あなたとの対話(Q&A)

他人の悪と自分の悪、国家の道徳、人の迷惑の判断基準、悪いことは一人で

パティパダー2008年6月号(130)

・他人の悪と自分の悪
・国家の道徳
・人の迷惑の判断基準
・悪いことは一人で

これまで悪いことばかりして生きてきました。でもニュースなどで残酷な殺人事件や戦争のことを見ると、自分のやったことぐらい大したことないと思ってしまいます。巨大な悪が野放しなのだから、自分が少し悪いことをしたって、誰も文句は言えないのではないでしょうか

「あの人も悪いことやっているから、私がやっても悪くない」と言うならば、「みんな悪いことをしてもいい」ことになるでしょう。だったら堂々 と、「やはり人類は思う存分悪いことするべきですよ」と言わなければいけない。そういう思考は、頭がおかしい時、明確に考えられない時に出てくるものです。誰でも「あの人は悪いこと、残酷なことをやっているから、私のやっていることは大したことない」というふうに思いがちですが、そう思うのは思考が曇っているせいです。曇っていて、先が見えない状態なのです。

 明確に考えるならば、「これぐらいの罪だったらやってもいい」と思ってしまうと、「みんな悪いことをしてもいい」という話になってしまいます。互いに比べあって、「どれぐらい悪いことすればいいでしょうか」と。道徳とは、他人に関わるものではなくて、自分が社会とどんな関わりを持つか、ということです。たとえ他人のやっている大きなことに比べて小さいと思えたとしても、自分が悪事を犯したならば、それによって自分の社会関係が崩れるでしょう。他人が大きな罪を犯したならば、その他人様が社会の関係において問題を起こしているのであって、これは自分には関係ないのです。だから、「彼はあれほど悪いことをしているのだから…」という理屈は成り立ちません。

 私が社会とどのような関係を持っているか、が重要なのです。たとえ小さなミスでも犯しているならば、ミスを犯した自分がしっぺ返しをされているはずなのです。他の人が大きなミスを犯しているとしても、それはその当人の問題です。他人と自分を比べるということは、「あの人はご馳走を食べているから、私はご飯を食べなくてもいいや」という話でしょうに。しかし実際は、他人がご馳走を食べたらその人が満腹になるのであって、私には何の関係もない。私も満腹になりたければ、自分で食べなければいけない。道徳というのは、自分という個人と社会との関わりであって、他人とは比べられません。

 しかし、逆の場合は比べるのです。自分には善いことをする自信もないし、勇気もないとき、世の中の人々が善いことをして、素晴しく成功しているのを見たとします。その場合に「自分も頑張らなければいけない。自分も幸福にならなくてはいけない」というふうに思うことは「正しい思考」なのです。世の中で恐ろしい犯罪が起こったところで、「私のやっている悪事など大したことない」と思うのは明らかに邪見です。やはり少しでも自分の怒りを曖昧にすると、怒りを甘く見ると、巨大な犯罪にも繋がってしまうのです。

 だから「私はかすかな怒りにでも、甘んじてはいけない」というふうに考えなければいけません。なぜならば、自分の目の前に、残酷な犯罪を起こす人々がいるのだから。その残酷な犯罪を起こす人々も、自分の小さな過ちを無視してきたのです。自分の過ちを観察することなく、甘んじてきたのです。そこで感情が爆発して、大犯罪まで引き起こしてしまうのです。

「人と比べれば私は…」と言う人は、もう明らかにおかしな思考の持ち主なのです。そうではなくて、「こんな小さな感情でも、放っておくとここまで大きくなるのだから、気をつけよう」というふうに考えてほしい。ウィルスというのは、たった一個二個でも身体に入ったら、危険でしょうに。「あの人は病気に罹っているけど、私はウィルスに感染しただけですよ」と言って自慢していたら、どうなるでしょうか。「あの人はちょっと感染したところで、もう放っておいた。甘く見たから、いま死にかけているのだ。私も同じウィルスに感染しているのだから、絶対放っておいてはいけない」と、自分を厳しく戒めなくてはならないのです。理性のある人は、他人の罪をそのように観察するのです。

