智慧の扉

2018年12月号

タイトルに騙されないこと

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 タイトルとは何でしょうか? たとえば、本を手に取ってみてください。派手なタイトルがついています。『物理学の基礎知識』というぶ厚い本にしましょう。タイトルは理解できます。しかし、タイトルだけで中身がわかったことになりますか? 実際のところ、タイトルには何の意味もなくて、ただ少し方向性を示しているだけなのです。物理学を勉強しようとする学生が本を紐解いて、一ページ、二ページと順に読み通して、最後のページまで進んでいく。それで初めて中身を理解できるのです。

 私たちの人生は、いつでもこのタイトルに騙されているのです。タイトルを見ただけで、内容を理解したつもりになって終了しようとする。たとえば、私たちは瞑想という修行をしています。基本的な瞑想は、立つ・歩く・座る、という三つです。そこで立つ瞑想を始めると、皆さんは一目散に立ち上がろうとします。ほら、すでにタイトルに騙されていますよ。要するに、立つ瞑想を一切やっていないのです。やっていないのだから、瞑想しても何も発見できず、何も理解できず、何の精神的な安らぎも得られないはめになる。「また立つ瞑想か……つまらない」「立つ瞑想に意味があるのか?」「いったい何分立っていればいいの?」「あと何分で終わるだろう」と、ただストレスを溜めてしまう。苦しみを無くすために瞑想をしたのに、始める前よりも多くの苦しみを作ってしまう結果になるのです。

 それはなぜか? タイトルに騙されたからです。タイトルに騙されるということは、無知だという証拠です。ブッダの瞑想は無知を破って、智慧を開発するためのものです。無知を破ることが、すなわち智慧なのです。そのためには、立つ瞑想を正しくやれば、それだけでも十分です。

「立つ」ということは、現れてくるある状態、一つの瞬間なのです。しかし、ただ「立つ」ということを行うために、いまの瞬間にやらなければいけない、小さな行為が無数にあるのです。その無数の小さな行為がなければ、「立つ」という状態は現れてこない。「立つ」という状態が現れるためには、順番も正しく行わなければいけません。順番を飛ばしたり、変えたりすることは絶対にできません。ですから、理性のある人はタイトルに騙されないで、「いま何をするべきか」と確認するのです。そうすると、次にやるべき行為が自ずと見えてきます。その人には、タイトルは中身のない、ただの矢印に過ぎないのだと理解できるのです。