No.282(2018年8月号)
時間という津波
時の流れとは破壊の流れ Claws of time
今月の巻頭偈
Accentisuttaṃ(SN 1.4)
「時は過ぎ去る」経(相応部 1.4)
- ‘‘Accenti kālā tarayanti rattiyo,
Vayoguṇā anupubbaṃ jahanti;
Etaṃ bhayaṃ maraṇe pekkhamāno,
Puññāni kayirātha sukhāvahānī’’ti.
‘‘Accenti kālā tarayanti rattiyo,
Vayoguṇā anupubbaṃ jahanti;
Etaṃ bhayaṃ maraṇe pekkhamāno,
Lokāmisaṃ pajahe santipekkho’’ti.
- 時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
安楽をもたらす善行をなせ。」
「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。」 - (和訳 中村元『ブッダ 神々との対話』岩波文庫より)
自然に感謝する?怯える?
より怖いのは地震ですか? 津波ですか?
津波の親は地震です。しかし、陸上の地震で現れる災害はそれほど大きくありません。津波の破壊力は地震よりも遥かに大きいのです。津波は何も残さず、すべて壊します。だから、津波のほうが怖いのです。怖いといっても、津波と地震は決して異常現象ではありません。自然現象そのものです。私たちは、自然の中に生かされている生命なのです。自然の流れがなければ、命は成り立たない。だから、雨には「恵みの雨」といいます。太陽は神様あつかいです。大地は地母神なのです。自然の流れにそこまで言うならば、なぜ地震は「恵みの神」にならないのでしょうか?
なぜ津波は「わだつみの神」ではないのでしょうか?
私たちは地震・津波・竜巻・地滑り・雪崩などに「怖い、怖い」とおびえていますが、自然現象を怖がる必要はないはずです。自然の流れがあるからこそ成り立っている命でしょう?
たとえで言うならば、毎日おいしい料理を作ってくれる腕のいいシェフのことを鬼だと思って逃げ回るようなものです。理由があって、地震・津波などにおびえるのはおかしい、と書いたのです。そんなこと言われても、やっぱり怖いものは怖い。結局、人は死ぬことが怖いのです。自分の財産、家族などが無くなることが怖いのです。まとめると、項目が二つです。①死ぬことが怖い。②命を支えてくれるものが無くなるのが怖い。
理由が成り立たない存在欲
ひとは生きていきたいのです。死にたくはないのです。では、伺います。なぜ、あなたは生きていきたいのでしょうか?
具体的にそのわけを示して答えてください。この問いには、まったく答えられないと思います。答えられないからこそ、私から無意味で決して成り立たない質問をされたような気分になっていると思います。でも、私は「蛇に足が何本ついているのか?」と質問したわけではありません。兎の角の色を訊いたわけでもないのです。生きていきたいのは、あなたです。死にたくないのも、自分の財産を失いたくはないのも、あなたです。家族や財産を失うと派手に悩んで、泣きわめいて、精神的にもおかしくなるのは、あなたです。「生きていきたい、死にたくない」という気持ちはそれほど具体的なのに、「なぜ?」という一言を入れたとたん、質問した人がバカ扱いされるのです。
悲観主義者は世間?仏教?
俗人は、仏教の世界観が厭世的・悲観的で阿呆な考えだと思っています。仏教のほうは、俗人の世界観こそが厭世的・悲観的で無知な考えだと堂々と説くのです。互いに罵りあっても堂々巡りになるので、結論を見つけましょう。世界は幸福を目指して頑張っている。不死と安穏の境地を目指して頑張っている。その努力の結果、苦しみがさらに増える。悩みがさらに増える。わずかな安穏があるとしても、それも消える。たまたま楽しみを感じても、たちまち不安に陥る。これは具体的な結果です。不幸が具体的な結果であるならば、その道を決めた考えも厭世的・悲観的に決まっているのです。仏教は表面的に厳しい言葉をいいますが、仏道を実践する人々は安穏に、やすらぎに達するのです。微笑んで生きているのです。老いてゆく肉体に苦痛が起きても、精神的な苦しみは無いのです。病に罹っても、こころは安穏です。死ぬ間際になっても、俗人のように不安に怯えない。「待っていたよ」という気持ちなのです。道を歩んだ人がその結果、幸福に達するならば、その教えほど楽天的・楽観的なものはないと思います。
仏教の弁明
これも、仏教の独善的な判定であると思われるかもしれません。そこで仏教が用意している弁明があります。俗世間的な生き方で、将来を心配することがまったく無く、安穏に生きられる人はいるでしょうか?
死を微塵も怯えない人がいるのでしょうか?
