あなたとの対話(Q&A)

「時間」は無常の計算です

パティパダー2007年6月号(118)

時間というものについて、お釈迦さまはどのように考えておられるのでしょうか。

それは悟りにはあまり関係ないことだからお釈迦さまはあまり説かれてはいませんが、アビダルマという仏教の論書に時間論のようなものはあります。いわゆる我々が考えるような「時間」は、本当は存在しないんです。それはただの観念にすぎません。まあ数学も同じく観念ですし、実際には存在しない観念というものも、それなりに便利なこともありますけどね。しかし仏教では、頭の観念にすぎない時間というものは重視しません。それよりも、諸々の現象の無常を観るのです。

それは、人は、ものごとの変化を指して「時間が経った」と言っているということですか。

そうです。人間が、変わり方を数えるために、時間という単位をつくったのです。実際のところ、研究できるのは、変わっていくものなんです。

その「時間の単位」ということについて、仏教ではどのように考えているのですか。

仏教では「こころ」と「物質」という二つの現象の働きを認めているから、時間は二種類になるのではないかと思います。しかし、「時間」という観念を作るためには色々工夫しなくてはならないのです。こころが物質を認識するのだから、まず物質の変化の速さを発見する方が便利だと思います。アビダルマでは、物質の変化そのものを観て時間を考えています。そこで語られる単位は、一個の物質が変化するために必要な時間です。
 
 ここで「物質」というのは、鉄とか石とか机などではなく、専門用語で「地・水・火・風」と呼ばれる素粒子レベルの物質的エネルギーを指しています。素粒子レベルだから、その変化は怖ろしく速い。一秒の何十億分の一か何百億分の一かわかりませんが、ものすごく速いことは確かです。そこを理解してもらうために、私は、我々が知っている物質の世界で一番速い光というものを例に出して説明しています。光速の値は2億9千979万2千458 m/s(約30万㎞毎秒)です。ある一カ所から観察する場合は、一秒間でその場所から光子2億9千979万2千458 個が流れると推測しましょう(本当の値は知りません)。そこでは観察者に一秒間で光子の生滅が2億9千979万2千458 回起きたのです。実際の数字は天文学的なものになると思います。
 
 仏教に興味があるのは、この、こころが認識する「生滅」なのです。いわゆる無常です。この「物質の無常」をこころが認識するのだから、こころはより速いということになります。未認識から既認識にこころが変化しなくてはならないのです。一個の光子を認識するためには、幾つかのこころが生れて消えていかなくてはならない。光子が現われた瞬間に、同時にこころも認識を始めたならば、17個のこころが必要になります(アビダルマの認識プロセスの説明が正しければ)。それで私は無責任に、こころは光よりも17倍速いと言いますが、実際のところは「さっぱり解らない」ということになります。しかし冥想することで、物質と認識するこころの時間差ぐらいは理解できます。こころの速さに修行者は誰でも途惑います。スピードについて科学的なデータを求めようとしても無理だと思うし、科学を学んだことのない私に期待しても無意味です。どこまでも観念的な話で、仏教には正真正銘の無駄話です。
 
 普通、我々が伝統的に考える「時間」というのは、太陽が昇って、又、夜になって、それで一日が終わるというようなことで、いわゆる現象的な時間です。それだけでも無常を観察することはできますが、実際の時間というのは、素粒子が変化する時間なのです。俗世間にも秒の定義がありますね。原子時計を開発してから、1秒はセシウム133原子の放射の周期の91億9263万1770倍に等しいということになっています。物理学では時間の単位はとても小さいようです。アインシュタインの相対論にt(timeのt)というファクターがありますが、あれも時計の時間ではない。何秒という単位で考えているわけではありません。どんな物質にも光の速度を与えたら、もう物質ではなくなりますしね。しかし、そういうのは頭で考える遊びのようなものだから、時間については、単純に、「時間とは無常の計算だ」と理解すれば十分でしょう。

何かの変化を写真で撮ろうと思ったら、シャッタースピードが速くないと、その変化が撮れないということがあります。それと似ている感じですか。

そうですね。こころは、各部分、各部分を別々にとっていくんです。そして、データをとるだけでなく、それを認識したというところまで完了しないと認識になりません。その認識のプロセスを考えると、理論的に、一つの物を認識するためには17個のこころが生じる必要があるということになります。そういうところから考えて、こころのスピードを、物質の変化の17倍の速度だと推測しました(曖昧ですけど)。雑念が一切なしに(サマーディ状態で)一個の対象を観察すると、時間の速さが解るのではないでしょうか。しかし、何回でも言いますが、解るのは、経験できるのは、時間ではありません。ものの変化なのです。一秒の定義もセシウム133の変化のことです。「時間」は概念です。

物事の認識において、時間のずれができるから、我々は無常に気づくことができないと聞いたことがあるのですが、それはどういうことなのでしょうか。

これも素粒子レベルの話ですが、ものには三つの段階があります。何かが現れたら、現れたものは消える。ですから、必ず、現れる時間、現れている時間、消える時間があるはずです。素粒子レベルで観ると、どんな現象にも、生まれる瞬間(生)、ものになった瞬間(住)、消えていく瞬間(滅)という三ステージがあるのです。
 
 そうやって三つに分けて理解することが難しければ、二つに分けてもいいのです。現れる側面と消える側面。言い換えると、有る時と無い時、有と無です。例えばボールペンを見せて「このボールペンはありますか?」と訊くと、皆堂々と「あります」と言うでしょう。しかし、微妙なレベルで考えると「ずっとある」はずはない。なぜならずっと変化し続けているのだから。瞬間瞬間、有と無を繰り返して現れたり消えたりしているはずなのです。

