「無常ならざるもの」の正体
パティパダー2008年1月号(125)
無常は目の前にある。それなのになぜか、無常ならざるもの、永遠、命、というようなものをおぼろげに感じます。だから無常を否定してしまうというか、無常を深刻に受け止められない。目の前にあるものがわからないというのは、我々はよほどのバカなのか、それとも何か理由があるのでしょうか。
質問に答えたいのですが、その前に、「無常ならざるもの」という考え方は、どこから出てくるのでしょうか。
これは考えというよりは、なんとなくそんな感じがするということです。体は死んだとしても、それは外側の話で、「自分」は死なないような感じ。そういう気持ちは、皆になんとなくあるんじゃないかと思うのですが。
なんとなくではなく、そういう気持ちは皆に確実にあります。皆、「死なない感じ」がしている。しかし、それは我々の希望なんです。それを仏教の専門用語で「渇愛」と言います。仏教ではその渇愛というものを、捨てろ、と教えています。
問題は、なぜ「無常ならざるもの」があると思っているのかということです。
その答えを言うと、逆説的ですが、「無常だから」そう思うのです。そこを誰も発見しないのです。
もし「無常ならざるもの」が本当にあるならば、それこそ一番具体的で、何の疑いの余地もなく、はっきりと認識できるものであるはずです。でも、毎日陽が昇るような感じで「無常ならざるもの」があまりにも具体的になると、我々は、別にありがたがらないんです。「ああこれか」ということで終わっちゃいます。
では、お訊きしますが、魂が永遠であるなら、なぜ人が死ぬことはそれほどショックなんですか。なぜ我々は歳を取ると嫌な気分になるんですか。「無常ならざるもの」があるんだったら、へっちゃらのはずでしょう。
それは「無常ならざるもの」を明確に捉えていないからじゃないでしょうか。我々の深いところでは、永遠不滅のものが流れてきているが、明確に捉えるのは難しいんじゃないでしょうか。
それだったら安心するはずでしょう。そういうものがあるならば、なぜ人間は歳を取るのを嫌がるんですか。なぜ病気になるのを嫌がるんですか。
それは苦しいからじゃないでしょうか。
永遠たる魂があるのであれば、苦しくても、別にどうってことないでしょうに。
やはり苦しいのは嫌だと思うんです。歳を取るのは、美しくないから嫌なのだと思います。
自分は美しくいたいでしょう。
それはそうです。そこが疑問ですね。
では訊きますが、なぜ死ぬのが怖いんですか。死んだら、無常ならざるもの、永遠たるものに行くのであれば、怖くないでしょう。
死ぬのが嫌なのは、まだ人間として生まれた目的が果たされてないからだと思います。
その「人間として生まれた目的」というのは何ですか。
やっぱり、長老がおっしゃるように、悟りじゃないでしょうか。
それは私の話を聞いてそう言っているだけでしょう。もしあなたに生まれてきた目的があるならば、人から教わらなくても自分自身で知っているはずです。それは何でしょうか。
そこがまだ果たされてないので、まだ死ねない、死ぬのが嫌だ、怖い、と思うのではないでしょうか。
だから具体的には何なのか、言ってほしいのです。皆、具体的に考えず、感情的に「正しい」と思ってしまう。そこは問題です。
例えば、具体的に、「おまえは今死にたいのか」と私に訊かれたら、私は「今はちょっと待ってください」と言います。その理由も具体的です。私にはまだやりたい仕事があるし、自分が果たさないといけない責任も仕事に自動的についている、と。しかしそれは自分が決めたものであって、生まれつきついているものではありません。例えば、わが子が生まれたら、自動的に、その子を一人前にしなくちゃいけないという責任がついてきますね。だからまだ死ねないなど、具体的な理由であれば、「これとこれができたら、やることは終わりだ」と数えることもできます。そこは、はっきりしているのです。だからといって実際にその希望が叶えられるのかということは別の話ですけどね。
「生まれてきた目的」があるといっても、実際なぜ生きていきたいかというと、今やっている仕事を仕上げたいとか、もうちょっと子供たちと一緒にいたいとか、そういうことでしょう?
