未練を断つ、無神経な自分、人前であがらないために、心の平安は弱者の慰め
パティパダー2008年4月号(128)
● 未練を断つ
● 無神経な自分
● 人前であがらないために
● 心の平安は弱者の慰め
別れた人への未練はどうすれば断ち切れますか?
未練が断ち切れないというのは、頭が冷静ではないということですよ。別れるときは性格的に合わないところだけ見て、喧嘩して別れます。人間は誰でも、性格が合わないところも、合うところもありますよ。別れた時は、悪い一側面しか見なかったのです。それで、別れた後になってから、その人と自分の性格が合うところだけ考えてウジウジしてしまう。もう無茶苦茶ですね。冷静なら、人の性格的に合うところも合わないところも両方見られるはずです。別れてから、性格的に合うところ、気に入っていたところばかり思い出して、悩んだりするならば、思考がおかしいとしか言いようがないのです。
だから誰かと一緒に生活するときは、その人の性格のこんなところは自分に合っている、こういうところは自分に合っていないと、はっきり知っておいた上で付き合わなくてはならないのです。折り合いがうまくいきます。別れるということは、互いのわがままなところ、折り合いたくないところが、ぶつかった結果なのです。そのとき、相手の悪いところしか見えなかったのです。別れたのに、未練が切れない状況に陥ったならば、それは別れた人の合うところだけ、自分の気に入ったところだけ、思い出すからです。別れた人の性格の合わなかったところを思い出して観察するならば、未練は断ち切れると思います。別れた人だから、もう自分に関係ない人だ。あれも悪かった、これも悪かったという具合に、短所だけを観察することしか、この未練を断ち切る方法はないのです。
あるいは、悪かったのは自分だという場合もありますよ。自分は別れたくなかったのに、相手に振られるとかね。その場合はやっぱり、自分の態度が悪かったということなのです。未練を抱くより先に、自分が立派な人間になることが必要なのです。
だから、逃がした魚は大きかったと悔やむのではなく、「こういう理由で自分が失敗したのだ。新しい人に出会っても、こんな性格だったら、また逃げられてしまう」と反省して、自分の人格を立て直すことに励むべきなのです。そうすると、未練があってもあまり嫌にはなりませんね。納得がいくのです。「自分はすぐカッとなる。だから、あの大事な人がいなくなった」と理解して、自分でその性格を直そうとする。そうすれば、未練というものは成り立たなくなっちゃいますね。
他人から「無神経なやつだ」と非難されます。人の気持ちが分かるようになるにはどうすれば良いでしょうか
無神経だと言われないために、他人の気持ちを理解できればよいと思っているでしょう。無神経だと言われるのは、「あなたは人の気持ちなんか全然分かっていない」と叱られる時です。人の気持ちに気付かない人は、ただ自分の妄想の世界に閉じこもって外の世界とコンタクトを取っていないのです。それなのに、他人に何か言ってみたら、それは決まって大失敗になるのです。言ってはいけないことを言ってしまうのです。無神経というのは、妄想に閉じこもった状態だと理解したほうがよいのです。
我々は、「人の気持ちが分かるようになりたい」という大それたことを考えるのは止めるべきです。そんなことより、自分の気持ちを理解しようとすべきなのです。自分の痛み、自分の心の状態、自分の喜び、それを理解してみると、人の痛み、人の気持ちも分かるようになります。人の気持ちが分かるということは、自分自身の気持ちを分かっているということなのです。
他人から「無神経だ」と言われる人は、よくよく見ると、自分のこともさっぱり分かっていない。あまりにも主観的で、自分の妄想の中で生きています。相手に対して、「こういう風に言ったら喜んでくれるだろう」「この程度だったら怒らないだろう」と考えるのは、自分の勝手な主観です。それで使った言葉によって喜ばれるどころか怒られてしまう。そうやって人に「無神経」と言われるのは、自分が妄想の中で生きているという証拠です。
人の気持ちが分かるようになるには、自分の気持ちを理解することです。それで明確に、人の気持ちを分かるようになります。論理的にまとめますと、自分の気持ち、自分の神経、自分自身が物事にどう反応しているのか、どのように物事が分かるのか、どのように欲張るのか、どのように楽しむのか、どのように落ち込むのかといった、あらゆる自分の感情を客観的によく理解しておくことが必要なのです。そして、「他人が自分に対してどう振る舞ったとき、自分は喜ぶのか」ということを知るのです。自分の期待は何なのか。他人が私に何をしてくれれば気分がよいか。何をされたら私の気分は害されるか。他人が私に何を言ったら、私は腹を立てて怒るかと、自分の気持ちを下地にして勉強するのです。
そうやって自分が何者かと知る人は、相手が何者かということもとっくに知っているのです。なぜかと言えば、すべての生命の心は、ほとんど同じコピーだからです。たとえば、人が怒ったときに見せる態度は、どの人もほぼ同じなのです。怒ったら顔が四角くなるとかね。これは動物でも同じですよ。犬だって怒ったら顔色が悪い。落ち込んでいるときに「おいで」と呼んでも、腰が上がらないでしょう。どんな生命でも、心の働きはほとんど同じ法則に当てはまる。心は意外にワンパターンなものなのです。ですから、自分の気持ちを知っている人は、人の気持ちも知っているのです。
人前で話そうとすると、どうしてもあがってしまいます。言いたいことが充分に言えません。どうすれば克服できますか?
