2018年7月号
故人のために泣くのは悪行為であるーー「私は死なない」という邪見
俗世間では死を恐れて、タブー視して、「放送禁止用語」にしています。それでも、死を逃れられないので、誤魔化しをするのです。「あの方は天国に召されました」などとよく言われるでしょう。それで、「本当に天国に召されたのですか?」と聞き返したら、その宗教を冒涜したことになってしまいます。
信仰の違いや有無に関係なく、人は死ぬのが怖いのです。だから見ないことにする。そこで、「他人は死ぬけど、私は死なない」という態度で、故人のために泣き叫ぶのです。故人のために泣くというのは酷い自我のあらわれで、悪行為です。「私は死なない」という傲慢無知な態度で、他人の死を嘆き悲しむ。これは酷い悪業で、邪見から来る無知のあらわれなのです。誰だって真理を知らないから無知です。しかし、真理と逆さまの邪見まで持ってしまうと、これは極めて危険なのです。
われわれは、「私は死なない」というアベコベの嘘を哲学にして生きているから、世の中はトラブルだらけです。人間は短い時間しか生きられないのに、餓鬼道の生命のように怒り憎しみ執着で生きている。業の法則からすると、人間に生まれるというのは、一等賞の宝くじが百万回連続で当たるくらい難しいのです。それぐらい、ありえないチャンスで人間になったのに、ほとんどの人は、人生を無駄に使ってしまう。ものすごい競争を勝ち抜いて、百兆くらいの生命を抑えて母胎に入ったのだから、その時の恐ろしい攻撃態勢は心に残っています。
しかし、人間の肉体を持ったら、寿命はとても短いのです。だから、私たちは一日一日大切にしないといけない。あれほしい、これほしいと欲を刺激したり、怒り憎しみ嫉妬で他人と争ったり、肉体の健康のためにクダラナイことをしたり、そんな暇はないのです。あるいは、子供は自分のものだと執着して、子育てに失敗する。子供は学校や社会で、自分ひとりで学ぶものです。親が子供に教えられることなんて、せいぜい「人と会ったらきちんと挨拶しなさい」くらいのこと。そんな簡単な子育てすら失敗する。これもすべて、「私は死なない」という邪見の賜物です。
他の動物と違って、人間は業任せでは生きていられません。知識とものごとを判断する能力が必要です。この能力を使って、仏教は人々に不死の境地を教えているのです。他人の死に接したら、嘆き悲しむのではなく、「やっぱり、いつだって、突然ひとは死ぬんだ」と、死を自分に当てはめなくてはいけない。そう思ったならば、「彼が亡くなって悲しいね」とか「いい人でした」などという気持ちにはならないはずです。「私も死ぬのだ。心を清らかにするチャンス、煩悩を無くすチャンス、人間に生まれないとできない修行のチャンスを決して無駄にしてはいけないのだ」という強い危機感が生まれるはずなのです。そして、その危機感こそが、解脱へのトリガーになるのです。