欲・怒り・嫉妬・憎しみ・怨み・傲慢・卑下慢・無知などで汚染されない、侵されない、こころを持っている人がいるのでしょうか?「全知全能の神様に完全に守られて可愛がられているから安全だ」と言う人はいるかもしれませんが、それはアウトです。なんの証拠もない概念にしがみついて酔っているだけのことです。そのような人にも、不安があるのです。
全能の神は時間です
仏教的に世界を観察しましょう。物質的な世界にも、世界に住む生命にも、どうすることもできない法則が存在します。絶対的な能力を持っている「神」だと思っても構いません。全知とは言えないが、全能の神です。他宗教は神に出会ったことがないのです。仏教は全能の神と一緒に生活しています。全能の神を紹介いたします。古い言葉でいえば、「日夜」です。現代的な言葉でいえば、「時間」です。時間とは人間が人工的に考えた概念にすぎませんが、日夜とは具体的です。地球の自転によって、日夜は精密に回転しているのです。日夜の回転で、人が気づかない現象が起きます。気づかないというよりも、気づきたくない、否定したい、攻撃して潰したい、と思う現象です。それは、日夜が津波のように押し寄せることです。地球にも、そちらに住む生命にも、その津波から逃げることはできません。津波に呑まれたらどうなるか、皆知っているでしょう。愚か者は昔から、日夜の回転を讃嘆してお祭りをしてきました。日夜を有難がっていたのです。日の出を拝む習慣は、いまも日本に残っていますね。
時間は破壊者です
日夜はすべてを破壊します。守ることなんかはしていないのです。朝、目覚めたら、あなたが一日年を取っている。あなたの死が一日近づいた、という意味です。あなたの寿命は日夜によって縮んでいく。あなたの若さ、体力、能力、美貌が奪われていく。無知な人は、「今日一日がんばって幸福になりましょう」と空しいスローガンを掲げてがんばっています。表面だけを見ると、昨日より何か獲得したような気がします。学校に行ったら、何かの知識が増えたような気がします。運動したら、体力がついたような気がします。仕事をしたならば、収入を得たような気がします。財産が増えたような気がします。結婚したら家族が増えたような気がします。自分に子供まで現れたような気がします。しかし、それは本当でしょうか?
それらは一つも「自分のもの」ではないのです。
森に入ったら、樹に登ることができます。でも、その樹は自分のものではありません。家に持って帰ることはできません。夏、海水浴できますが、海は自分のものではありません。地球がつくりだす食べ物をたべているが、それも自分のものではありません。日夜という神様が、すべてを壊していく。休むことなく、壊してしまうのです。それが自然法則です。すべての現象は、壊れていくのが法則です。地球が自転することも法則です。地球の自転に対して、あなたにはどうすることもできません。地球の自転を変えるのではなく、地球の自転に合わせて、あなたの生き方を変えなくてはいけない。「私の身体」と誇示しているが、それは地球のもので、あなたのものではありません。地球の物質は、日夜の神に絶えず壊されているのです。
時間に対抗できません
新たな日が現れることは、「新たな生き方が現れた」ではなく、「昨日より現象が衰えた、壊れた」という話なのです。私たちは夜、活動をやめて休むと思っているが、日夜の回転に停止はないのです。夜もすべての現象が壊れて、衰えてゆく。これが現実です。「無明」というお化粧箱を開ければよいのです。「今日一日、明るくがんばりましょう。より幸福な、よりよい明るい人生を築きましょう」とがんばる人々は、現実を見ていません。「日夜、すべての現象が衰えて、壊れていくのだ」という事実を、無明というお化粧箱に封じ込めているのです。
猛毒を持つ蛇がいるとしましょう。表面的に美しくかわいく見えたといって、手を出して掴んだら、たちまち蛇にかまれて死にます。美しく見えても、蛇が猛毒を持っていると知っていれば、余計なことはしないのです。たとえ、ふざけて捕まえたくなっても、決して噛まれないように掴む技を知っているのです。「すべての現象は無常ではない」という錯覚で生きる人は、毒蛇の表面的魅力に惹かれて、むやみに掴もうとする人と同じです。彼らが収穫できる結果は、悩み・苦しみ・不幸・憂い・悲しみだけ。仏教用語でいえば、生老病死です。
愚か者が死におびえる
「日夜」を正しく観察しましょう。とはいっても、日夜は自然法則なので観察する必要はないのです。正しい日夜の観察とは、日夜の回転において、自分自身と周りが壊れていくプロセスを観察することです。もし観察するならば、人間ほど愚か者がいるのかと、びっくりすることにもなるかもしれません。なぜならば、人間は死にたくはないのです。「死ぬ」という概念に怯えるが、現実的には肉体が壊れるということが嫌なのです。死の経験は無いけれど、他人が死ぬことは知っている。それなら、「自分も死ぬのだ」と納得すればよいのに、反対に「死にたくない」と感情を剥き出しにして怯えるのです。自分の身体が壊れていくこと、衰えていくことの経験はあるはずです。それを嫌がっても、肉体は自分のものではありません。日夜の回転のなかで、地球の物質を組み立てて現れた身体なのです。現れる過程でも、壊れていくのです。