それはボールペン自体がそうなるのではなくて、認識がということですか。

いえいえ。ボールペンがということです。例えばボールペンを一分間見ていると、一分間の間ずーっとボールペンがあるわけではないのです。有の時間と無の時間があります。無の時間にはエネルギーは発生しない。有の時間のみエネルギーは発生します。エネルギーが発生する時に、「ボールペンだ」と認識できるのです。エネルギーが発生しない瞬間で、認識が起きないのです。だから一分間ボールペンを見ていても、本当は30秒しか見ていないのです。データは30秒しかとっていない。ではなぜボールペンが消えるのが見えないのかというと、「有、無、有、無、有、無、有、無……」の順番で、怖ろしい速さで生滅しているからです。速度があまりにも速いので、我々の目では捉えられないのです。我々の認識は、有の瞬間だけデータをとって、それらを合成して「見えた」と認識するという仕組みになっているのだから、どうしようもないのです。30秒くらい有でいて30秒くらい無でいるのだったら、すぐバレますけどね。ものすごい速さで生滅を繰り返しているから、有の時だけとって「見えて、見えて、見えて、見えて…」という状態。それで「ずっと見ている」と錯覚するのです。無は認識できないから、気づくことはできません。それで自動的に無視しています。
 
 そのようにして、どんな生命でも「ものはある」という実体論に陥って生きているのです。そこは避けられません。「ものはあるに決まっている。だってあるじゃないですか」と言い張る。「それが正しい、当然だ」と思い込んでいる。そういう、我々が本来持っている認識のあり方を無明というのです。
 
 しかし、余計な哲学や形而上学などを捨ててものごとを観たら、一般的に観察しても変わっていくことは解るでしょう。蕾が現われて、花になって、それが枯れていって実が現われてくる。そこのもの流れは、絶えず起きています。蕾から熟した実まで一ヶ月間だと仮に言っても、その変化は突然起こるのではない。瞬間的に絶えず起き続けるのです。無常とは、一切は無停止で、動であることです。

なんとかして、本当のことを見る方法はありますか。

ヴィパッサナー冥想で「今」を実況中継していくのは、そのためです。それで、時間のずれをジリジリと減らしていくことができるのです。
 
 集中力をもってサティを続けると、できるだけ「今」に近い時間を認識できるように訓練することができます。ただし、完全に同時には認識できません。例えば「膨らみ」が生まれると同時にそれを認識することはできません。「膨らみ」が生まれたら認識するのです。時間は、わずかですが、すでにもう、ずれてます。実際は「膨らみ」が生まれる時でも「有、無、有、無…」の流れです。その「有」だけを認識して「膨らみ」とラベリングしているのです。
 
 しかし、そういう訓練をずーっとやっていると、時間のずれが少しずつ短くなってくるのです。時間のずれがドンドン短くなって「今」が観えてくるにしたがって、無常が観えてきます。シンクロナイズして同時に観えるというところまでいかなくても、時間のずれが短くなればなるほど、真理の状態が観えてくるのです。そこで始めて、無常が発見できるということになります。
 
 世間一般で「無常だ」と言っているのは、真理のレベルの無常ではありません。「桜の花が散ってしまった。やはり無常だ」というのは、単なる感情のようなものにすぎません。実際の無常は、かなりの智慧の世界のことなんです。
 
「だるまさんが転んだ」という子供の遊びがありますね。非常に厳密にあの遊びをしたと仮定してみてください。そうすると、鬼の子には、永久的に誰も動いていないように見えるでしょう? もし子供たちが完璧にあの遊びをしたならば、鬼が見る時は、子供たちはいつでも止まっている。また見ると、また止まっている。皆が動いている瞬間もあるのですが、鬼にそれを発見することはできません。鬼は、あっちにいたやつがこっちにいるのだからこのように動いただろうと思いますが、それは推測であって動きの発見ではないから、ゲームには勝てません。我々生命は、「だるまさんが転んだ」というゲームで負け続けている鬼の役をやっているようなものです。ずっと死ぬまで負けっぱなしで、「ものはある、ある、ある」と思い続けているのです。

ヴィパッサナー冥想を続けると、勝つことができるのですか。

勝利を得るための冥想でしょう。お釈迦様が、勝利宣言したのではないでしょうか? 我々も勝利宣言できるまで努力しなくてはならないのです。冥想を懸命にがんばっていても、最初はずーっと負け続けるんです。「ものごとは止まっている」「ものごとはある」と認識して、それを実況しています。でもやがて、実況がすごくスピードアップしてくると、雑念や妄想が消えていきます。それで、すごい集中力で観察できるようになって、本当の姿が現れてくるのです。そこで、「ものごとは止まっていない、ずっと動いているんだ」と発見する。それが勝ったということで、無常がわかったということです。
 
 その時は実況中継がちゃんとできないほど速い認識が現れてくるのですが、そこは説明できません。それは悟りの境地が現れる直前に起こります。その時は、実況中継もやりにくいし、すごく大変で、どちらかというと嫌な心境なのですが、本当はすごい勢いでサティを入れているのです。もう「気づいてやるぞ」とか、そんな余裕もありません。そこをがんばって観察していると、「ものごとは実際に変化している、一瞬も止まることなく変わっていっている」ということがバレてきます。そこで、それまで頑固にしがみついていた現象論がつぶれ、実体論もつぶれてしまいます。そうなったら、その人は、第一段階の悟りの境地(預流果)に達しているのです。