極端な例ですけど、「殺すなかれ」ということで言えば、戦争状態になってくると通常の道徳と逆転します。要するに国が命令する場合は、人をたくさん殺した兵隊が英雄になります。僕たちは平和な世界に生きているので、「人をたくさん殺したほうがいい」という道徳は成り立たないと思っている。しかし「人を殺すほうが正しい」という世界に生きていたと仮定して、そこで普遍的な道徳を守ると、かなり制約を受けるでしょう。自分の立場がなくなってしまう。家族も守らなくちゃいけない。仕方がないから兵隊に出て人殺しするか、ということになると思うのですが…

「国が命令したから人殺しに行く」といっても、それはあり得ない話です。みんな自分の意志で軍人になっているのです。もし国が、「みんな戦争に行かなければいけない」と強引に徴兵したとしても、その人が敵を殺さなかったらどうなるのですか。命令に従わなければ、それだけで成り立たないでしょうに。そうやって国のせいにしたり、軍事政権のせいにしたりするのは、情けないのです。戦争当時は自分たちも本気になってその話に乗っていたのに、後から「仕方がなく」というのは言い訳ですよ。もし国民が戦争に反対だと言ったら、終わりですからね。国には個人個人の意志をつぶすほどの力はない。自分に個人的な判断能力が欠けているから、他人の話にまんまと簡単に乗せられるのです。個人の意志が一番強いというのは事実です。自分自身の意志が歪んでいるならば、社会の意志も歪んでいる。そうするとまんまと独裁者や政治家や原理主義者やテロリストの餌になってしまう。ただ誰かに「釣られた」だけの話であって、結局は自分が悪いのです。
 
 悪いことは絶対的にどうしても悪いという立場で、個人個人がしっかりしているならば、戦争は起こりません。独裁者も成り立ちません。独裁政権が続くのは、国民たちが反対してないからです。独裁者たちが元気でいるのは、国民に拝まれているからでしょうに。そういうわけで集団的に社会が犯罪を行った場合でも、個人個人の思考、判断能力が歪んでいることに原因があるのです。個人がしっかりすれば、問題は解決します。
 
 国家の道徳という言葉を使っても、国家の目的は見え見えです。国民のため、と喉から血が出るほど叫んでいても、権力者は自分の権力を維持したいのです。戦争で勝ったら英雄として誉めたたえられるのは、名前が歴史に残るのは、その時、統治していた政治家でしょう。実際に戦争で死んでいく兵隊の名前なんかに、誰も興味を持たないのです。国家には、人のこころを管理できません。死ぬ時、国家は何もしてくれません。人を死後天国に行かすことは、国家の仕事ではありません。ですから、たとえ法律を作っても、たとえ国家が命じても、悪行為を犯さない方が、その人の幸福になるのです。

自分の行為が人の迷惑になるか否かということを知るポイント、基準はありますか

これは難しいことです。知る方法はないと思いますよ。なぜならば、これを判断するためには、我々は自分の考え方をいつでも明晰に保たなければいけない。感情に任せた行為は何一つもせずに、よく考えて行動しなければいけない。それを強調しているのは、「こうすると他人に迷惑だよ」とは一概に言えないからです。具体的に「これこれの行為は人様に迷惑だ」というマニュアルをつくることはできない。だいいち、そんな軽々しくものごとを判断しようとする思考は気持ちが悪いのです。「マニュアルをつくってください。マニュアルにあるものは止めます」というのは、怠けものの、思考力がない、無知な人の要求なのです。

