未来について、将来を思うことは妄想か、瞑想することが最高の善
パティパダー2009年8月号(144)
・未来について
・将来を思うことは妄想か
・瞑想することが最高の善
ブッダの教えで「過去は存在しない」というのは分かります。でも、未来のことでどうしても引っかかるときがあります。例えば、今日、電話でお店に苦情を言ってきた人が、明日、文句をいいに乗り込んで来るかもしれない。そういうことは確率としてはパーセンテージで予測できると思うのです。未来のことはどう考えればいいでしょうか?
過去と同じく、未来も存在しないのです。未来はまだ形成されていないものです。こうなるだろうと予測できるが、確定はできない。しかし、予測してもそうならない可能性もあります。天気予報も同じことです。すごく技術は進んでいますが、すべて過去のデータに基づいた予報なのです。科学的にデータに基づいて予測する場合も、当たったり外れたりです。仏教では、未来も形成されていないもの、頭で合成した妄想概念としているのです。
我々の未来像も過去の幻想です。「明日、誰かが脅しに来るのではないか?」というのも明日のことです。過去のデータからイメージして、合成しただけです。未来と言っているものも、結局は過去なのです。過去は死んでしまったものです。しかもデータを感情で組み合わせている。だから、未来を予測してもほとんど当たらないのです。科学のように感情抜きにデータだけ組み合わせる場合は、7、8割はあたる可能性があります。しかしそれでもすぐ条件が変わるのです。我々が考える未来は、ほとんど人間関係、自分の人生のことです。その場合は、科学的なデータがない。人間の感情だけで考えているから、ほとんど当たらないのは当然です。
今日、苦情を言った人が明日脅しに来るかもしれないと言っても、明日、その人に何が起こるか分からないのです。電車が止まるかもしれないし、気分が変わるかもしれないし。人間関係は、その場その場の勝負で、いつでも現場で対処するようにした方がいいのです。脅しに来たと察知したら、相手が脅せないようにするにはどうするべきかと。現実を見ると、どんな対応をすべきかと自ずとその場で見つかります。この人は激怒しているんだ、と思ったら逃げるしかないと判断する。でも、はじめから逃げることを考えていてはダメです。過去に引っかかっていると現実の仕事ができなくなります。私たちは客観的なデータを取って事前に準備するべきですが、必ずその通りにいくということはないのだ、と覚えておいたほうが安全です。
日常生活では、未来を予測することはよく行います。充分、稽古をしてから本番の舞台に上がるやり方だと思います。何かの演目を決めたら、それを充分、稽古する。それから上演の日、自信を持って演じるのです。それは当たり前だと思うでしょう。その場合、演目はいま現在決まっているのです。それを稽古しているのです。しかし、上演の日は客の態度によって自分の心が変わることもある。劇場は満席のこともあれば、空席が目立つこともある。それによっても、気持ちは変わる。プロの役者は、上演後、今日の出来はどうだったのかと反省するのです。前もって計画を立てたからといって、うまくいくわけじゃないのです。劇場の話をもってきたのは、理由があります。演目を決めても、役者に即興で演ずることはできないのです。セリフを覚えることからはじまって、たくさん覚えることがあるのです。
日常生活の中でも、我々の能力がないのです。即興で対応できないのです。あれこれと前もって将来を予測して、準備してかまえるのです。仏教が、妄想にふけってはならない、感情に支配されてはならない、理性を育てなくてはならない、と言っているのは、問題が起きた瞬時に、たちまち対応できるように能力を向上させるためです。能力がある人は、明日のことで悩まないのです。
将来こうありたいと前向きに思うことは妄想でしょうか?