解決のためには、理解してほしい問題点が二つあります。
一つは、自分を妄想の中で高く評価していること。自分を高く評価している人というのは、「恥ずかしい目に遭いたくない。みんなに誉めてほしい。認めてほしい。一斉に歓声をあげて自分の話に賛成してほしい」という風に、イメージを膨らませてしまうのですね。しかしこれは妄想で、「自分にはそんな能力があるか否か」ということは考えていないのです。自分のことを考え過ぎるので、必ずあがってしまう。「どうやって歩けばいいか。どんな風にしゃべればいいか。こんなことしたら笑われるのではないか」とかね。あまりにも自我意識が強くて、これによって能力は低下します。勉強してあっても、予習してあってもしゃべれなくなってしまうのです。
二番目に、自分よりも相手のことをずいぶん偉く感じてしまうこと。「あの人は自分に比べれば完璧で、しっかりしていて、一つ一つ厳しく評価するだろう」とか、「会場には何百人もの人が座っているだろう」とかね。このように話を聞く相手が手に負えないほど偉いと考えてしまうと、話すどころか足が震えるのです。しかし、ただの妄想ではなく、話す相手は本当に偉いという場合もあります。たとえば博士論文を出して口頭試験に行く場合は、相手はみんな先生です。先生方は、学生を無茶苦茶に批判するために座っているのです。「わずかな間違いでも指摘してやろう」という試験だからね。そういう時に学生があがってしまうのは、自然の流れだから悪いことではない。
就職の面接を受ける時、会社がいろいろと判断するだろうということは、妄想ではなくて事実ですからね。面接する側は、応募者の中から誰を落とすかを決めているのです。二人の採用枠に百人が応募したならば、九十八人は切らねばならない。だから、欠点探しをします。それを考えてあがってしまうのは当然です。
このように、あがってしまう原因には二つあります。自分のことを評価しすぎることと、相手があまりにもすごいと思うこと。まずそれを理解しないと、あがり症は治らないのです。
ではどうすればいいのでしょうか。第一に、自分を妄想で高く評価するのではなくて、自分が人前でしゃべる内容に集中すること。話さなければならないデータに、その内容に集中する。ただ酒を飲みながらしゃべるときでも、内容に真剣になる。相手のことを気にする必要もないし、自分のことを気にする必要もない。「これをしゃべらなくちゃ。これをこの人の言わなくちゃいけない」という内容に徹底的に集中することですよ。それであがり症は消えますよ。
それがすべてではなくて、後の問題もあります。内容ばかりに集中して真剣にしゃべると、何時間しゃべったか、相手が理解しているか、嫌がっているかとかね、そこまで気がつかなくなる恐れもあります。だから順番で言えば、まずは内容に集中することであがり症を治してもらう。最初は失敗してもいい。相手はもう居眠りまでしているのに、こっちは勝手にしゃべっているという羽目になるかも。そこまで徹底的にやってあがり症を治してからは、もうちょっと落ち着いて、人が聞いているか否か、面白がっているか否か、ということもチェックする。
面接や口頭試験のような場合は別の方法があります。面接する人々は、欠点探しに並んでいるから手強いのです。その時は、「どうせ先生たちでしょう」ということで、愛情をつくることです。「先生方に何かバカにされても気にするものか。自分が間違ったら、どうせ教えてくれるでしょう」と愛情をつくるのです。会社の面接だったら、「あっ、社長」という感じで、「これからお世話になるのだ」という気持ちでね。大学の口頭試問の場合は、「もう散々私を叱ったりして教えてくれた、自分の先生たちじゃないか」と、父親を見るような感じで、愛情で、何か言われても気にしない態度で座る。そうすれば自由にしゃべれます。あるいは子供が自分の親にいいところを見せるような感じでしゃべる。ただし、それが有効なのは、面接や口頭試験といった特別な環境だけです。社会では有効じゃないのです。会場などでしゃべる場合は、聴衆と自分は同じ仲間だと思うのです。仲間でワイワイと意見交換をする場だと思えば、あがらないと思います。一般の社会で「いいところ見せよう」と思ったら、必ず嫌われます。自分もあがってしまいます。
そうやって、時と場合をわきまえることも必要です。いつでも万人に効く、あがらない方法というのはないのです。あることはあります。たとえば慈悲の心を育てるとか、智慧を開発するとか、集中力を育てるといった方法です。しかしこれは、精神修行になってしまって一般人には興味のない話かもしれません。とりあえず、ここで紹介した方法を試してみれば、あがり症は克服できます。
心の平安を求めるのは、欲望を実現する手段を持たない弱者だけではないですか?
心の平安とは、弱者の慰めではないのです。ずうっと心が混乱状態で、戦争状態で過ごすことがいいと思われますか。それで強者と言えますか。強者とは、自ら心が平安な人のことです。何にも挫けないし、揺らがない、心の平安を得ています。世界の波に、人生の波に、冷静に対応できる。だから心の平安とは、強者の特色なのです。強者とは、心の平安をもう獲得している人のことです。
欲望を実現できないから、「私は心の平安を目指している」と言っている人がいるかもしれません。しかし、大したことない希望さえも叶える力のない人に、心の平安を実現できるとは思えないのです。心の平安は強者の世界です。弱者も堂々と、心の平安という強者の道を目指せばいいのです。