 どんな行為が他人に迷惑なのか、なかなか判断が難しいということは、私も認めます。しかし、それでいいのだと思います。その場で考えて、その場で判断して、一旦やってみて迷惑になったと思ったら、「この行為は迷惑になったから、再びはやらないぞ」というふうに自分で決めればいい。そういう積み重ねが、自分自身のマニュアルになります。たとえば子供の躾をする場合でも、ある人はよく怒鳴って叱ると子供のためになる場合もあるし、怒鳴ったらまるっきり子供が駄目になってしまう場合もある。躾するときに怒鳴るべきか否かということも、個人のマニュアルになるのです。しかし、普遍的なマニュアルは成り立ちません。

 その代わり仏教では、物事をきちんとその場で判断する思考力、しっかりした理性を持たなければいけないと教えています。ブッダの世界では、マニュアルよりも理性が大事なのです。

ある人が、もしどうしても悪いことをするならば、一人で行え、他人を巻き込むな、その結果はすべて受ける覚悟でやれ、という戒めを残したそうです。そこまで覚悟して悪事を為すならば、中途半端な善人よりも立派な気がします

その言葉自体には、私は反対しません。なぜかというと、「どうしても悪いことをするならば、勝手にしなさい」という意味だからです。これは「他人に迷惑かけるなよ。悪いことをしたらもうすごく迷惑だから」という意味でしょう。しっかりしたことを言っていますよ。

 世の中にはいろんな悪いことをしておきながら、他人に泣きを入れて、「なんとか助けてください」などと哀願する人もいます。この格言は「世間に文句を言うような情けない性格はよくない」と言っているだけであって、「悪いことをしたら、ひどい目に遭う、人に迷惑をかける、悪い結果になるぞ」ということは理解した上で、人に厳しく戒めているのですね。この言葉を信じる人だったら、「悪いことをしたところで、私には誰も助けてくれる人はいません。独りぼっちになるのだ」と、よく解っているから、悪事を起こす気にはならないのです。

 だから、しっかりした言葉だとは思います。しかしそれでも、「中途半端な善人よりも立派な悪人がいい」という結論にはなりません。中途半端な善人のほうがいいのです。中途半端でも善いことをするのであれば、社会はその部分だけでも、その人のことを評価します。中途半端だから悪いこともするでしょう。その時は責任を持って、戒めたり叱ったり、立ち直れるように協力してあげる。でも、徹底した悪人の場合は誰も助けてくれない。覚悟をして悪事をする人というのは、もう極悪人たちでしょうに。たとえば日本では、普通の人が悪いことをしても、「やったことは悪いけど、やっぱりかわいそうだ」という感覚を抱くでしょう。

 極悪人に対しては、まるっきりそういう気持ちが起こらないのです。裁判でも、刑が軽くなったら、法律まで変えろと言うぐらいに腹を立てるでしょう。ですから、これは質問として成り立たないのです。徹底的に自分で責任を持って悪事をやる人は、頑固かもしれません。しかし、優柔不断な一般人が、それをありがたいと思ってはいけないのです。私たちは優柔不断で、いつでも心はあちこち中途半端に曲がっているかもしれません。それは善と悪の間で曲がっているだけ。心は自然と悪の方に傾いているのだから、「頑固でしっかりした性格だ」と思って、悪事を犯すことは簡単なのです。悪を働く人は、ただ恥を知らないだけ、先が見えないだけです。無知であればあるほど、馬鹿であればあるほど、悪いことは簡単に出来るのです。
 
 だから、優柔不断で中途半端な方がマシです。みんな完璧ではないのだから。悪いことをしたいという気持ちも現れるし、してはいけないという躊躇も出てくる。「善いことをしなくては」と思うこともあるし、「でもちょっと やりたくないなぁ」という気持ちもゴチャゴチャ回っている。それが普通なのです。しかしその優柔不断さのおかげで、私たちは大それた悪事を犯さずに済んでいます。だから、悪いことをする人を見て、「格好いい」とは絶対に思ってはいけない。よく見てみれば、すごい格好悪いのです。悪いことをする人は、なぜ逃げるのでしょうか。悪いことをして、「私がやりました」と堂々と出てくればいいのに。逃げ回って出てこないのでしょう? だから、性格は最低ですよ。決して誰の模範になるものでもないのですね。