許し、
多くの村人が罪を犯しました

己の悪行を嫌悪して
二度と再びなさぬよう
ゆえに、私は出家しました

菩薩である王は五人の聖者を賞賛し、たくさんの衣や薬をお布施しました。独覚仏陀たちは、王を祝福して立ち去りました。その時以来、王は欲の快楽を喜ばなくなり、贅沢な品や美しい女性にも無関心となりました。自室で白壁に向かって坐禅を組むことが多くなった王は、やがて禅定を得て、次の詩句を唱えました。

愛欲こそはおぞましき
苦のみをもたらし害多し
われ、もし愛欲に沈んでおれば
この安楽を得ることはなし

王の様子を心配して王の部屋近くに来ていた第一妃は、王の詩句を聞いて驚き、愛欲を讃える詩句を唱えました。

愛欲こそは喜ばし 愛欲に勝る楽しみはない
愛欲に耽る者 彼らは天に生まれる 

これを聞いた菩薩は、「去れ、悪女よ、愛欲は苦しみである」と、次の詩句を唱えました。

愛欲こそは苦患なり 愛欲ほどの苦しみはない
愛欲に耽る者 彼らは地獄に堕ちる

鋭く研がれたとがった剣で、あるいは鋭い短刀で胸を刺されるよりも、
さらに愛欲は苦をもたらす

身の丈より深い真っ赤な炭火の穴に落とされるよりも、
あるいは太陽で真っ赤に熱せられた鉄の上にあるよりも、
さらに愛欲は苦をもたらす

猛毒を飲むよりも、煮たった油を飲むよりも、あるいは銅の緑青を飲むよりも、
さらに愛欲の毒は苦をもたらす

このように説いた後、菩薩は家臣を集めて出家することを宣言し、そのまま空中に立つとヒマラヤへと飛びました。そして心に適う場所に住んで修行生活をおくり、死後は梵天界に生まれました。

釈尊は「その時の独覚仏陀たちは皆、死後は涅槃に入られた。その時の后はラーフラの母であり、出家した王は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

ブッダの教え(法/ダンマ)の特徴として、「法は善く説かれている、いま・ここで結果をもたらす、普遍的である(時代遅れの教えにならない)、「来たれ、見よ」と言える(隠す必要はない。誰でも自由に調べることも試すことも出来る)、人を解脱へ導く、理性のある人が各自で理解するものである」と説かれています。この物語のエピソードは、法は完全であることを示すために語られているのです。

仏道は戒・定・慧という三学で成り立っているのだということはよく言われていますが、その場合は、段階的に進むという意味なのです。釈尊が、私は人々が段階的に進むように説法するのだと説かれ、その段階を順番に明示した経典もあるのです。けれども、段階的にパート毎に何かを説明すると、その段階は全体のシステムの一部だから、不完全だということにもなります。完全になるには、すべてのパートを組まなくてはならない。それでは、「kevalaparipuññaṃ parisuddhaṃ brahmacariyaṃ pakāseti.(完全無欠で完全清浄なる解脱の境地を語る)」という言葉と微妙に合わなくなるのです。

しかしそうではありません。段階毎に進んで完全たる解脱に達することができることも確かですが、釈尊のたった一つの言葉だけを完全に実践すれば解脱に達せられることも確かなのです。これが微妙なところです。パートも完全であり、パートを組み合わせたところの結果も完全なのです。ですからこの場合は、必ずもパートを組み合わせなくてはいけないという論理は成り立たないのです。

仏教の初期段階で、戒律・道徳のことを語ります。誰にでも分かりやすい教えです。実践もしやすいのです。しかし、「盗むなかれ」などの教えは、わざわざ仏教で言わなくても、世間一般常識ではないのでしょうか。いいえ、仏教が「盗むなかれ」と言う場合は、世間一般的に言うのとわけが違うのです。仏教以外、世間にも、諸々の宗教にも、道徳を論理的に具体的に確定することはできないのです。世間が語る道徳は矛盾だらけです。「なぜ人を殺してはならないのでしょうか? なぜ盗んではならないのでしょうか?」と真っ向から異論を立てられると、納得のいく答えがないのです。何とか理由をつけて答えても、反論できるのです。

仏教の理論は明確です。心は欲、怒り、憎しみ、無知などの煩悩で汚れている。汚れた心で生きるから、生きることは苦難に陥る。他人にも苦しみを与えてしまう。しかし、生命は、苦しむために生きるのだとは思ってないのです。幸福になるためにがんばって生きているのです。それなのに心が汚れていれば、努力すればするほど、幸福になるのではなく、不幸に陥るのです。生きる目的に達しないのです。「敵なら殺してもいい、食べるためなら命を取ってもよい」と思ったら、その時点で、自分が自分の命を捨てているのです。なぜなら、自分を敵だと思っている人がいたら、その人に自分を殺す権利があることになる。あるいは自分を「食べ物だ」と思う生命がいたら、その生命に自分を殺して食べる権利があることになってしまう。ですから「殺してはならない」というのは異論の立てられない道徳なのです。

それでも、殺してはならない、盗んではならない、嘘ついてはならないと知っている割に、人はそれらの罪を犯してしまうのです。この弱みは何でしょうか? 答えは、「心が汚れている」からです。ある人が不殺生戒を守ろうと決めたとする。その人が本当に正直でまじめであるならば、その人は、不殺生戒は簡単そうに見えるが完全に守るのは大変難しいことだと発見するのです。その人は、殺生する気持ちにさせる心の煩悩に気づくのです。欲、怒り、憎しみ、嫉妬、我がまま、自我、無知などの感情がある限り、自分はせっかく守ろうと決めた不殺生戒を守れないと発見するのです。そこで智慧が現れて、煩悩が生まれる過程を発見して、悟りに達するのです。ですから、ブッダの説かれた「殺すなかれ」という教えと、世間で一般的に言う「殺すなかれ」という教えは、似て非なるものなのです。

人の水を盗んで飲んだくらい、たいした罪ではないと思われるでしょう。そんなこと反省したって、たいしたことはない、と。しかしそうではありません。盗みは、盗んだ品物で判断するものではありません。「盗む気持ち」が罪なのです。エピソードに登場する若者は、盗みたくなった自分の気持ちに対して反省したのです。それで独覚仏陀になったというわけです。

この物語は、誰でも知っている五戒を紹介するエピソードです(項目の順番は違いますけど)。ほんの小さな一つの戒律であっても、仏教においては、「完全無欠で完全清浄なる解脱の境地を語る」ものであるのです。