そういう生活の中の仕事と、悟りとか、人間として一番重要な仕事があると思います。
「悟り」というのは、正直なところ、私の話を聞いてから頭に入った概念でしょう? 人に、生まれつき「悟り」という概念があるわけではないんです。
子供から大人になって、就職して結婚して、かなり歳をとったところで「そろそろ死んでもいいですか」と訊かれたとする。そうすると「やっぱり孫の顔を見たい」と目的が出てくるんです。孫が生まれたら、やっぱり幼稚園に行くまでは、大学に行くまでは、結婚するまでは、と目的が出てくる。そうやって我々の目的は目の前に具体的にあるものでしょう? なぜ人間の生きる目的はその程度だと、認めたくないのでしょうか。
「永遠」という考え方は、渇愛から生まれるんです。渇愛とは、この世の中で、何をやっても納得できない、満足できないということです。渇愛は、無常の世界には、確実にあるものです。なぜならば無常ということは、「すべては不完全」ということだからです。「完了だ。これで終わり」ということは、世の中にも生命の中にもないのです。
例えば、「これこそ真に最高で完璧だ」というほどのものを食べたならば、もうそれで満足するはずです。しかし、いくらおいしいものを食べても、「これは世界で唯一の完璧なものだ」ということはありません。不完全です。食べる自分の体も不完全。味覚も不完全。味だって、気持ちによって変わります。会社の接待で最高のレストランに行っても、これからの商談のストレスがかかって、味わえなかったりする。では自分のお金で食べればどうかというと「一食のために五万円も…」と気になって、味わえない。超金持ちだったらまた、他のことに頭が忙しい。
だから何をやっても、すべて不完全。満足ということは成り立たない。いつでも「もうちょっと何か」という気持ちが必ず生じるんです。百点満点はありません。何をしても、一秒の百分の一でさえも、完全に満足するということはあり得ない。それは論理的にあり得ないんです。すべてが不完全なのだから。不完全な味覚が、不完全なものを食べる。不完全な聴覚で、不完全な音楽を聴く。だから「渇愛」というのは必ず生じます。
その渇愛が苦しいんです。そこで人間は、苦しみに背こうとして、幻覚に逃げるんです。
ブッダは、「ちゃんと事実を見なさい、苦を見なさい」と言われます。背くんじゃないよ、と。苦に背くために「永遠に変わらない何かがある」という幻覚をつくっても、幻覚によって不安が消えることはありません。たとえていえば、「そのうち宝くじが当たったらだいじょうぶだ」と安心するような感じなんです。そんなことで落ち着けますか? 「永遠」というのは、宝くじが当たるより、もっと不可能な幻覚なんです。
例えば、確実に百%宝くじが当たるのであれば、当たる前から安心しているはずです。まだ当たってないけれど年末宝くじが当たるからだいじょうぶだと、家を建てる計画を立てる。設計したり、堂々と発注したりもする。お金が必要だったら、堂々と借りる。
それと同じで、もし永遠な何かがあるならば、人間は、すごく堂々と安心して生きているはずなんです。しかし、我々の怯え、不安は、瞬間たりとも消えません。事実に背いても意味がないんです。自分の家がすごい火事になって燃えているのに、目を閉じて「だいじょうぶだ」と言うことに意味がありますか? 事実を見ないことにするというのは、あほらしいでしょう。見ても見なくても、事実は事実なのだから、しょうがないんです。
どこを見ても無常しか見つからない。無常イコール不完全。生命は、それしか経験していない。その反動で「永遠」という概念が生まれたのです。それは単なる逃げにすぎません。
ですから、誰も本気じゃないでしょう?「確実に天国がある」と言っている人も、ずっと怯えて生活しています。事実には逆らえないんです。どんな人も、自分の短い人生の中で自分の財産を奪われないようにと生活している。そこは皆、同じです。我々は仏教だから、曲がりなりに輪廻の話や無常の話を聞いてますが、その我々の心の中でも、どこかで「永遠」という安楽の地があるんじゃないか、死んでも大丈夫なんじゃないかという気持ちがあるんです。
本当に「永遠なんかあるわけない」と知っている人々は、何があっても驚きません。すごく冷静に、落ち着いています。
神様を信じるということの正体は何なのでしょうか。
神様を信じている人の行動を見ると、「本当に信じているのか」と疑問が起きます。「証拠がない、ゆえに信じる」ということでは、確信にはなりません。曖昧なんです。その正体はわかりやすいでしょう。自分自身の能力は知れたものです。いくら嫌がっても死ぬことは確かです。希望・欲望などは、宇宙の果てまで伸びるくらいあります。しかし外の世界と比較してみると、自分自身の力なんかは比較の対象にさえもならない微々たるものです。そこで永遠で全能の誰かを妄想して、その神にすがればいいという気持ちでしょう。ガン患者にモルヒネを打つことと似ているのではないでしょうか。自分が何の力もない惨めな存在であることと、その事実を誰かの陰に隠れて隠しておきたいという気持ちが、神様を信じるということの正体ではないでしょうか。
例えば「ヴィパッサナーをすると必ずある境地に至る」という長老の言葉を信じるというのは、確信と考えていいんですか。
それは「試してみてください」ということで、自分で調べて正しいとわかったら、確信になります。
仏教の「信」は二段階です。①まず、実際に試す前に論理的に納得する。②それから自分で試してみて、データを得て確信する。自分で調べないと確信はできません。例えば、神がいるかどうかということは調べることはできませんね。「信じればわかりますよ」ということでは、徹底的に確信することはできないのです。
我々のエゴというものを、全部大きなものに預けるというか、頼り切ることで、素晴らしい境地が出るということはないのでしょうか。
そんなことはあり得ません。この宇宙の中に、そんな偉い存在はいないんです。そういうすごい存在がいたら、誰でもそういう存在を知ってないと、おかしいでしょう。そういうすごい存在であれば、誰でも具体的に知っているはずです。そういう力とコンタクトしているという人はいますが、なぜあなただけですかと訊きたくなるんです。本当にそういうすごい力があるなら、誰でも、いとも簡単に接触できるはずです。
そういう形而上的なことではなく、具体的なことは、論理的だし、納得できます。ただ、納得がいっても、それだけで自分の問題が解決したことにはなりません。例えば、渇愛について勉強して納得したとする。でも問題は解決してないんです。修行を実践して試してみなければならないのです。しかし、「渇愛さえなければ、楽でしょう」というくらいのことは理解しておいた方が、修行しやすい。時間をかけて説法を聞くのも、ブッダの教えは論理的で信頼できるものだと納得して、修行のやる気を出すためです。
ブッダは推測では語っておられない。ちゃんと確かめてから語られました。解脱涅槃のことも、四聖諦のことも、理屈、論理ではなく、何か実際の経験があって、自分で確かめて語っておられるのです。「私がやったようにあなた方もやりなさい」ということです。自分が修行して、ブッダのおっしゃっていることを体験したら、そこで始めて信が確立したことになります。それは納得ではない。確信なんです。