理解できないならば、海岸で砂のお城をつくって遊んでいる子供たちを観察してください。砂のお城を作れないわけではないが、作っている過程でもそれは壊れていきます。子供が「せっかくつくった砂のお城を、そのまま残しておきたい」と泣いても仕方がないのです。子供の希望を叶えてあげることはできません。死に怯える愚か者たちも、身体を海岸でつくっている砂のお城のように感じる必要があります。それが、悩み苦しみを超えて幸福に達する方法です。賢い子供なら、かっこいい砂のお城をつくるでしょう。それから、波によってそれが壊れてゆく過程も笑いながら観察するでしょう。自分が苦労して積み上げた砂が、じわじわと崩れていって、もとの砂浜に戻ることを見て、ホッとするでしょう。真理を知っている人々は、命に対してもこのようなアプローチをするのです。
あるも無いも苦
「ものがある」ということは、苦しみになります。「自分に身体がある」という錯覚が苦しみになります。「身体を支える様々なものがある」ことも、苦しみになります。とはいっても、「無い」ということも苦しみです。身体はあるが、その身体に眼が無い、聴覚能力が無いとするならば苦しみです。足が無いことも、手が無いことも苦しみです。身体の部品が揃っていても、それを支えるために必要な衣食住薬が無いことも苦しみです。美貌の身体があることも苦しみです。なぜならば、それを苦労して守らなくてはいけないからです。必死で美貌を守ったからといって、現象は壊れてゆく。美貌が失われたら、なおさら苦しい。だから、「あることは苦、無いことは苦」と理解しなくてはいけないのです。
ある女神が、お釈迦さまを訪ねて一つの偈をうたいます。
時は過ぎ去り、日夜は回る。〔時の支配下で、〕寿命・能力などは徐々に無くなる。
死の恐怖を観察し、幸福をもたらす功徳を積むこと。
功徳を積んでも苦は消えません
この女神は、自分の理解を発表したのです。でも、この答えには問題があります。功徳を積むことを推薦しているからです。功徳を積んだ人は、死んでも幸福なところに生まれます。この女神と同じくなるかもしれません。女神が人間の生き方を見たところで、自分よりかなり苦労してやっと生きている姿を見ていたでしょう。自分は過去に功徳を積んで、いま女神になって楽に生きている。だから、功徳を積むことを推薦したのでしょう。しかし、この女神は時間の支配から抜けていないのです。新たな生まれを作ったからといって、絶えず変化する現象の無常は止まりません。女神であっても、老いて死ぬのです。死にかけてゆく生命が新たな命を期待することは、苦しみを乗り越えるための答えではないのです。「首を吊って死ぬか、川に飛び込んで死ぬか、ビルから飛び降りて死ぬか、どちらが幸福でしょうか?」と訊くようなものです。いずれを選んでも、結果は死ぬことでしょう。
女神の偈に、釈尊がこう答えます。
時は過ぎ去り、日夜は回る。〔時の支配下で、〕寿命・能力などは徐々に無くなる。
死の恐怖を観察し、安穏を求めて執着を捨てること。
智者は執着を捨てる
すべては無常で、壊れてゆくものです。無知な人は、壊れてゆく現象に執着します。執着とは、無理な行為です。たとえば、身体に執着する。身体がそのまま変化しないで若さと能力を保ったままで続くことを期待する。そんなものは、あり得ない話です。期待は、瞬間瞬間、潰えてゆく。潰えるたびに苦しみ、悩むことになる。憂い悲しみに陥ることになる。また、人は身体を維持管理するために、眼耳鼻舌身意から色声香味触法を受け取って、こころを刺激します。それで、生きている気がするのです。ということで、色声香味触法にも執着しなくてはいけなくなる。眼耳鼻舌身意も無常で変化するし、色声香味触法も無常で変化する。執着したくても、執着しようがないのです。執着があっても無くても、眼に色が触れます。執着を抱いて悩み必要なんて無いのです。砂のお城をつくることが楽しみだったなら、お城が壊れて元の砂浜にもどる過程も楽しんで観察すればよいのです。砂のお城に執着することは、愚かな行為です。
愚かな人が、地球の自転を嫌がっているとしましょう。彼は地球の自転をストップしたいのです。しかし、どのように工夫しても地球の自転を止めることは不可能です。それが自然の法則です。彼がとるべき正しい態度は、地球の自転は法則だと理解して、放っておくことです。落ち着くことです。無理な期待である「地球の自転停止」を諦めることです。仏教用語では、「一切現象に対する執着を捨てなさい」というところです。死にゆく人に対する答えは、「功徳を積んで善いところに生まれ変わること」ではないのです。「すべての現象に対する執着を捨て、究極の安穏に達すること」が答えです。
今回のポイント
- 自然のおかげで命が成り立っている
- 生命は自然におびえる
- 死にたくない気持ちは法則違反
- 無常の流れに太刀打ちできません
- 現象に執着する人は苦しみに陥る
- 無執着は安穏の境地