それはほとんど妄想の範疇なのです。いま自分が生きている環境を見て、何かに憧れるのです。その憧れた目的に対して、前向きにいろいろ思うでしょう。それも妄想です。遠い将来の目的に達するために、いま何をやるべきかと発見して実行すれば、簡単に目的に達する可能性があります。妄想かもしれませんが、たちまち実行に移さないと良くないのです。将来について、少々詳しく考えてみましょう。
質問を変えます。「将来のことを気になって考えてしまいます。妄想に時間を無駄に費やさないで生きるためには、どうすればよいのでしょうか? 具体的な将来のイメージはたくさんあるが、強いて言えば、単純に我々は幸福になりたいのです。幸福に達するためにどうすればよいのでしょうか?」このような質問なら、こたえられます。
人が将来のことに無関心で生きているとします。それはヤバい生き方なのです。何かの制御が必要なのです。簡単に言います。いつもベストを尽くす生き方をしましょう。いま瞬間やっていることは、何であろうともベストを尽くすのです。つねにベストを尽くす人がベストの生き方をしているのです。
「未来の計画」というのは、しょせんは汚れた怠け思考から起こるのです。将来の夢とは、欲や怒りによって汚れた心で計画を立てる。その上、大勝利をして楽をしたいと思う。それは怠けです。ですから、将来の夢とは、心の汚れと怠けがつくるものになります。当然、将来の計画も汚れていることになります。汚れた良くない計画が実現しても、幸福にはならないでしょう。いまベストを尽くす人は、本人も思いもよらない方向で幸福になります。将来の幸福を計画する人は、自分の幸福にすごいリミット(制限)をかけているのです。
将来の希望を作ることの問題を挙げてみましょう。
① 自分の将来に自分でリミットをつけることです。達成できるか否か五分五分です。
② 達成したからといって、幸福になるとは限らない。挑戦した人が、医者になった、画家になった、ということはありますが、それで幸福になるとは限りません。
未来にとらわれず、「やれるところまでやってやろう」という姿勢が正しいのです。それは気楽な態度ですが、しかし「何事もベストをつくすのだ」という態度でもあるのです。何かを勉強していて、いきなり皿洗いを頼まれたら、それも完璧にやらないといけない。何事もベストを尽くすこと。それが答えです。一分一分で何やっているかといえば、すごくシンプルなことです。一分単位でしていることはすごくシンプルです。だからベストを尽くす。簡単ですよ、妄想しなければ。ベストを尽くす人は、やれるところまでやるのです。我々が将来について具体的な期待を持つと、人生はあまり面白くなくなります。だから、未来にもひっかからないようにする。そういう立場でいる人には、けっこう将来が見えるようになるのです。
よく仏教では、「冥想をすることは最高善である」といいますが、なぜでしょうか? 一人でじーっと坐っているのは自分のことばかり考えているような気がするのですが、お布施や人助けよりも冥想の方が優れた善だと言われても、いまいちピンときません。
人を助けたり、ボランティアをしたり、国際スケールの大活動をしたりすることは、確かに世の中で派手に見えることで、高く評価もされるのです。インドのマザーテレサの活動は、世界的に評価されたのです。ノーベル平和賞も授与されました。確かに、何人かの人々は、人生の最後に、屋根のあるところで誰かに介護されて亡くなりました。亡くなった人々が、みな心穏やかに最期を迎えたかどうかもその本人しか分からないのです。苦労をしたけれど、インドの問題はそのままです。福祉はキリがないものです。
なぜ人は、苦労してまででも福祉活動をするのか。人の心はわがままです。自分のことしか興味がないのです。それはよくない心です。福祉活動をすると、自分の我儘は通らないのです。献身的にならなくてはいけないのです。自我が減って、生命のことを平等に憐れむことができたら、福祉活動した人は立派な人格者になっているのです。助けてもらった人にとっては、たいした助けにはならないのです。底知れない欲があるのです。もっと欲しい、と思っているのです。人を満足させることは不可能です。それでも、福祉活動すれば、自分の自我意識が徐々に無くなっていくのです。それが実った福祉活動なのです。どんな行動にしても、その行動の良し悪しは、行動で決めるのではなく、心の状況で決めるべきです。心が清らかになる行動は、良い行動になるのです。
心を完全に清らかにするためには、冥想の他に方法がないのです。病気になったら、病気になった原因を取り除くのが病気を完治することです。誰でも「性格の悪さ」という病気に罹っているが、完治するための治療を後回しにして、手当てばかりしているのです。手当てとはなんでしょうか? 悪いことをしないように「殺してはいけません」「盗んではいけません」と決める。守ってみようともする。それでも心は、誘惑に負けて悪行為をするから、法律も作ります。それでも、それを一部の人しか守っていないのです。法律に定められて良い人間として生きることは、応急手当てに過ぎないのです。法律が怖くて盗まないけれど、「盗みたい」という気持ちはなくならないのです。ただ脅されてやらないだけ。盗みたいという気持ちをなくすためには、冥想しないといけないのです。冥想で自ずから、自然に心が清らかになるのです。心を清らかにしたいという人には、冥想するしかないのです。最高善とは、清らかな心のことなのです。
人助けと言っても、一人の人間にはどれだけ助けられるでしょうか。一人の人間にはそれほど能力がないのです。一人、二人、助けたところでお手上げです。たとえばインドに行って乞食を助けてあげようとして、お金を出したら、最低200人くらい来て群がります。人助けは決して悪いことではないのです。善いことです。しかし、どこまでやるのか、一人でどれだけできるのか、ということを考えないといけないのです。布施や人助けが最高善だということにしたら、心を清らかにすることに、明らかに限界が生じるのです。人間の要求にはキリがないのです。だから仏教はいつでも中道的な立場で、人々に「自分の足で立ちなさい」という態度をとるのです。自分の足で立てなくて困っているならば、ちょっと手は貸してあげるのです。それが仏教が推薦する福祉なのです。助けられた人は、自分で努力して幸福にならなくてはいけないのです。
人助けにはいろいろあります。食べ物をあげたり、職業訓練をさせたり、井戸を掘ったり、植林をしたり、学校や家を作ってあげたり、などなどです。しかしそういう基本的に人間にとって必要なことは満たしている、日本みたいな国々の人々は、いったい幸福なのでしょうか? それだけで人生は完璧なのでしょうか? 我々が人助けと言ってやっているのは、人間としての基準も満たすことができない人々を助けることです。ここまで科学・経済などが発展しているにもかかわらず、栄養失調で子供が死んでいる世界というのは、情けないのです。地球の財産を独り占めにして、幸福三昧で生きている人々の生き方の結果なのです。ですから、福祉活動などは、自慢できる善行為というよりは、豊かな人々がやらなくてはいけない義務だと思います。税金を払うのと同じことだと思います。「私は税金を払っているのだ」と自慢できるでしょうか? それでよい人間になるのでしょうか? 当たり前のことでしょう。福祉というのは豊かな人々が義務として行うべきだと思います。
仏教がいう本当の人助け、福祉があるのです。人々の心を清らかにするために助けることです。福祉活動などは、最高な善になるならば、矛盾が生じます。慈善事業で助けてもらう立場のかわいそうな不幸な人々がいないと成り立たないことです。自分が徳を積むためには、だれか不幸な人がいないといけない。これはおかしなことです。
助けないといけない人がいるのは事実です。素直に助けてあげましょう。助けてあげたと自慢することになると、エゴが強くなって心が汚れてしまうのです。自分がやれる範囲で他人のためにできることはするのは人間として当然のことです。清らかな心こそが、最高の善です。苦しんでいる人がいてもいなくても、一人ひとりに実現できる行為なのです。冥想は最高善だという場合は、矛盾は生じません。
人が死を迎えたとします。そこで死後が決められることになります。福祉活動のリスト、守った道徳のリストなどで、決められないのです。どのように生き方をしても、その生き方によってどの程度で心が清らかになっているのか、汚れているのか、ということで自ずから死後が設定されるのです。心の状況なので、「閻魔様」のような裁判官はいらないのです。死ぬ時は、心の状況によって「次の生まれ」が現れるのです。心のダメージを無くして完全な心を作るのが冥想です。ですから、心を治すということに関して、冥想に勝る善があるのかと、逆にお聞きしたい気持ちです。